【来信】
(1)交信箱に「異言を語る伝道者の行状に躓きました」と題されている項目があります。実は、これと似たような体験をした奥さんがいます。私は、私の友人とその奥さんと共に祈りの機会を持ちました。話の中心はその方のビジョンのことでしたが、話の端々で私が気になったことは、彼女が自分の状態をすべて異言による悪霊が原因であると考えていることです。彼女は私にも異言を語ると悪霊が入ってくると言い、そのような状態は危険だと言います。この話を聞いているうちに、わたしの友人までもが、気持ちが悪くなったと言っています。
(2)このことと関連があるのかどうかわかりませんが、実はこの間体験した、電車の中での出来事を思い出しました。その出来事とは、私が、列車の窓際に座って、その日に出席する集会のことを想いつつ、ノートに書いていた時のことです。横には娘が座っていました。ノートにメモしていたのは、ほんの十分余りのことだったと思います。突然通路を挟んで娘の隣に座っていた六十台ぐらいの一人の女性が、私に向かって怒鳴り始めたのです。「何書いているのよ!! どうせ悪いことを書いているんでしょ!! 私に見せなさい。早く貸しなさい!!」とまくし立ててきました。その方の位置から私の手元がそんなによく見えるはずもありません。私も娘も驚いていて、私も一瞬言葉を失いましたが、「プライベートなことです」と言って、無視しました。列車の座席の9割近くが埋まっています。こんな所で訳もなくまくし立てるこの人は何なんだろうと思いました。私は心の中で「サタン」を感じて、主に向かって必死で祈っていました。その女性は私たちと同じ駅で先に降りていきましたが、ずっと私を気にして振り返ってばかりいました。精神障害のある人でも無いようでした。この出来事を上に述べた奥さんに話したら、私がペンテコステ派だからだと言い、悪霊を刺激してしまうからだと言います。そのような集会には良くあることだそうです。私は自分がペンテコステ派とかあまり考えたこともありません。ただ、ご聖霊様のことは本当に大事に思っています。彼女は私に好意は持ってくれているようですが、どのように接していったらよいか考えてしまいます。どうぞ良きアドバイスをお願い致します。

【返信】
【T】
(A)とても大きな問題ですね。まず先にお尋ねの(2)のほうからお答えしましょう。聖書の中に悪霊追放の記事があります。それは悪霊追放の典型的な例とされていますが、マルコ1章21節から28節までの場合です。ホームページの聖書講話欄の「共観福音書講話と注釈」の中にある「カファルナウムの悪霊追放」のところが、この記事を扱っています。特に「悪霊顕現」「御霊の力」と「悪霊の分類」のところなどをお読みください。この講話では、<日本文化と悪霊>について述べられていますが、これは直接あなたの今の問題とは関係しないかもしれません。けれども、もしもその奥さんが、「日本文化は悪霊的だ」という偏見を抱いている場合には、必要以上に「悪霊」を怖がる傾向があります。聖霊派の人には、こういう偏見を抱く人が多いからです。この場合には、その人と周囲の人たちとの緊張は、「その人自身の信仰」から来る場合が多いのです。今でも、仏間の部屋に寝ることや仏間の上の階に寝ると「悪霊が来る」と恐れる人がいます。私にとっては、仏教の霊性は悪霊どころか、すごく穏やかな霊です。仏教徒であろうとクリスチャンであろうと無宗教の人であろうと、悪い人は悪いし、善い人は善いのです。非常にプライドの高い人、虚栄心の強い人、汚れた想いに憑かれている人、こういう人は、人を謙虚にさせる罪の赦しの御霊に出会うと敏感に反応します。しかし、あなたが体験したように、一見そうとは思われないような人の場合があります。逆に、さも悪そうな人が、実は非常に思いやりがあったり、謙虚な人だったりします。人は見かけによらないのです。要するに、異言を含む御霊の働きを「自分自身のものである」と思いこんだところに誤りが生じるのです。なぜなら、御霊を「肉の自分」の一部だと誤って解釈すると、ふたつの誤解が生まれます。ひとつは、<自分に与えられた聖霊体験は、自分がなにか特別に偉いところがあるからだ>という優越感の思いこみです。こういう誤りは、わたし自身も何度か経験しました。これが裏目に出ると、今度は逆に御霊の働きが、自分の<劣等感>と結びつきます。<霊的傲慢>も<霊的劣等感>もどちらも、御霊を<自分の一部>だと誤解したところに生じるのです。
