【来信】
  交信箱の「心傷ストレス後遺症」を拝見いたしました。私にも似たような経験があります。私の場合は、大学四年時に突然、何の前ぶれもなく、電車の中で吐き気、恐怖感、全身虚脱感といったわけの分からない状態におちいり、以後数年間、乗り物にも乗れず、広場にも狭所にもいられず、感覚が極度に敏感になり、食事も思うようにとれず、目が覚めている時はいつも悲しく苦しく耐えられない、そんな症状が続きました。
  今でいう「パニック症候群」というのに当たるかと思いますが、とにかく辛かったです。医者を含め、周囲が理解してくれませんでしたし、「信仰を持っているのに、何故?」という気持ちもありました。神様から見捨てられたような感じを抱いていました。毎日苦しいので、祈るのですが、少しも改善されませんでした。おかしいのは体調だけでなく、聞いた言葉が覚えられない、相手の心が読めてしまうという感覚、音が視覚化してしまう感覚、自分が自分でない感覚といったものもありました。奇妙な場所に自分一人が置き去りにされてしまったような孤独感がありました。感情的に心はいつも暗黒で、腹の中に黒々としたものが住んでいるとしかいいようのない感覚がついてまわり、「悪霊に取り憑かれたのか」という不安もありました。通院しても一向に良くならず、運動、散歩、気功、ヨガなど、思いつく限りの事をしてみましたが、身体の中に疲労が蓄積されるだけで、かえって消耗してしまいます。朝、目をあけると悲しみが胸にひろがってきて、夕方は特にそれが激しくなりました。そんな毎日が苦しくてたまりませんでした。
   さて、そんなどうにもならないところをさまよっていた私でしたが、ある日、職場で仕事をしている時、突然「イエス・キリストの十字架は、私の完全な救いだ。これは何ものも阻むことのできない神の救いだ。私はすでに完全に救われている。たとえ、このまま自分は死んでしまっても、大丈夫。それでも天国なのだ。」という確信が頭のてっぺんから身体を貫いて、電撃のように打ち込まれました。その頃、ガラテヤ書の講解を読んでいたこともあったのだと思いますが、ともかく嬉しかったです。平安が心に満ちていきました。それをきっかけとして、私の心の中に、キリストの救いの光が徐々に広がっていき、それに伴って、心の中にうごめく影は消えていきました。私が異言を伴う聖霊のバプテスマを賜わったのは、それからいくらも経たないある日のことでした。
  交信箱では、この問題を現在の医学用語でくくって、「だから自分は苦しむのは当然だ。信仰を持っていても、現実にあるものは、あるのだからしょうがない」と結論づけてしまっているように読めましたが、でも思ってもみないところに解決はあるものです。正直、私も八方ふさがりで、孤独でした。あきらめに似た気持ちで、神様にこの身を投げ出さざるを得ないような時に、ふと十字架のみもとに膝をつき、しがみつくことができていたのです。自分が喜ぶ日はもう二度と来ないのだ、と本気で思っていましたよ。でもイエス様はかならず解決してくださる。今では自信をもってそう言えます。思い返せば長い時間でしたが、その出口の見えない長い時間は、必ず益となるように変えられます。私の体験と感想でしたが、何かの御参考になれば幸いです。

【返信】
    メール有り難うございました。「心傷ストレス後遺症」というのは、私が、Post Traumatic Stress Disorderという訳語から自分なりに訳した言葉で、学問的には違った呼び方があるようです。私の大学の心理学の教授からうかがったところでは、現代ではさまざまなストレスが複雑に絡み合って流行しているためでしょうか、ある時突然に全く何の理由もないのに吐き気やめまいを覚えるといったケースが最近増えているということです。これらは一応理由がはっきりしている「ストレス症候群」とは区別して考えられているようですが、その境界は必ずしもはっきりないようです。あなたの「パニック症候群」というのもそのひとつに属するのかもしれませんね。
    ただし、御霊の体験に伴って、他人の心が読める、あるいは言葉が視覚化される、また孤独感に陥る、自分の心の中に何か恐ろしい罪深いものが宿っていることを認識する場合があります。ただし御霊にあっては、これらの問題も根底的なところで支えられているという安心感があります。ですからこれは、心の病とは異なっていると思います。似ているということと、同一であることとの間には大きな開きがありますから。例えば、がん細胞は健康な細胞と極めてよく似ていますが、その働きは全く逆で、生と死ほどの違いがあります。麻薬による「想像力=空想力」と霊的なヴィジョンとの相違関係もこれと同じです。
    現在の日本では、社会の不安定な状況に伴って、さまざまなストレスが発生しているようです。私が、御霊の働きとこのようなストレスとの関係を交信箱でとりあげたのもそういうところから来ています。第1には、社会において避けられない様々な外的な要因から来るストレスを、どうすれば心の傷とならないように防ぐことができるか? 第2に、たとえそのような心の傷を受けても、どのようにすればそれを取り除いたり、あるいはそこから癒されることができるか? この2つを御霊の働きに導かれてできないだろうかと考えたわけです。ここには、たとえ傷が癒やされなくても(病気の場合と同じように、癒やされない場合があります。特に傷が深い場合には)、その傷と向かい合っていく、あるいはそれを御霊にある導きで「克服していく」という解決の仕方も含まれてくると思うのです。ただ問題が、身心医学と霊的な世界とが結びついている分野になりますので、これを正しく認識し、これに正しく対処する方法を見つけだすのはなかなか難しいようです。しかし、たとえ難しくても、このような心の傷とその障害は医学的な問題であるから仕方がないという立場をとっているのではありません。御霊にあってきっとなんらかの対処の仕方と解決できる道があるはずだと信じています。その意味であなたからの証しは、それが聖霊体験とはっきり結びついているだけにとても貴重です。さらに専門的あるいは霊的な立場から、この問題について、ご意見なりご助言をお寄せいただけると幸いです。

