【来信】
 わたしはコイノニア会に賛同していますが、ある信者さんから、「月に一度しか集会をしない、そんな集会では交わりが育たない。とんでもないことです」というような、コイノニア会のあり方を批判するような意見を伝えてきました。
【返信】
 来信有り難うございました。ご質問についてお答えしたいことを二点にまとめてお伝えします。
(1)「月に一度のコイノニア会」からお答えします。月に一度というのは、例えば学者や絵画の同好会などがやる「研究会方式」です。だからわたしたちのコイノニア会が「研究会」だという意味ではありませんから誤解しないでください。このやり方の特徴は、学者の場合を例に取るなら、それぞれの人は、それぞれ自分なりで「違った」問題やテーマについて「普段に」研究を続けています。ほとんど毎日と言っていいほど、それぞれのやり方で、それぞれができる範囲内で、研究を続けています。そういう人たちが集まって開くのが、「月に一度の研究会」です。当然そこでは、違った意見やいろいろな考えが出ます。そういういろいろな考えや体験を分かち合うことによって創り出される場、これがコイノニア(交わり)の意味です。ですから、コイノニア会は「一致団結」の組織ではありません。聖書によれば、人と神とは全く異なります。そういう異なる者たち同士の間で生まれるのが「交わり」なのです。ですからこれは「一致団結」ではありません。人間と神とが「一つに団結する」ことは決してありません。そういうカミがあるとすれば、それは聖書の神ではありません。そういう団結集団は、宗教的な性格を帯びると恐ろしい神懸かり宗団に変貌する恐れがあります。あるいは個人の信仰を全く認めない宗教組織になるおそれがあります。そういう団結した組織作りは、コイノニア会の方針ではありません。コイノニア会が、一人一人の信仰を大事にするのはこの理由からです。それぞれが、自分で信仰と祈りを普段にやっている人たち、そういう人たちが月に一度集まって、語り合う。このための集会です。
 ですからこのやり方は、集会の時だけでなく、それ以外の普段の日に、自分で聖書を読み祈ることが前提になっています。毎日たとえ少しずつでも、聖書を学んだり祈ったりしていることが大事です。そういう人たちでなければ、そもそもこういうコイノニア会に出てきません。いろいろ違った意見や考えを持っていること、普段に聖書を読み祈ることで「信仰を生活している」こと、もう一つ大事なのは、誰からも強制されずに自分で自発的にこれをやる人たち、こういう人たちが寄って創る「交わりの場」がコイノニア会です。月に一度の集会ではだめだとその人が言ったのなら、おそらくその人が言うのは、「交わり」が育たないのではなく、集会としての「一致団結」が保たれない。こう言っているのでしょう。「交わり」とは、「互いに異なる者」同士の間に生まれるものです。団結は、みんなが一つになることです。コイノニア会は交わりの場であって、一致団結の場ではありません。互いに違うからこそ、交わりが絶対に欠かせないのです。
   月に一度というのは、決して多い数ではありません。その通りです。おそらく最小限度でしょう。しかし、これで交わりが育つのなら、それなりに大事な意味があります。なぜなら、もしもこの「最小限度」でも成り立つことが証しされるなら、普通の人が、結構忙しい仕事に就きながら、同時に結構忙しい人たちに向かって、イエス様の福音を証しする道が開かれるからです。イエス様の言われたとおり、たとえふたり三人でも、「そこにイエス様がおられる」交わりを持つことができるからです。ですからこのやり方は、プロの伝道者、プロの教会形成の牧師さんたちのやり方ではありません。そうではなく、日常生活に忙しくて暇がない、そういう人たちが集まって霊的な交わりを育てていく。このためのやり方です。だからこそ、あなたもわたしも、誰でもが伝道できるのです。ふたり三人の月に一度の交わり、どうぞそこからスタートしてください。必要なら、またそうできるのなら、一回を二回にしても三回にしてもいいのです。実際にやってみて、それぞれが決めればいいのです。また、同じ所でやる必要もありません。月に一度を、二カ所か三カ所で、別々の場所でやってもいいのです。日を違えてやれば、月に二回、三回の集会と同じことになります。それぞれの都合に合わせてやればいいのです。実は、最初期の語録集(Q文書)の人たちは、このやり方でした。それぞれが、イエス様の語録集を読んでいて、月に一度くらい集まって、聖餐の食事をやり、御霊の祈りや癒しをやっていたのです。普通の人たちが、日常生活の中で出逢う具体的なことがらについて働く御霊の知恵、これを育てるのがコイノニア会の意味なのです。
   お気づきかと思いますが、こういうやり方は、わたしたちコイノニア会が信じている「聖霊のお働き」と関係があります。聖霊のお働きの特徴は、牧師だとか聖職者だとか知識人だとか過去の信仰の経歴などにいっさいかかわりなく、イエス様の御霊を素直に受け容れて信じる人には、その人の「内に宿る」からです。これこそ、御霊のお働きの最大の特長です。一人一人にイエス様の御霊が宿っているのならば、一人一人は独立した人格です。だから自分で決心できるのです。しかも聖霊のお働きは、人によってそれぞれに異なります。だから主にある人たち同士の交わりが大事なのです。
(2)ただしここで、気になることがあります。それは、集会の数が少ないと言って、批判をしたその人は、おそらく集会に毎週かそれ以上出席し、伝道活動をやっている人だろうと思います。そうでなければ、そのようなことは言わないはずだからです。とすれば、その人は、何回も集会に出ていること、宗教活動をしていること、おそらく「そのこと自体に」誇りを抱いているのではないでしょうか? そうでなければ、「たった月に一度」などとは言わないと思います。自分はこんなに集会に出ている、あるいは集会をしている。成果を上げている。また教会の一致団結を強めている。こういうことを誇りにする。またそうで「なければならない」と信じている。これですね。この考え方が実は非常に気になるのです。どうしてか分かりますか?