(B)さらにもうひとつマルコ1章よりも詳しい記事が、マルコ5章1節から20節までにあります。実はホームページの著作欄にある私の著書『聖霊に導かれて聖書を読む』の5章は、このマルコ5章の悪霊追放の記事を扱っています。そこには、悪霊がイエス様を見て恐れておびえたことが語られています。これと同じようなことが現代でも起こっています。私の著書の5章にある「悪霊がイエスを見分けたこと」から「悪霊の数は誇張か?」の項目にそのことが書かれてありますので、どうぞお読みください。文中で「オズボーンさん」とあるのは、私が若い頃一緒に伝道して通訳をした方です。お読みになればわかるように、あなたが列車の中で体験したのと同じような例です。ただし、これは、<特別に激しい>場合です。通常のわたしたちの場合には必ずしもこれほどではありません。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Tコリント 10章13節)とあるように、主は必ず「あなたの信仰に応じて」様々な体験を与えてくださいますからご安心ください。悪霊に限らず、霊能に関する初歩的な知識は、聖書講話欄にある2004年の夏期集会講話「御霊の特長」の中にある「霊能の御霊」の項目をお読みください。ここにあるように、異言だけでなく預言やヴィジョンについては、これを自分に当てはめて、本当かどうかを日常の「小さな事」で実際に体験してみることをお勧めします。そうでなければ、預言やヴィジョンを「人に語ったり」まして「人のことに当てはめる」のは危険です。どうぞこの点を慎重に行なってください。これはほんの基礎ですが、大事なことです。ただ、どんな場合でも、これだけは確かです。<あなた自身は、異言体験にある御霊よって、そういう悪い力から護られます。>イエス様のみ名によって、そういう悪い力は、あなたの内なる聖霊に勝つことが絶対に出来ないからです。主イエスのみ名に優る名は、日本を始め世界のどんな宗教や霊力にもありません。ご安心ください。さらにTヨハネの手紙4章1〜2節と6節/5章4〜5節をお読みください。
【U】
 次にあなたの(1)の問題についてです。まず<あなた自身>についてですが、あなた自身は、今までの祈りのやり方を変える必要は全くありません。どうかそのままで、与えられた恵みの内に留まり続けて歩んでください。<留まり続けて>しかも<歩む>というのは、動かないで動けというようなもので、矛盾していると思うかもしれません。しかし、あなたが御霊にあって留まり続けても、時の経過と共に、様々な体験が「与えられてくる」ということです。その姉妹との祈りの機会もあなたにとってひとつの体験であり、列車の中でのこともそうです。実際わたしたちも驚きました。わたしにも似たような体験がありますが、それほどはっきりと外に現われた例はわたしにはありません。ただし、異言については、すでにお話したことですが、以下のことを心に留めておいてください。
(A)イエス様の御霊は愛の御霊であり、愛の御霊とは、相手を強制しない自由の御霊だということです。「主の霊のあるところには自由がある」(Uコリント3章17節)。異言を語る自由と語らない自由とは裏表です。だから、異言を他人に強制したり、無理に語らせようとしてはいけません。また、異言を語らないことで、その人を軽蔑してはいけません。キング牧師もマザー・テレサも異言を語らなかったと思います。同時に、これと全く同じ理由で、あなたが異言を語る自由を誰にも奪われてはいけません。あなたには語る自由も語らない自由もあります。イエス様の御霊ですから、イエス様との御霊にある交わりの中で与えられるままに異言で祈るのはとても大事です。言うまでもありませんが、教会での礼拝の場などでは、個人的な異言の祈りを控えることもあなたにはできます。