【再来信】
     私の「他人の心が読める、あるいは言葉が視覚化される、また孤独感に陥る、自分の心の中に何か恐ろしい罪深いものが宿っていることを認識する」といった体験は、霊的なものではあるけれど、聖霊から来たものではない、と私は理解しているのですが、先生はどう思われますか。
 その理由として、
病気が治るにしたがって消えてしまったこと。
今までの自分とはまるで違う力を実感した(たとえば、それまですぐに風邪をひいてしまうひ弱な私でしたが、絶対に風邪をひかない、という確信があり、事実いくら寒いところにいても風邪をひきませんでした。)ものの、まったく平安がなかったこと。
腹の中に、「黒々とした何か」を非常にリアルに感じ、これは悪霊としか表現しがたい、と感じていたこと。
自分が自分でない感覚が、終始つきまとっていたこと。
が、あげられます。
   私見ですが、霊的体験はそのあらわれた現象面からは、正邪が判断できない、実は人間にはまだ良く知られていない精神の未知な領域があって、誰が霊的な主人となっているかで、現れる現象面は同じようなものでも、それが結ぶ実が異なってくる・・・そう理解したいと思うのです。しかしながら、私の病気体験は、結果としては、十字架を深く受け取る契機となり、聖霊を具体化される契機ともなっているのですね。そう考えると、よくわからなくなります。「すべてのこと相はたらきて益となる」ということで、結果的に益となったのかと思っておりますが。
   ともあれ、この体験は私に、病気というよりも、霊の世界の現実性を強く印象づけました。そして、キリストはどんなどん底で光が見えないところにいる者をも確実に救って下さる。そのことを知ることができました。もし私と同じようなところを通られて苦しんでいる方がいらしたら、「かならず光は来るよ」と言ってあげたいと思います。

【再返信】
   ご質問はお察しの通りになかなか難しい問題を含んでいます。うまく答えられるかどうか?
「何か黒い固まりのようなものがあるのを感じる」ということ、あるいはこれに似たことは、鬱をも含めて精神的に不安定な状態の人からよく聞かされることです。わたし自身はそこまでの経験がないので、断定的なことは言えませんが、霊的に全く無知な人には、自分がそういう得体の知れない「力」に支配されているというそのこと自体さえ意識しない、あるいは気がつかない人がいるのではないでしょうか? もっともこれはかなり重症な場合でしょうが。
  これが、信仰のある人、あるいは聖霊体験があり霊的な視野を持つ人の場合は、そういう視野を全く持たない人とは違ってくるように思います。彼/彼女は、自分の内に働く「霊力」をある程度洞察することができるからです。ただし、それが直ちに「悪霊」であると決めつけることはできません。「悪霊」とか「サタン」とかいう言葉は、それが自分に対してであれ、他人に向けてであれ、よほど注意して遣わないと誤解や危険を生じると思います。私がそういう力を信じていないからではなく、逆に聖書的な意味で、その存在を信じるからです。
  一般的に言えば、霊的な宗教現象や神話や夢の世界では、「正邪」の区別はあまり意味を持たないと言えます。同じ表象が完全に正反対の性質を帯びて現われる世界ですから。この意味で、宗教は、道徳や倫理とは異なり、「無道徳」な一面を持ちます。これが宗教の特徴でもあり、またそこに潜む危険性でもあります。 聖霊体験を持つ人の視点は、この意味でとても重要です。なぜなら、彼/彼女は、自分や他人に働く霊的な力を「見抜く」力、聖書的に言うなら「霊を判断する」力が具わるからです。ただしこれもそれなりの訓練が要りますが。「霊を判断する」能力を具えた人のことを聞いたり読んだりすることがありますが、わたし自身は、この点でまだ確信があるとは言えません。しかし、御霊にある人は、霊的に無知な人たちには分からないこと、すなわちその人たち自身が、全く意識していない「別の力」に操られていることを洞察することができるのは確かです。だからこそ、彼らを直ちに悪霊やサタンと結びつけたり同一視したり<しない>で、彼らに対して正しく対処する知恵を働かせることができるのです。
  あなたの言われる「自分の内で苦しみをもたらす霊的な力」についてですが、例えば、一般の人は自分に潜む「罪の深さ」を意識することがあまりありません。しかし、霊的なクリスチャンであれば、自己の内面的な罪を洞察することができます。このような洞察が「御霊の働き」から来るのは、パウロが言うとおりです。しかし、意識された「罪それ自体」は、御霊から出ているものでないことも明らかです。さらにそこから、御霊に照らされて明らかにされたものは、赦され、癒やされて解決される方向へと向かうのです。
  だからあなたに働いてあなたを苦しめていた霊的な力が御霊から出たものではないというのは、正しい判断だと思います。御霊から出たものであれば、そこに必ず「愛が働き」、さらに重要なことには「平安」が伴うことです。「愛・喜び・平安」の三つをパウロが御霊の働きの最重要な指標にしているのは、この点で重要だと思います。例えば「人を洞察する力」それ自体に善悪はありません。サタンも悪人も人並み以上に「人を洞察する」能力を持っています。私がガン細胞や麻薬による想像力をあげて、似ていることは必ずしも同じではない。その反対の場合があるというのはこのことです。これのもっとも典型的な例が、神の「愛」と、いわゆる情欲と呼ばれる「愛」との違いですね。スペンサーが、このふたつをlove とlustと呼んで正反対のものとしたのはこのためです。
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