【来信】
   先生初めてメールを、送ります。先生の事は、ある姉妹から教えていただきました。彼女は、立派で熱心なクリスチャンです。異言の賜物を神様から与えられたそうで驚きました。私は教会生活が25年近くになりますが、生ぬるい生活を送っています。洗礼後2年間位、聖霊のバプテスマを祈り求めました。今思うと自分ばかり努力して、神様にお委ねしなかったと思います。その時は色々努力しましたが、分からないまま疲れてやめました。
   今から7年位前に、これではだめだと思い、知り合いのクリスチャンで、異言を語り異言を解き明かすクリスチャンの集まりの家庭集会に出席するようになりました。悪霊の事をよく言っていたのを思い出します。常識では考えられない事ばかりでした。解き明かしがピッタリ当たるので、霊媒師みたいだと思った事もありました。私は、聖霊のバブテスマを受けたいので、熱心に参加しました。おもにヤクザの人々に伝道していて、私もヤクザの事務所に何回も行きました。ヤクザの人の前で、異言を語り解き明かしをするのです。それが、ピッタリなので皆ビックリしてまた知り合いを連れて来る。その場ですぐバブテスマを授けるのです。でも私は、とてもその異様さについていけませんでした。自分を殺して、異様さを無理に自分自身に納得させて参加しました。そのうち鬱状態になり寝たきりになりました。歩く事も食べる事もできず入院しました。もともとウツの家系に産まれたと異言の解き明かしで言われました。本当か嘘かはわかりません。
   10キロ位体重も減ったので、医者から癌ではないか? と疑われましたが、検査の結果悪い所はなく、結局ウツと診断されました。たいへん苦しみ、治るのに5年位かかりました。その知り合いのクリスチャンの方は、7年たった今もどこにいるかわかりません。それぞれの家庭を捨てて2人で(男の方と女の方)伝道旅行に7年前に出ていきました。使徒行伝と同じ事をするそうです。私は非常に苦しんだので、聖霊のバブテスマを求めるのが怖い気がします。熱心になればなるほど、また苦しむのかという気が起こります。でも求めたいのです。良いアドバイスを、お願いします。
 
【返信】
〔T〕
   あなたのような件は、私たちも未だ聞いたことがないので、ふたりでどのように返事しようかと考えてみました。とりあえず気がついたことをメールします。まず分からないことがいろいろありますので、その辺からお尋ねします。

(1)あなたを指導した伝道者というのはどういう人たちだったのでしょうか? 何派のどういう系統の人たちですか? 日本人なのか外国人なのか、様子がよく分かりません。
(2)あなた自身は、どの程度の霊的な体験があるのですか? 異言を語った経験があるのですか、全く霊的な体験をしたことがないのですか? また、聖霊についてどういうことを教えられていたのですか? 
(3)いったいあなたは、その集会で何をさせられていたのですか? ヤクザの事務所に出入りしたとありますが、なんのためにそんなことをしていたのですか? なぜ、気が進まないことをやらなければならなかったのですか? 

  これは私の推定ですが、あなたを指導していた人たちは、いわゆる<霊能的>な人たちであった可能性があります。<霊能者>というのは、霊の賜を有しているのですが、それを自己流に<活用・利用>して異言・預言・癒しなどを行なう場合があります。聖霊様とは三位一体の人格的(ペルソナ的)な存在です。ですから、聖霊様ご自身は、けっして私たちの一部でもなければ、私たちの能力でもありません。ところが、自分に御霊の霊能が与えられると、これを自分に具わる<霊力>だと過信して、賜物だけを切り離して自分の力を示すために用いるときに、誤った霊能者が生まれるのです。こういう人たちのことは、マタイ7章22−23節をご覧下さい。
  上に述べたようなケースは、日本にもアメリカにもあります。このような場合、いずれは誤りであることが判明して、恵みから落ちてしまいます。御霊は<霊力>や<念力>ではありません。努力や修行によって勝ちとるものではないのです。いわゆる「霊能者」なら、キリスト教でなくても、現在の日本には大勢の教祖がいます。