(B)列車の中であったように、たとえ人があなたに敵対しても決して恐れる必要はありません。あなたが「無視した」と言いましたが、これは大事な点です。賛成するでもなく逆に反対するでもなく、祈りのうちにイエス様の御霊を「纏って」淡々とした態度で接することです。御霊は全能の父なる神からイエス様を通して働くのですから、この世でこれに勝つことができるものは存在しません(Tヨハネの手紙4章4節)。「主」イエス様とは天地の「主」であるという意味です。だから、<あなた自身のことで>、心配したり恐れたりする必要はありません。それだけでなく、敵対する相手のためにも心配する必要はありません。なぜなら、イエス様の御霊は、その人の「悪の力」と闘ってくださるからです。御霊は、「悪の力」にとっては脅威となりますが、<その人自身への>人格的な脅威となり危害となることはけっしてありません。むしろ逆に、聖書の悪霊追放の記事にあるように、悪霊がさんざん抵抗してその人から出て行くと、その人は癒されるのです。御霊は人を救うのであって、滅ぼすことはしないからです。むしろ、敵対する相手の中に潜む悪の力こそ、その人を滅ぼすのです。私は「悪霊」という言葉や「悪魔」という言葉をあまり遣いたくありません。これらの言葉は、人間の「罪」や「欠点」や「病気」や「悩み」や「弱さ」とはっきり区別しなければならないからです。例えば、小学校の児童たちを殺して最後まで悔い改めなかった宅間被告のような場合は「悪霊」と呼んでもいいと思います。彼は自分を殺してくれと頼んだそうですが、これが「悪霊」です。彼の傲慢なプライドがついに悪霊となって彼を殺したのです。ただし、「自殺」は必ずしも悪霊だとは限りません。精神的な病で自殺する人がいますが、これは病気ですから「自死」であっても悪霊ではありません。また「悪魔」というのは、もっと大きな意味で、例えばヒットラーや、現在では、北朝鮮の金日成などが、これに近いのではないかと思います。彼が一日生きるために、何千人あるいは何万人の人たちが日々殺されるからです。人間を犠牲にしてその血を吸って生きる者を悪魔と言います。
 だから、あなたは、御霊にある赦しの霊をもって、人に接してくださればそれでいいのです。相手がそのことであなたに「敵意」を抱いても、そのために<あなた自身が>危害を受けることは絶対にありません。それだけでなく、御霊にあって感じるあなたへの相手の敵意は、<相手にとっても>害となり、相手を破滅させる力なのです。それに負けないことは、「相手の悪に」負けないことであり、そのことは、決して相手を傷つけません。身近な例えで言えば、酒に溺れた人が酒を止める時には抵抗したり止めさせようとする人に腹を立てるかもしれません。しかし、それでも止めさせることが、その人を救う方法だからです。放っておくと逆に危険です。
(C)あなたの友人は、異言を含めて、聖霊体験がどの程度あるのでしょうか? 彼女は、いろいろな体験から、どうも聖霊それ自体に対して警戒心を抱いていているのではないでしょうか? もしもそうであれば、十字架と復活と御霊の三位一体と「罪の赦し」を根本から理解していただくことが何よりも大切です。これは、聖霊体験というよりは、キリスト教の根底ですから、バプティストも聖霊派もカトリックも共通しています。私自身の経験から言えば、こういう人の場合には、とかく知識や倫理・道徳に頼ることによって救いの確信を得ようと「努力する」傾向があります。実はわたしもそうでしたからよく分かります。そういう努力は、それ自体で悪いことではありません。