【来信】
    先生また質問があります。我々は死をどのように理解したら良いのでしょうか。私は最近『歎異抄』を読んでいます。この書には、浄土真宗の教義の要点が簡明に書かれているというだけでなく、現代人がいだいている生きた問題に的確に答えてくれる書として、古くから知識人ばかりでなく、広く一般大衆の間でも読まれています。私は、『歎異抄』が、現代でも十分通用する叡智の書物と考えます。
  仏教では救い主のことを仏とか阿弥陀如来と言う場合があるようですが、阿弥陀如来とは、物事の道理や、真実の法則といったような色も形もないものを、あえて人の形に表したものだそうです。阿弥陀如来によって救われるというのは「死なないとか、病気が治るといったようなことではなくて、苦悩の原因がはっきりすること。それが、救われるということ」なのだそうです。
  人間には色々苦悩がありますが最大の苦悩は「死」でしょう。我々は「死」という苦悩から救われたいと願うわけですが、苦悩の原因がはっきりすることが救いであるとすれば「なぜ死なねばならないのか?」という原因がわかることが救いである、ということになると思います。浄土真宗では死を避ける事の出来ない自然法則だと考えているようです。これは現代科学の分子生物学に通じる合理的な死の理解と考えられます。
  科学の発達した今日、多くの生命現象が分子レベルで解明されてきています。胎児は母親のお腹の中では、かえるのように指と指の間に水かきが付いています。 その後、この水かきはなくなり人の手の形になります。ヒレの細胞は自ら死滅してしまうのです。細胞単位の自殺です。 おたまじゃくしのしっぽも同じ仕組みでなくなります。 これは「自殺細胞」(アポトーシス)として、生物の自然現象として捉えられています。 生命が全体として生きていく上で、このプログラムされた死は、非常に積極的な意味をもちます。イギリスの病理学者カーらが1972年、奇妙な細胞死の過程に気づき、やがてアポトーシスの概念にたどりつきました。その後、アポトーシスに関与する遺伝子が発見されてきました。そもそも、単細胞生物である昔の生命には「不慮の死」以外のこうした死は存在しなかったと考えられます。単細胞生物は一般に無限増殖を繰り返し、いつまでたっても老いず不慮の死以外には死にません。
   しかし、人の体はこうした細胞の単なる集まりと異なって、全体で「からだ」として働くために、ちがう働きを持った、ちがった形をした細胞(機能的・形態学的に分化した細胞)からなります。生きた細胞は新陳代謝を行いますが、体の中のいくつかのしくみを維持するためには、それを支える細胞自体が絶えず増殖して死滅を繰り返す必要があります。たとえば、皮膚では絶えず表皮細胞が増えて死んで垢となっていますので、たとえ皮膚の細胞が太陽光線で傷ついても次の新しい細胞が皮膚を守ることができます。これを「計画細胞死」と呼びます。真実は時の彼方ですが、系統分類などから、以下のことが推定できます。「卵」以外にそれを保護する「殻」をもつものがあらわれた。初めは単に乾燥などの急激で単純な環境変化に耐えるだけのためでした。その後、この殻はより効率のいい繁殖を支える母体となります。初めは単なる殻であったのに、やがて形も複雑になり、生殖を効率的に進める器官となります。その多様性を個々にあげると先に話が進まないので省略します。こうして生殖細胞を保護していた殻は今や人の体の大半を占めるまでになったわけです。殻は所詮殻、いつかは腐り落ちていくものです。しかし殻を持つことで生存に有利になったことはいうまでもありません。さらにその「殻」がもっといろんなことをしてくれると、もっと有利です。つまり長い進化の末、我々生命は積極的に有限の生(老化)と細胞死を獲得したと言えるわけです。
   仏教では死に関する我々の苦悩は、「死にたくない」「死ぬのは怖い」という死に対する人間の態度が原因だとしているようです。私はこの仏教的な捉え方には共感すら覚えます。聖書は人間には自分自身を救う能力はないとしています。聖書の著者には、人間の絶望的な状態を「死ななければならないなんて、なんと惨めなんだろう」と嘆くパウロのような人もいます。聖書は死の原因について、死はすべての人の罪に対する創造主の呪いとしています。我々は死をどのように理解したら良いのでしょうか。先生また教えて下さい。

【返信】
とても難しいご質問で、私にお答えできるかどうか分かりません。

(1)あなたの言われる「死」と「生」は、基本的には、自然科学的現象としての範疇でのことであろうかと思います。自然現象としての生死と仏教との関係については、私には語る資格がありません。仏教のいう生死観は、私なりには実感していますが、きちんと説明できるほどではありませんので。せいぜい『般若心経』の「色即是空 空即是色」とか、道元の『正法眼蔵』の「森羅万象 悉有仏性」といった程度です。あるいは蓮如のご文章の「白骨文書」のように、人の世の無常を諭す教えです。