  困ったことには、こういう事があると、聖霊の働きに批判的な人たちは、これを理由に霊の賜それ自体を否定する根拠にすることです。このために、聖霊を三位一体の第三の位格としてのみ厳密に限定して、そこから生じる一切の霊の具体的な働きを否定したり警戒したりするようになります。しかし、これではせっかくの霊的な賜物を抑えてしまいます。バプティスト系では、ビリー・グラハムやマーティン・ルーサー・キング牧師など聖霊の賜物豊かな伝道者や預言者が出ましたが、こういう人たちは、聖霊の賜物を活かした人たちです。
  あなたの場合ですが、25年も信仰生活を続けることは、すでに御霊の恵みとお働きに支えられなければ不可能です。ところが、どういうわけか、あなたは、自分がまだダメな状態だと誤認しているのではないかと思われます。以上、現在私に考えられる範囲でお答えします。ご参考になれば幸いです。
〔U〕
   あなたからのメールを読んで、大体のことがわかりました。しかし今は過去のさまざまなことを掘り返したり反省したりする必要はないでしょう。かえってそれは逆効果になる恐れがあります。ですから今は、現在のことだけに心を留めて主様の前に歩んでゆくようにしてください。あなたからのメールに、「異言が出てきた」とあり、異言は御霊の満たしなのかどうか? というお尋ねがありました。
   異言は、あなたに御霊が働いておられることの「しるし」です。ちょうど風が吹けば音が出るように、音は風が吹いているという「しるし」です。しかし音それ自体は風ではありません。このように「しるし」はそれ自体が御霊ではありません。異言が出ることによってあなたに御霊が働いておられることが、「あなた自身に」わかるための「しるし」なのです。ですからあなたのうちにはイエス様の聖霊が働いておられるのは確かです。まずそのことをしっかりと心に留めてほしいのです。イエス様の御霊は、あなた自身の心やあなたの「気持ち」ではありません。それは、十字架による贖いの罪の赦しと復活のイエス様の御霊ですから、御霊は、あなたの罪も弱さもすべてをご存知です。しかも、あなたの心の状態とは「かかわりなく」働いて下さることを知ってください。だから、たとえあなたの心が暗い時でも、異言は出てきます。それは、どんな時でも、主様の御霊があなたと共におられて、励ましと慰めを与えようとしていてくださることを神が証ししてくださっているのです。
   祈るときには、「自力で」祈り求めてのではなく、その時の自分の気持ちや心に左右されることなく、主様の御霊が共にいてくださることを思い出して、落ちついて穏やかに祈ってみてください。異言に導かれて御霊の働きに委ね、言うなれば、「風に吹かれるままに」祈るくらいでいいです。そうすればたとえ心の落ち着きが失われている思うときでも、自然と心に聖霊による平安が与えられます。御霊が与えるのは平安であり喜びであって、決して悲しみや暗いものではありません。御霊はあなたの心の病を癒す力を持つのであって、そのためにあなたの心が病むということは決してありません。どうぞその意味で、聖霊のお導きに委ねて祈ってみてください。自分自身の気持ちや心にとらわれないほうがいいです。人間の心はいつも変わりますから。そうすれば、あなた自身の想いや願いや努力を「超えて働く」、イエス様からあなたへ遣わされた御霊を知ることができます。

【再来信】
  今まで自分の気持ちや心とイエス様の御霊とを混同していた様に思います。むずかしいですが、切りはなさなくては、ならないのですね。祈る時は、自力で祈るのではなく 落ち着いて穏やかに祈る・・・・・どうも、今までは自分の気持ちで、心を注ぎ出して祈っている事が多かった様に思います。祈り終わると少し涙が出るのが常でした。感情的で自分中心の信仰であったのでしょうか。
  聖霊様についての良い信仰書を紹介してください。私は、本に頼ってしまう傾向がありますから。今後とも良き御指導をお願い致します。今、リタ・ベネット著『聖霊とあなた』を読んでいますが、その中で、異端やあやまった教えに何らかの形で関係した事があれば、できるだけ明確にそれらをイエスの御名によって捨て去ってください。イエスの血による保護を求め、いつわりの教えが占めていたすべてのことを聖霊によって満たしていただく様に、自分で祈ってください。これが終わってから、聖霊のバブテスマを求めてください、とありました。あやまった教えをイエスの御名で追い出したほうが良いのでしょうか?

