【来信】
  2000年前の人間イエスが、どうして私の贖い主となるのですか?
  キリスト教の最も簡潔な定義は、「人間イエス」を神の子キリストと信じる宗教でしょう。「わたしは何者か?」というイエスの問いかけは現代でも続いています。イエスをキリストと呼ぶことは、ナザレに生まれた人間イエスを「私」の救い主キリストと崇める信仰の表明です。イエスが人間となり、人間として生活し、人間としてあらゆる罪に打ち勝ち、人間として死ぬことがなければ、イエスは人を贖うことはできなかったはずです。先生におうかがいしたいことは、2000年前のユダヤ人としてこの世に生きていたイエスという人が21世紀の日本人である私を知っているはずがないにもかかわらず、この人を私の救い主と信じる理由です。もちろん合理的な説明は存在しないで、御霊の啓示によるものとしか説明できないとは思いますが、宜しく御高配下さい。

【返信】
  大きな問題です。でもとても大切な問題です。十分にお応えできるかどうか? まず全体を2部に分けてお応えします。
〔T〕
まず最初に、「代表」ということをお話しします。人間はご承知の通り、個人でありながら集団的な存在です。そこに「代表」(representative)という考え方が根ざしています。病院の院長はその病院を代表します。すなわちその病院を”represent”します。”present”とは「表わす」ことですから、院長は病院の「顔」となります。一人の日本人の快挙は日本人全員の快挙となり、一人の人間の発明は全人類の発明となります。一人の人間が月へ到着したことが「人類が月へ到着した」ことになるのです。この場合に、代表となる「個人」は単なる私的な存在ではなく、病院、国家、会社、人類などを「表わす」のですから、いわば象徴化されます。「天皇は日本国の象徴である」とい憲法がそのよい例でしょう。
  次に「犠牲」ということを説明します。「犠牲」とは個人がある集団や共同体を「代表し」、そうすることによって、その集団や共同体の矛盾を自分一人の身で「体現する」ことになります。殿様が切腹して家臣の罪が赦される。今自衛隊の撤退と求めて3人の日本人が人質にされたというニュースが流れています。しかも、この人たちは、自衛隊の派遣に反対して、民間人としてイラクの人たちに奉仕していた方々です。しかし、福田官房長官は、自衛隊は撤退しないと言っています。このままでは、3人の立派な日本人は、「日本人全体の代表として」、犠牲にされます。犠牲は大勢の人を代表して自らを捧げる行為のことで、これを「英雄的」行為と呼びます。「ヒーロー」とはスポーツ選手であろうと誰であろうと、それなりの犠牲を払って人々の賞賛を勝ちとるからです。もし3人が犠牲にされたら、彼らのことは日本人の記憶に残るでしょう。これがさらに大きなことであれば、人々の賛美や崇拝の的とされます。これを「祭儀化」と言います。こうして、代表→犠牲→祭儀化というように犠牲にされることによって、その犠牲者は尊敬され、崇められ、ついには神話化された存在になります。宗教には、多かれ少なかれ、このような神話化が生じます。
  こういう犠牲から祭儀への宗教的な過程とその意義を最もよく表わしているのが旧約聖書です。旧約にはアブラハムによるイサクの犠牲、犠牲の子羊など犠牲とされた動物の血を流して罪の贖いを求める祭儀が継承されています。旧約の宗教は、古代から行なわれてきた人類の全体的な犠牲の流れを最も鮮明に祭儀化した宗教です。これの原始的な形態を示すのは、南米のインカ文明です。南米では、太陽が昇るための祭儀として、毎日おびただしい人間が旧約の動物と同じ役割をしました。英雄の犠牲は祭儀化されると「神話化」します。いわゆる伝説の人になるのです。逆に言えば、「神話化」することは、その行為を永遠化し、そうすることで、その犠牲を崇める行為です。現在の日本で、ある人たちが「靖国の英霊」を神話化しようとする背後には、このような英霊賛美思想を創り出そうとする意図があるからです。
〔U〕
  犠牲のうちでも、最も深い宗教性を帯びているのが「人間の罪のための犠牲」です。しかし聖書では、贖罪の犠牲に「英雄」的なところはありません。この点は『聖霊に導かれて聖書を読む』の9章の「叙事詩の描き方」と「ペトロの描かれ方」をお読みください。
ここまで来れば、イエスの十字架の死に含まれる意味がお分かりいただけると思います。キリスト教は「イエスの教えの」宗教ではありません。なぜなら、キリスト教はイエスの十字架の死によって初めて生まれたからです。イエスの十字架の死→復活信仰→聖霊降臨というこの流によって、「罪の赦しの贖罪の犠牲」が初めて意味を持つようになりました。
  このことは、生前の人間イエスが犠牲の祭儀化によって救い主キリストへと変貌したことを示しています。「史的イエスから宣教のキリストへ」転換されたことになります。これを史的イエスの「神話化」と見ることもできます。これについては、『聖霊に導かれて聖書を読む』の4章の「非神話化とはなにか?」と「神話を否定するのか解釈するのか?」をお読みください。
  ただしここで、人類一般の犠牲の祭儀化にともなう神話化と新約聖書の犠牲の神話化との違いに注意しなければなりません。なぜなら、聖書の「神話化」は「歴史化」と深い結びつきを持っているからです。あなたはイエスが「歴史上の」人物だと言いましたが、これは「実在した」人物という意味です。しかし、厳密に言いますと、「実在」したことが、そのまま「歴史」ではないのです。なぜなら出来事はそれ自体で「歴史」ではないからです。実在の人物であろうと現実の出来事であろうと、それが「歴史それ自体」とどのように結びつくのかは別の問題なのです。これについては、『これからの日本とキリスト教』の9章と10章とをお読みください。わたしたちは、「歴史上の」と言う前に、そもそも歴史とは何か? ということにまでさかのぼることになります。イエス・キリストが人類の罪のために十字架にかかり死んで復活し聖霊となってそれ以後の全人類の救いの源とされたというのが聖書の救済史です。救済史は歴史なのか? という問題は、逆に言えば救済史抜きでも歴史は成り立つのか? という問題とも重なります。この点については、聖書講話欄の「聖書の神話性と歴史性」をお読みください。
〔V〕
 わたしたちコイノニア会は、イエス・キリストの聖霊、すなわちイエス様の御霊の働きを信じています。これを客観的には「キリスト神話」とよぶこともできますが、わたしたちはこれを「キリスト信仰」と呼んでいます。史的イエスが信仰のキリストへと父なる神のみ手によって「高められた」からです。イエスの御霊は、わたしたちひとりひとりのうちに宿り、かつ創造のみ業を現在もなお続けておられる、というのがわたしたちの御霊にある信仰です。しかし、わたしたちのこの信仰は、ただ、史的イエスがキリストへと変貌したという理論や神学的教義や聖書の言葉を鵜呑みにしたからではなくて、私たち自身が実際に「体験した」事実に基づいているからです。聖書の証言が、自分の祈りにおいて、現実に体験され、自分自身の内面において「証しされた」からです。「あなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。」(ヨハネの第一の手紙1章27節)とあるとおりです。なお、ヨハネの第一の手紙1章1〜4節をも併せてお読みください。
 お答えになったかどうか? とにかく今のわたしにできるだけの返事を送ります。主のご臨在が貴兄と共にありますように、心からお祈りいたしております。
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