しかし、ここが難しいのですが、人間の努力、すなわちパウロの言う「肉の力」では、罪の赦しの喜びや御霊にある赦しと喜びには到達できないのです。ザアカイのように、何にもしなくても、イエス様を受け入れただけで喜ぶ場合もあるのです。このように、もっと「しなければならない」という律法的な想いは、特に知識人や道徳的な人間にはとても強いです。パウロはこれを「律法の諸行」と呼んでいます。正しくなろうと努力することは、人間として大事なことなんですが、これとイエス・キリストの御霊の福音とは違うのですね。パウロは、イエス様の福音を「聞いてただ信じる」ことを「信仰の聴従」と呼んで、これを「律法の諸行」と対立させているほどです→この点は、コイノニアホームページにある「ガラテヤ人への手紙講話と注釈」を読んでください。ガラテヤ人への手紙やローマ人への手紙は、この問題を扱っていますが、キリスト教神学の大事なところでもあり、難しいところでもあります。「立派な」人ほど、自分の努力に頼ろうとするために、かえって、御霊にある救いの喜びから遠ざかるという矛盾があります。パウロやアウグスティヌスやルターや内村鑑三が苦しんだのはこれです。
(D)さて異言体験に躓いた姉妹のことですが、彼女の場合には、わたしにもまだよく分からないところがあります。まず、「異言」と「悪霊」と「ヴィジョン」の三つは全く別のことだからです→聖霊とヴィジョン/幻については交信箱の項目がありますのでこれを見てください。彼女が「異言を語ると悪霊が来る」というのは、異言というよりは、「聖霊が来ると悪霊が来る」と言っているようにわたしには聞こえるのです。おそらくこの方は、異言を伴う聖霊体験に絡んで不幸にもとても辛い体験をしたのでしょう。このためにただの人間的な誤りを聖霊の働きと誤解しているのではないかと思われます。このために、異言→聖霊体験→悪霊という結びつきができてしまった。わたしにはこのように思われます。
(i)最初にはっきりさせておかなければなりませんが、彼女のような場合には、御霊の働きは必ずしも喜びや平安にはなりません。聖霊が働く時には、その人の内に潜む隠れた罪(憎しみや怒りなど)や悩みや弱さが表面に現われることがあります。コリントの教会では、人の奥に潜む歪んだ性欲が出てきてパウロを困らせています。しかし、このような現象は、これは怖がらなくてもいいのであって、そのままの状態を主様の御霊に委ねて祈るうちに、心のしこりや悩みが剥がれて取れたり、出て行くものです。激しい場合には、聖書にもあるように、その人を倒れさせて出て行く場合があります。そこまで行かなくても、御霊にあって祈ることで、自分の罪が示されたり、自分の憎しみやねたみや恐れが「示され」「自覚されて」きます。これはとても大事です。なぜなら、そこから、御霊によってその罪や悩みが取り除かれる第一歩となるからです。御霊によって罪を示されて、謙虚にされることを「砕かれる」と言いますが、御霊に「砕かれる」体験は、御霊の人なら誰でも体験していますし、詩編などにはよく出ています(詩編51篇)。だから、いろいろ辛い思いが「出てくる」かもしれませんが。むしろ思い切って、そういう思いを「出してしまう」ほうがいいのです。悪霊はその人を非難し咎め批判しますが、御霊は十字架の贖いと赦しによって、慰め、励まし、これによって癒すからです。異言を伴う御霊の働きとはそういうものだということをまずしっかりと心に留めてほしいのです。
(ii)次にイエス様の御霊は、自由ですから、彼女が、異言を語りたくないのであれば、無理に語ろうとしないほうがいいです。語りたくなったら自然と語る。それでいいのです。怖いから語らないという気持ちは分かりますが、本当は怖くても「イエス様を信頼して」語るほうがいいと思います。しかしこれは本人の意志次第です。異言を語る自由と語らない自由、この二つは決して矛盾しません。わたしたちのコイノニア会では、実際に、祈りの交わりの中でそうなっています。無理に語ろうとしない、またさせないでください。無理に語るまいとも思わないでください。このことをあなたのお友達にお伝えください。自然に力を抜いてくださればそれでいいのです。イエス様の御霊は、わたしたちの造り主の御霊ですから。人それぞれの思いを深いところで知ってくださる。御霊はその人のうちで「呻いて」祈ってくださるからです(ローマ8章22節)。