【再返信】
〔T〕
   御霊は、「自由な御霊」ですから、あなたが望まないのにあなたの心に押し入ったり、逆にあなたを見捨てて立ち去ることなどありえません。第一に、あなたにはすでに聖霊が働いていてくださるのです! 異言が出てくること自体が、聖霊様がそのことをあなたに向かって証ししておられるのを悟ってください。それ以上さらに御霊の満たしを求めることは、もちろん間違ったことではありません。しかし、そう「しなければならない」と自分に言い聞かせるのはかえって逆効果になる場合があります。なぜなら、そういう気持こそが、自分の努力や信念の力で聖霊を獲得しようとする誤った方向に向かわせることになるからです。自分の努力で聖霊の満たしを得ようなどとすれば、私などは<信仰衰弱>になってしまいます。
   私たちには、それぞれに個性があり、御霊はひとりひとりに、それぞれにふさわしい仕方で働いて、霊的な賜物や体験を与えてくださいます。ですから無理をする必要は全くありません。御霊は、あなたの過去もあなたの育った文化的・宗教的環境もことごとくご存知です(有り難いことです!)。ですから、自分の心で納得しないことやできないことは、無理にやろうとしてはいけません。「自由の御霊」というのは、そういう意味です。人が自分の良心で納得できないままに何かを信じさせられるなら、たとえその教えが「正しく」ても、「自分自身にとっては」誤った教えとなる。これはイギリスのピューリタン詩人ジョン・ミルトンの言葉です。
〔U〕
   ベネットの『聖霊とあなた』は、私も読んで知っています。もちろん聖霊について、正しいこと、よいこともいろいろ書いてあります。しかし、私たち日本人から見ると、日本の実情を十分理解していない部分があります。例えば、69頁〜71頁にある仏教と聖霊との違いなどは、日本人の仏教的な霊性に対する偏見と無理解を示していると言えましょう。
   特に、90頁から92頁にかけての部分などは、日本人ならだれしも思い当たる節(ふし)がありますから、聖霊の満たしや聖霊のバプテスマと関連づけて、こんなことが書いてあれば、何も知らない人は、怖くて聖霊など求める気持ちになれません。これでは、「異教的」な環境にある日本人が、うっかり聖霊を求めるなら、悪霊にとりつかれますよと脅されているのと同じだと思います。
   ここで主張されていることで、間違っていると思われる点が二つあります。
(1)一切の「間違った教え」を捨て去らなければ聖霊の満たしや聖霊のバプテスマを求めてはならないとあります。しかし、その「間違った教え」とは、具体的にどういうことでしょう? ベネットのここでの主旨を具体的に解説したと言ってもよい本があります。それには、「聖(きよ)め」に関する祈りのリストが出ています。そこに掲げてあるのは例えば次のようなことです。仏教的礼拝行為、お経、法事、葬式、神道、天理教、大本教、その他の非キリスト教宗教、エホバの証人、モルモン教、成長の家、その他の日本社会のキリスト教以外のもろもろの宗教。イスラム教、カトリック(おそらくロシア正教も)。風水、易学、道教、気功の類、非キリスト教的哲学、進化論、自然に対するアニミズム思想、キリスト教以外の宗教による癒やしと祈祷、ヨガ、東洋的神秘思想、星座占い、干支、おひな祭り、端午の節句、七夕、初詣で、彼岸、一五夜、除夜の鐘、その他冠婚葬祭に関すること。お寺訪問、神社訪問、祭り、これには修学旅行でのこれらの一切の観光も含まれます。お正月の行事一切。国旗礼拝、君が代斉唱、交通安全その他のおみくじ類の一切、その他皇室に関わる行事。聖められていない文学、アニメ、映画(日本映画はおそらくほとんどがダメです。「ハリーポッター」も「千と千尋」もダメ)、ビデオ、テレビ、CD。〔ここにあげたのは、『キリストの似姿に変えられていくために』 (滝元望、その他著。 プレイズ出版)の「聖め」に関する祈りのリスト、35−37頁からです。〕
     まだ他にもいろいろなことがこのリストにあがっています。この主旨から判断するなら、おそらく日本の古典、中国、インド、アジアの一切の古典はだめでしょう。現代文学のほとんどもこれに入るでしょう。その他日本文化全体に及ぶあらゆる祭儀や信仰もだめなのは言うまでもありません。実は「お米」「お酒」も呪われていると信じている日本のクリスチャンがいます。まだまたいくらでもあると思われますが、これらは全部捨て去らなければ聖霊を求めてはならないことになります。
  ところが、『聖霊とあなた』に書かれてイナイこともあります。嘘、偽り、殺意、冷酷、暴力、銃器による脅し、黒人差別、異教徒迫害、ユダヤ人蔑視、白人至上主義、キリスト教の名による不正な戦争、植民地主義、資本主義による搾取、キリストの名による不法な商取引、他民族蔑視などで、こういうことから「一切手を引いて」から聖霊を求めなければ危険だとは書いてナイのです。不思議だと思うのは、この本の著者は英語で書いていますから、日本人に向けて書いているのではなく、想定されている読者は第一にアメリカ人だと思います。それなら、仏教やヒンズー教を持ち出す前に、まずアメリカ人を対象として、こういう罪をあげるべきではないでしょうか?