(2)聖書の言う「生と死」は、自然科学で言うのと異なるのは事実です。特にキリスト教は、「生」と「死」とを内面化して霊的にとらえるという特長があると思います。肉体の誕生に対して「新たに聖霊によって生まれる」誕生があり、これは洗礼に象徴されているとおりです。同じように、「死」も内面化されて、肉体の死とは異なる次元のものとして「霊的な死」とらえられています。特に聖書では、「罪」と「死」とが関連づけられますが、この場合は、単なる「安らかな自然死」のことではなく、暴力、圧政、戦争、自殺などによる「不自然?」な死が意識されていると私は見ています。→交信箱の「死者への祈り」の最初の項を参照してください。

(3)ですから、この霊的な生死は、肉体の自然なサイクルにおける生死とは異なる次元の事態で、霊的な「生死」と自然なサイクルでの「生死」との関係は、隠喩的あるいは類比による関係としてとらえられています。植物の再生(regeneration)の「からだ」と復活(resurrection)の「からだ」との類比関係のようにですコリント人への第一の手紙15章。隠喩とか類比という言い方は、私なりに言えば、「霊的」と同じです。聖霊体験こそ、聖書の言う生死の鍵で、現在の人間存在それ自体が「この世において」すでに「死から命へ移される」という言い方もこの辺の消息を表わしています。聖書では生死は神とキリストとに関連づけられていて、それは現在の現象的な自然のサイクルと言うよりは、神による「創造の業」として理解されると言えましょう。命とは今「存在している」という存在論的な視点からではなく、むしろ「常に働きつつ創造し続ける」神の業にあるというのが聖書の言う「命」です。「創造主」としての父なる神は、現在も「創造の働きを続ける」方として宇宙論的に考えられていると思います。私は幼い頃に仏教的環境で育ちましたから、そういう印象から言いますと、仏教的な生死観には、「陰々滅々」とした無常観がその底流にあるように感じられます。これに対してイエス・キリストの復活と御霊にある創造の信仰には、「喜び」と「明るさ」を感じるのです。鈴木大拙が、「仏教にはキリスト教にあるすべてのものが含まれているが、聖霊だけは仏教にない」と言ったと記憶していますが、この辺に、仏教と聖書との違いがあるではないでしょうか。

(4)このような聖霊の働きと自然科学との関係は、まだ未解決です。ただし、聖霊の働きとはひとりの私人(私はこの場合、意図的に「個人」という表現を避けます)の内面に生じる心理的出来事のことであって、それは主観的に認識できるが客観性を有していない、と言うのであれば、その考え方は誤りです。聖霊の働きは「私人の心理現象」だけではとうてい説明がつかないからです。それが明確に「社会的な機能」を持つことは、すでに社会学で研究されています。いわゆる「カリスマ」と呼ばれる「聖霊現象」は、社会学的な事象としてすでにはっきりとした研究対象にされています。ですから、集団的なリバイバルやテレパシー現象は少しも不思議ではないと思います。宗教社会学はそのような事実を解明しようとする学問分野です。それは、私人の内面性から人間関係における「交わり現象」と言うべき社会現象へと拡大します。学問的に言えば、広い意味での「心霊学」(pneumatology)として、その中に宗教社会学、宗教心理学、宗教現象学などが含まれると思います。

(5)さらに自然現象と聖霊現象との関係については、私なりに目下思うところがあります。それは聖霊体験をしますと、どうしても自分の自然な存在だけでなく、それを超える何か不思議なものが存在するという実感です。聖書では「復活のキリスト」という言葉で表現されていますが、聖霊体験は身体に現象する場合もありますし、場合によっては、写真にはっきりと映ることもあります。昔から、聖人の頭に後円が描かれますが、あれも聖霊現象を描いています。私は、だれか自然科学者か医学者か量子物理学者かが、この聖霊体験を自分でした場合にどういう風にこれを「自然科学的に」理解するのかを知りたいと思っています。何か現在の物理学では未解決の分野がそこにはあるように思います。人間存在においては、聖霊体験によって、肉体的な生命と類比的にあるいは隠喩的に関係しつつ、異なる生命存在が創り出されていっているのではないか? こう思うことがあります。生物的な個体と子孫との再生関係とは別に、復活における人格的な次元での新創造ということが、宇宙的な生成過程の中で生じつつあるのではないか? こう思っています。ヨハネ福音書の1章のロゴス・キリストやコロサイ書のキリストとは、そういう生成しつつ働きつつ生命を創造する<宇宙のキリスト>の働きとして理解できるような気がします。物理学がこの問題とどのようにつながるかは、もちろん私には分かりませんが。以上がとりあえずの私からの答えです。なんらかの参考になれば幸いです。
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