   人間が神様の前に「義とされる」、すなわち神様に受け容れられるのは、その人の「行ないによる」のではなく、イエス様の十字架の罪の赦し、絶対無条件で注がれる父の神様からの憐れみと罪の赦しによるからです。これがほんとうの「信仰」というものです。これがパウロの説いた福音です。イエス様による罪の赦しとこれによって注がれるイエス様の御霊への信仰、およそプロテスタントのクリスチャンなら、最初に教えられる福音の初歩の初歩です。そこには、月に何回集会をやっているか。洗礼を受けているかどうか。献金をしているか。信者の数が増えているか。聖餐をしているか。教会へ通っているか。こういうことはいっさい問題になりません。こういう宗教的な活動を行なうことに誇りを抱き、そのような宗教的な活動を基準にして、人が神の前に「正しい」かどうかを判断すること、これをパウロは「律法の諸行/行ない/業(わざ)」による「正しさ」と呼んでいます。自分は神様から託された仕事や命令をこんなに守っている。だから救いに与ることができる。こういう信仰のあり方をパウロは、律法による人間の「自己義認」と呼んで、十字架の罪の赦しによるイエス様の御霊の福音と区別し、むしろ対立させているのです。
   人間が知らず知らずのうちに陥るこの「行ないによる自己義認」です。これこそパウロが最も警戒しなければならないこととして、わたしたちに教えていることです。イエス様は言われましたね。「わたしが来たのは、健康な人を招くためではなく、病人を招くためである。正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだ」と。また続けてこう言われたのです。「安息日のために人があるのではない。人のために安息日があるのだ」と。
   どうしてこういうことを言うのかと言いますと、人が己の行ないや行為を神の前に誇り始めると、イエス様からの大事な罪の赦しと憐れみを見失ってしまうからです。そうなりますと、昨日信じた信者も、仏教徒も天理教徒も、無神論者も、実は神様の前では全く同じ「罪人」にすぎないこと。要するにわたしたち人間のやることは、どれ一つとっても、行為として神様の前では、ダメ人間のやるダメな行為にすぎないこと。こういうことを忘れてしまうのです。牧師さんであろうが、神父さんであろうが、聖書学者であろうが、これを忘れますと、大事な基本を見失う恐れが出てきます。絶対無条件の神様の憐れみと恵みの光に照らされる時には、集会が月に何回であろうが、そんなことは問題にならないことが見えなくなるのです。たった一人で静かに聖書を読んでいる人であろうが、人知れず悩みながら祈る人であろうが、毎日集会に出ている人であろうが、月に一度集会に出ている人であろうが、全く同じ主様の憐れみと恵みのもとにいることが見えなくなるのです。こういう主様の憐れみと恵み、これをもう少し進めますと、仏教信者であろうが、キリスト教信者であろうが、天理教の信者であろうが、牧師さんであろうが、平信徒であろうが、人間として見る限りは、全く変わらない。ただの罪深いダメ人間だということが分かります。そんなダメ人間をイエス様の十字架の罪の赦しの御霊の光がね、絶対無条件で働いて、照らしてくださるんです。こんなすごい福音が働く時には、集会の数などは、どうでもいいのです。
   キリスト教も仏教も、人間のやることは、所詮宗教活動としては、あまり変わりませんよ。人は所詮何教の人も神様の前にはただの罪人です。うっかりすると、特にプロの人は、このことを忘れてしまうのですね。十字架の罪の赦しを説くと言いながら、実はわが教団を説いている。こういうことにもなりかねません。人間が自分の行ないを誇りに思い始めると、他者と自分との間に格差を付けたがるようになります。集会を何回やっているか。信者は何人か。洗礼を受けているか。仏壇はどうしているか。こうして、キリスト教以外のもろもろの宗教とキリスト教徒の間に溝が作り出されて、宗教同士の差別が始まります。こうなりますとね。宗教は、人と人との間に平和をもたらすどころか、争いと差別と分裂のもとになるのです。現代の世界で起こっていることがまさにこれです。
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