  冗談ではない。私は自分の体験から、はっきりと断言します。仏教的な霊性がイエス様の御霊の働きと対立するなどということは、決してありません。ひとつだけ確かなこと、それは、この本の著者よりも法然や親鸞のほうが、ずっとずっと<霊的に>偉大だということです。もしもイエス様の「聖霊」がそんなに狭量な霊性であるのなら、かえって宗教的な争いと敵対心を引き起こす原因を創り出すことになります。自分とは異なる信仰や宗教や考えを悪霊的だと弾劾するような霊性こそ、「平和を創り出し」「愛と平安」をもたらすイエス様の「真理の御霊」(ヨハネ福音書14章17節)に逆らうものです。
(2)次に問題となる点は、悪を捨て去り「聖くならなければ」聖霊の満たしを求めてはならないとあることです。イエス様の所へ来る時には、「きれいな」服装で来なければならない。まるでこう教えているように聞こえます。イエス様は、神様の所へ来ると「きれいな」服(「服」は霊の象徴です)が与えられると言われましたが、きれいな服を着なければ神様のところへ来てはいけないなどと言われませんでした。健康な人ではなく病人を招くために来られたからです! 兄ではなく、放蕩息子の弟を受け入れる神だからです! どうぞローマ人への手紙5章1節−11節までを少なくとも3回読んでください。ここに聖霊と福音の一番大事なことがまとめられています。「きよく」ならなければ聖霊は来ないなどと、いったいどこに書いてありますか? もしもそんなことなら、あなたも私も一生聖霊の満たしや聖霊のバプテスマを求めることができません。これでは「魚を与える代わりに蛇を与え」「卵の代わりにさそりを与える」(ルカ福音書10章5節以下)ことにならないでしょうか? こういう教えを受けた日本人は、ものすごく苦しみますよ! 
   神は「求める者に聖霊をくださらないだろうか?」ルカ福音書にあるのは、もちろん求める者には誰にでも下さるという意味です。どうか、人の書いたものではなく、<自分の目で>聖書をしっかり読んでください。知的な(哲学)思考は要らないなどと言う言葉に騙されないで、どうか知性をしっかり働かせてください。著者は、聖霊を「受ける」ことと「満たし」と聖霊の「バプテスマ」とを区別しているように思われますが、聖霊はコップの水ではありません。たとえるなら「風」「空気」のほうが近いです。いったい空気をどうすれば「半分」だけにしたり、「満たし」たりするのですか? あなたが空気を吸って生きるときに、はじめは少しだけ吸って、慣れたらいっぱい「満たされて」吸うのですか? そんなことをしたら、満たされる前に窒息して死んでしまいますよ。でもどちらの比喩も不完全で、聖霊は神からイエス様を通じて与えられる人格(ペルソナ)的な愛なのです。イエス様を最初に信じた段階で、すでに聖霊が働いていてくださるのです。
   聖書にも御霊に「満たされる」とか御霊に「バプテスマされる」とありますから、決してこれらを否定するのではありません。しかし、「バプテスマ・浸す」は水と霊とによって、信仰のスタートにおいて行なわれます。イエス様の十字架によって罪赦されて、イエス様の御霊を受け入れる。この悦びの体験をどこまでも保ち続けることによって、主と共に歩み続けること、これが御霊にあってバプテスマ(満たす・浸す)され続けることなのです。主様の御霊によって「生まれた」人格は、「生まれた」のであって、半分だけ「生まれた」とか完全に「生まれた」という言い方はしません。そのように、「御霊のバプテスマ」という言葉は、あまり厳密に区別すると誤解や誤りを生じることがあります。
   少し強い言葉で書きましたが、すでにあなたに与えられている信仰とそれを支えてくださる聖霊様に心から感謝してほしいのです。それだけも心が安まり慰められます(これが「聖霊・パラクレートス」の意味)。あなたが<異言を用いて>聖霊を求めるのではありません。<異言があなたを聖霊へと導く>のです。異言は聖霊の「賜物」です。「賜物・ギフト」とは、何かをした事への報酬ではなく、「ただで」下さるもののことです。どうぞこのことを忘れないでください。御霊にある異言の賜物は「弱い者」のために与えられているのですから。
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