【来信】
    交信箱を拝見しまして、パニック症候群から癒やされた私の体験を今一度述べて、自分に起こったことを改めて再認識したいと思います。と言いますのは、自分では「どうにもならなかった者が、神の恩恵による憐れみを受けた」という証言にすぎないつもりで書いたのですが、それが何か「立派な信仰」による結果であるかのように受け取られたのではないかと思うからです。もしもそうであったら、御容赦いただきたいと思います。私が自分の体験から申し上げたかったことは、信仰者でも、「人に理解されず、神にも見捨てられたのか、悪霊に憑かれたのか」と思わざるをえない不安で理解できない出来事を体験させられることがあるということです。もう一生治らないのだと経験し実感もすることが起こってしまったと告げられるようにです。でも、神はそんな私を超えて癒して下さった。だから希望をもって下さい。今はそう思えなくても、「あるものはある」のですから、大丈夫なのですよ。そんな気持ちでお便りした次第でした。
   私は以前、中学一年の夏に「世界が一変して見える」ような明確な入信の仕方をしました。教会から家に帰ってからも、その喜ばしいお方はずっといらしてくださったし、また聖書を読む際にも、言葉の意味はわからないながらも、何か不思議と読めてしまうといったはじまり方で、信仰をスタートいたしました。いつ聖霊を受けたのか、というのは神学的に大問題なのでしょうが、私の場合は、はじめてキリストを信じた時、と自分では思っています。
   私の場合、癒しの過程は、それまで自分が考えていたものとはずいぶん違っていました。自分が神様の直接の按手で、徐々にか、あるいは劇的に治ることをイメージしていた私は、なによりもまず十字架のみもとに連れていかれたのです。病気との戦いはそのための長い道のりだったという気さえ今ではします。とにかく私に、ある日突然十字架の大宣言がやってきました。「おまえは私が完全に十字架で救いとげている。何ものもこれを消すことはできない。おまえの救いを奪うことはできないのだ」と。すると「そうだ。このまま治らなくて、このまま死んでしまってもハレルヤだ。」という確信がやってきました。喜べない者が喜ばされたんです。
   この十字架が大転機となり、その後は自分の状態の良し悪しを問題にするよりも、天来の十字架宣言だけにしがみつこうとしてきました。そこに足場ができたのです。光が来ました。光と影とは共存できません。光を見ていると影は薄れていきます。すると徐々に、ふにゃふにゃだった腹の中に、何かわかりませんが力が生まれてきたのです。魂に心棒ができはじめました。そしてだんだんと、周囲の音や刺激や感情に無意味に流されないようになりました。私の快方へ向かう過程はそんな具合でした。
   今回、交信箱を拝読させていただきましたが、私の感想は、交信箱の「心の傷からのストレス後遺症と御霊の導き」における私市先生のご返信とまったく同じ結論です。すなわち、「明白な原因がある」「加害者がいる」という前提を一度棚上げにして、「かくかくの症状で苦しんでいるどうにもならない自分」を客体のように見ること。それは自分の信仰・不信仰すべてをひっくるめて、あるがままの自分を丸ごとイエス様の御手に(医師の手にゆだねるように)ささげることだからです。そして聖霊の慰めの中に深く沈潜して、受け身になって主のあつかいにゆだねていく。これは、決してスムーズにはいかないのですが、じたばたする自分すら、「させておく」のです。そして「私」は深いところで神様の時を待ち望む・・・そうありたいと思うのです。解決はすでに来ているのですから「楽しみに待っていよう」。そのくらいの気持ちでいいと思います。たとえ今はそういう気持ちが生まれてこなくても、無理につくり出す必要もありません。あるがままで。でも希望をもって! このように申し上げたいと思います。
     聖霊体験をしたことは、人間のレベルアップとはまるで関係がないことです。私自身は、聖人になったのでも、超人になったのでもなく、死にいたるまで罪人でみすぼらしい土の器にすぎません。そんな罪人のただ中に、聖霊がいらして下さったことが聖霊体験だと思います。私の体験から言えば、異言を賜わってからは特に、「生来の自分」と「霊の事柄」とのちがいがわかるようになってきた気がします。自分の意志や精神力は、聖霊の世界とはまったく関係がありません。キリストは「自分の信仰の限界を超えて」、向こう側から、愛をもって、介入し包んでくださるお方です。どんなに熱心に信仰しようが、熱い宗教心をもとうが、熱烈に祈ろうが、それをしているのが「自分」である時には、私がギブアップするまで神様でも手の下しようがない、ということではないでしょうか。
   結局のところ、「自分を不幸にしていたのは他ならぬ自分」であるという想い、卑屈になるのではなくサバサバした気持ちで、自分の信仰も聖霊体験もへし折られて、ただ十字架にすがらざるを得ない場所にきた時、そこで問題は解決しているのだと思います。聖霊はそこにいたるまで私たちを導き給わないでしょうか。「加害者」も「はっきりした原因」も消え失せて、「イエス様の膝下のわれ罪人ひとり」とさせていただいたその時が、解決の時ではないでしょうか。いずれにせよ、癒すのはこちら側の信仰・不信仰ではなく、キリストです。すでに勝利されているキリストのその勝利をただ受け取るだけです。それは必ずいただけるのだと、信じております。

【返信】
   あなたのメール感謝をもって読ませていただきました。全くその通りです。あなたの証のすばらしいところは、十字架の罪の赦し、この一事にすべてをかけているところです。そこからはじまり、そこで終わる。これがすばらしい。自分がどんなに祈ってみても、自分がどうであるかと「自分」にこだわっている間はまだだめなんですね。自分などどうでもよくなって、ただ御霊の風が吹いているという状態、そこでは、クリスチャンがよく言うように、御霊にあって自分がどう生きるか? ではなく、そういう<御霊にある自分>さえも通り越して、自分のうちで御霊様がひとりでに働いてくださるというところへいくんですね。「御霊にある自分」から、さらに自分にあって御霊ご自身が働いてくださる「自分にある御霊」へと転移するんですね。よく自分「の」罪が赦されると言いますが、ここまで来ると自分「という」罪が赦されることだと悟るのです。そこからさらに自分そのものが消えてしまって、「ただ御霊だけ」へと行き着いたら、もうなんにも言うことがない。病気が治るか治らないかは、もう問題でなくなる。現象的にまだ治っていなくても、根元においては、すでに癒やされている。それが現象するか、するとすればいつ現象するか、それさえも問題でなくなる。これが「心を煩わすな。ただ信ぜよ」というヨハネ福音書(14章)のイエスのお言葉の世界なのです。ただしこの境地へはなかなか行き着けない。しかも「常日頃」この境地に生きるにはそれなりの御霊にある<修行?>が要りますよ。御霊の導き、なんてよく言いますが、要するにこういうことなんですね。でも主様はちゃんと導いてくださいます。だから希望を捨てずに歩んでください。
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