(iii)ただし、これはもしもですが、あなたが異言で祈るのを聞くのが、「怖い」とその姉妹が思うのであれば、<その人のために>異言の祈りを止めるほうがいいかもしれません。愛とはそういうものでしょうね。それから、もしもですが、彼女が、あなたが異言を語るのを<止めさせよう>とするようであれば、これは<彼女にとって>主の御前に大きな罪になります。人の異言を止めさせる権威は人間にはないからです(集会で、みんなと一緒に異言で祈っている時に、指導者が、ある時期に、「それでは、静かにしましょう」と言って、次の行事に進むのはこれとは別です)。御霊は自由の御霊ですから、自分が異言を語らないことは罪にはなりません。しかし、人が異言を語るのを妨げたり批判したりすれば、それは主の御前に重大な罪になります。身近な例えですが、自分が結婚しなくても罪にはなりません。また離婚しても、そこにはいろいろな訳があると思いますので、主の御前にその失敗は赦されると思います。しかし、もしもその人が、他人の結婚を妨げたり批判したりすれば、それは大きな罪になります。ですから、もしもそういうことであれば、彼女とは共に祈りは行なわないほうが、あなただけでなく、彼女のためにもいいと思います。あなたから言いにくかったら、ホーム・ぺージのこの欄を読んでくださるようにお伝えください。ただ、彼女のために執り成しの祈りをしてあげてください。時が来れば、また道が開かれますから。

【再来信】
   この姉妹は、以前はとても裕福な暮らしだったそうです。現在この姉妹は、信仰による癒しを求めていて、土地を借りて知的障害を持つ方とともに、ミニ菜園をやりながら自然の中で神様によって癒されていくよう指導していきたいと思っているようです。神様による癒しを求めながら、イエス様から与えられる異言の賜物を否定する彼女・・・とても信仰深く、イエス様のことをよく語り、伝道にも熱心な素晴らしい側面と会う人を霊によって見分けることが出来ると批判してしまう彼女。聞くところによると、この姉妹は私を「危険な異言」から離れさせようと思っているようです。どうぞ一緒に祈ってください。彼女の受けている傷は相当深く深刻です。この傷が癒されればすばらしい信仰の人になると思います。彼女とは少し距離をとってみようと思います。ただ私としては、祈りながらこの姉妹に、交信箱で先生がおっしゃっている異言についての正しい理解を伝える機会を求めていこうと考えています。

【再返信】
よくわかりました。おっしゃるとおり、彼女との祈りは差し控えるほうが賢明だと思います。それにしても、異言体験の躓きがこんなに深刻だとは思いませんでした。異言体験は、その最初の段階がとても大事なこと、それを誤ると後々まで「異言トラウマ」が残ることを改めて実感します。日本の人口のほんのわずかの%しか異言という貴重な体験をする人がいないのに、そういうことで、せっかくの体験を活かすことが出来ないのは、残念で情けないです。なんとか立ち直ってほしいのですが。善い賜が悪くされることについては、もしも機会があれば、その姉妹にルカ11章9〜13節を送ってあげてください。私が交信箱で、異言を含む聖霊体験は、初めてイエス様を信じたときの御霊の働きと本質的には同じであって、たとえ初信の時に、特別の御霊の満たしを感じなかったとしても、実はそこに御霊が働いていると言ったのは、このことを意味していたのです。最初に十字架の罪の赦しから出発すること、これがイエス様への信仰の最初でありこれが最後まで続くのですね。
           戻る