【来信】
    「パニック症候群から癒やされました」を拝見しました。証としてはすばらしいのですが、普遍化する場合釈然としないものが残ります。この問題は単純に今日的な問題ではない、「苦しみや試練というものをどのようにとらえるか」にまでさかのぼる深い問題であるように感じます。明らかに原因が分かる何重苦の場合には、「神にすがれば解決がある」「解決が与えられないのは信仰が弱いからだ」と間接的にせよ言われているように感じることは、当人にとって非常な悲しみでしかありえないと思います。
    しかしその方にしても、信仰の確信を与えられる前までは一定の期間、暗闇の中に置かれていたのでしょう。定められた時が来て、その方は確信を与えられることによって解き放たれた。信仰があっても定められた時が来るまでは出られなかった。それはその方の与えられた「導きの時」ではないでしょうか。
   たとえ腹の底にちぎれそうな喜びがあっても、ふとした瞬間におとずれる悲哀感。一日に三時間程度祈りに費やしてです。それを人間として例えば「薬の副作用」や「障害受容の過程の一つ」「ストレス反応」として、あって当然のこととして受け止めるという態度は、果たして不信仰なのだろうかと思います。祈りの時間がもっと増えれば、先生のおっしゃる「霊的な克己」ということもできるでしょう。しかし、それとて全くネガティブなものを経験しないということではないのです。克己しながらその果てにいつかは解放される、ということだと思います。心や体の病みの中で、私には多くの光を与えられてきました。どん底を体験し自分の弱さをはっきり見ることができたこと。障害を持った人と共感しあうことが非常に自由にできるようになったこと。自分をどれだけ多くの人が愛してくれているか、感じられたことなど、自分病気をしてから失ったことよりも得たことのほうがずっと多かったのです。
    しかし、問題は聖霊体験があっても、心も体も病むことがあるかどうかです。病んでいて聖霊体験が与えられたこの方の場合とは全然違うのです。同じように見えても違う課題が主から与えられているのです。この方はこの方の、導きの「時」を生きている。しかし、全く違った課題を与えられ、導きの時を生かされている者もいます。苦難の与えられる意味とは、そしてそれの克服される方法とは、個人の与えられている課題によるのではないでしょうか。

【返信】
    パニック症候群の記事のことですが、私は、その方の言うパニック症候群と、原因がはっきりしているストレス後遺症のような場合とは、質的に異なっているものとして区別しています。これは、私の大学の心理学の教授からのアドバイスです。ですから、あのメールを送ってくれた方は、交信箱のあなたからの記事を読んで、そこから自分自身の場合を連想したにすぎないのであって、決してあなた自身の場合と彼/彼女の場合とを同一視したり、同じレベルで考えているわけではないと思います。交信箱に触発されて自分の体験を語り、それが御霊によって癒されたということを証ししているだけだと受け止めるほうがいいと思います。
    この二つの病の性質の区別と同時に注意しなければならない点がもう一つあります。それは、御霊の体験において病気それ自体をどのように受け止めるかということで、これはあなたが指摘している大事な点であると思います。御霊にあって癒された体験と、御霊にあって、なおも病や苦しみを得た体験とはレベルの違う問題だと思います。御霊にあって癒やされる体験のほうは、そこに働く御霊の働きをはっきりと認めることができますから、これを素直に感謝することができます。しかし、御霊にある人が体験する苦難や病は全く次元が違う問題を提起していると言えます。この場合、苦難や病それ自体は、御霊の働きから出ているのではないからです。例えば、ある信者が病気を癒されることと、信仰者が病や苦しみを得ることとは同一のレベルで比較できることではありません。これはもはや医学的な違いの問題ではなく、神学的・信仰的な問題になってきます。御霊にある者への苦難それ自体は御霊から出ているものではないと考えます。そこでは、御霊の働きは、御霊がそのような苦しみの中でどのようにその人と共に闘い対処するかという霊的な体験とその苦難をどのようにとらえるかという洞察に関わってくるのです。この問題は、病気だけではなく、さまざまな試練や苦しみとも重なり合ってくるわけです。
     実はあなたのメールの主旨をお伝えしたところ、その方から「癒されないのは祈りが足りないからでは全くなく、本人としては、祈れども癒されず途方に暮れていた時に、十字架の福音を体受するという恵みを賜わったにすぎないということで、数年間という年月は、人間的な熱心や宗教心を粉みじんに粉砕してしまうほどの体験であったと思います。熱心に祈った結果、癒されたのというのは、事実に反している」とのことでした。おそらくこれが、霊的な信仰にあって癒やされたその方の実感でしょう。 これは、あなたが「しかしその方にしても、信仰の確信を与えられる前までは一定の期間、暗闇の中に置かれていたのでしょう。定められた時が来て、その方は確信を与えられることによって解き放たれた。信仰があっても定められた時が来るまでは出られなかった。それはその方の与えられた導きの時なのではないでしょうか。」と言うことと通底します。
   霊的な信仰者の苦難の場合に、そこでの御霊の「働き」は、いかにその人とともに呻き、堪え忍び、その中にあってもなお喜ぶという姿において、しかもこのような姿でその苦難に「打ち勝つ」という方向に見いだされると思います。このような御霊の「働き」こそ、癒しの時に働く御霊の働きと同じにように、あるいはそれ以上にほめたたえられるべきであると思うのです。私たちは、そのような御霊の栄光を、ドストエフスキーの文学から、ルオーの重厚な絵の具の背後から、あるいはレンブラントの絵の明暗から読みとることができます。そのような御霊の働きが、どこまで具体的な現象として検証できるかどうかは、おのずと別問題だと思います。
   人間が死ぬことはだれしも免れません。しかし御霊は私たちの「死の体にあって」、なおもこれに命を与え続けてくださっています。私たちが、例外なく死の現実の中にありながら、なおもその死ぬべき体に命を与え続けられているということに、本当の御霊のすばらしさがあると思います。これがラザロの復活という形で具体的に現象することも聖書には出ていますが、ラザロの復活も肉体的には一時的なものにすぎないのであって、それは、御霊が私たちの体に働いて命を与えていてくださるということの象徴であり、そのしるしであると受け止めるべきものです。
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