【来信】
    メールありがとうございます。まだ週一回ほど通院しています。もう少し元気になったら、週一回でも教会の付属幼稚園に通って子どもたちと遊んでと、言われていて感謝です。メールや文章が全く書けない時もあるのです。頭が働かず、文章を読むことも難しく、空回りします。けれども、文章を読んだり書いたりすることができるときもあります。しっかりした文と言っていただけると安心します。回復を信じて祈りたいです。
    先生からの先のメールにこうありました。『異言で祈ることができなくても、「主のみ名を呼ぶ」ことは必ずできます。「すべて主のみ名を呼び求める者は救われる」(ローマ人への手紙10章)とある通りです。これは通常の「主のみ名によって祈る」こととは違いますから注意してください。「主様!」「イエス様!」と「み名を呼び求める」のです。』
    ありがとうございます、これなら出来ます。唱えるだけでもいいのですね。辛い時、イエスさま助けてください、という意味で、「イエスさま!イエスさま!」と呼び求めることがあります。御名を呼ぶことは、以前の先生からのメールや、深谷先生とのやり取りでもでてきました。以前は、御名を呼ぶと甘い余韻があったのですが、近頃はありません。それでも、御名を呼び求めることは出来ます。本当に、どうにもならない時でも、御名を呼ぶことだけは出来ますね。実感はなくても、御名を呼ぶとき、そこに主は臨在されるのですね、感じられなくても、信じたいと思います、ありがとうございます。
    奥様からのメールでは『自分の感情も機能も止まってしまったように、心が石の板のようになる苦しい病気も、主が癒やして下さった後、一人の立派な修道女が書かれた本を読みました。彼女もそのような苦しみの中で、「私が行ってなおしてあげよう」(マタイ8章6−7節)というイエスの御言葉を聞きました。イエスの御言葉には癒やす力があります。
 この修道女は本を書かれました。「愛することは許されること」渡辺和子著(PHP文庫)、もしよかったら読んでみてください。』とありました。ありがとうございます、御言葉には癒す力があるのですね。イエスさまが癒してくださるのですね。本のご紹介もありがとうございます、早速、注文して読んでみようと思います。焦らなくてもいいのですね。あるがまま自然にしているだけでいいのですね。本当に、わたしの気持ちの状態とは関係なく、心臓も内臓も機能しています。安心して、造り主なる神さまにゆだねていいのですね。時々絶望して死にたい思いになる時もあります。平安に満たされる時もあります。感情には波があります。そういうのも、主様はすべてご存知なのですね。いつもお祈りありがとうございます。生きていこうと思います。感謝です。

 【返信】
    メール有り難うございました。何度も言うようですが、あなたのメールも文章も少しも「混乱して」いません。実にしっかりしています。あなたは、自分を見くびりすぎているのではないでしょうか? どうぞ自信を持ってください。主様から与えられた信仰と力とそして「健康」にもっと自信を持っていいと思いますよ。神様が働いてくださるのは、あなたの存在をその「全体」において活かしておられるのですから、「あなた自身の心の中」とは直接関係ありません。たとえ自分が活かされていることが「実感」できなくても、それは「あなたが」実感できないのであって、神がイエス様を通してあなたを支えておられることそれ自体は、実感できてもできなくても変わらない事実です。ですから、イエス様から与えられる「信仰」とは、あなたや他の人の人間的な考え方や「気持ち」とは無関係なのです。
    これを水泳にたとえるなら、水の中でもがくのを止めて、じっとしている。浮いても沈んでもそのままでいる。実はこれ、洗礼を受けるときの心構えです。そうすれば、神があなたを支えておられたことが自然と分かります。私はあまり「自殺」のことは言いたくありません。ただ「自殺」も「自傷」も加害者と被害者が同じだという点で一致しています。
  つまりただ委ねて、なんにもしないのは、<加害者の自分にならない>ためだと思ってくださってもいいのです。そうすれば<被害者のあなた>のほうは、傷つけられずに助かるからです。これを言い換えると、<加害者のほうの自分が死ぬ>とでも言い表わせるでしょうか? パウロが、「洗礼によってイエス・キリストにあって死んだのです」と言うのは、こういう意味に理解できます。
    でも、私はまだ生きていて、死んでいないのに、どうして<加害者の自分>が死ぬことができるのだろう? きっとあなたは、こう思うかもしれません。あなたが、まだ生きているのに、<加害者の自分に死ぬ>ことができるのは、イエス様があなたの代わりに十字架において<あなたのために>死んでくださったからですよ。主様! と祈るのは、イエス様の助けによって、<自分の努力に死ぬ>ためです!この意味で言えば、「死にたい」ではなく<イエス様にあって死んで下さい>(どうぞこれを誤解しないでください)。死んだ人間はなんにもしませんから。思い切ってイエス様の中へと沈み込んだら、あなたはきっと復活します。何だか少し乱暴な言い方をしましたが、神様があなたにイエス様にあってすばらしい恵みを贈ってくださったことを知ってほしいのです。意のあるところを汲んで下されば幸いです。とりあえずご返事まで。主にあって。

【再来信】
    御返事ありがとうございます。メールがしっかりしているとおっしゃって下さり、また、自信を持っていいとおっしゃって下さりありがとうございます。確かに、自分に自身が持てないでいます。自分が本当に病んでいるのではないかと怖くなります。また、社会に出るのも、こんな自分が社会に受け入れられないのではないかと、とても怖いです。しかし、先生にそう言っていただき、少し元気が出ました。自分のものではなく、主の賜物なのですね。ありがとうございます。
  「神がイエス様を通してあなたを支えておられることそれ自体は、実感できてもできなくても変わらない事実です。ですから、イエス様から与えられる信仰は、あなたや他の人の人間的な考え方や気持ちとは無関係なのです。」 はい。わたしが実感できなくても、事実は事実として存在するのですね。神さまは働いていて下さるのですね。浮いても沈んでもそのままでいるのですね。主様はわたしをささえていてくださるのですね。感謝です。
   メールで先生が言われたこと。 「私はあまり自殺のことは言いたくありません。ただ自殺も自傷も加害者と被害者が同じだという点では一致しています。つまりなんにもしないのは、<加害者の自分にならない>ためなのです。そうすれば<被害者のあなた>は助かります。あなたが、まだ生きているのに、<加害者の自分に死ぬ>ことができるのは、イエス様があなたの代わりに十字架において<あなたのために>死んでくださったからです。主様! と祈るのは、イエス様の助けによって、自分の努力に死ぬためです!この意味で言えば、「死にたい」ではなく、イエス様にあって死んで下さい。死んだ人間はなんにしませんから。イエス様の中へと沈み込んだら、あなたは復活します。」
    HPの講話の「洗礼式の言葉」を読み直しました。イエス様にあって死ぬこともできるのですね。自分の生き方に死んで、イエスさまのいのちを生きることができるのですね。なかなか、自分の力に頼らないというのは、難しいです。自分で自分を救おうとしてしまいます。イエス様は、わたしのために、死んでくださったのですね、そのことによって、わたしも自分の努力に死ぬことができるのですね。なんにもしないことも大切なのですね。信じたものは、自分のわざを止めて安息に入ると聖書にもありました。これからどうなるかわかりませんけれども、今の生活を大切に、主にゆだねていきたいと思います。本当に波があります。お祈り感謝です。
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