【来信】
  私の体験した怨霊について述べさせていただきます。私がキリスト教と出会ったのは、まだ二十代の頃でした。以来、今日に至るまで、さまざまなことがありました。その中から、ある一つの体験を通して神様が教えて下さったことを、これからお話ししようと思います。
  今から十年ほど前、私たち家族は主人の仕事の都合で、にわかに転居することになりました。そのため急いで住居を探して、見つけたのが借家の中古住宅でした。そこでの生活が始まって、二年あまりが経過した頃のことです。ある日、家にいて台所から玄関へ行こうと廊下を通ったとき、何か異様な臭いがしてきたのです。それはトイレやドブの匂いに似ていて、とても嫌な匂いでした。何だろうと思って匂いのするほうへ行くと、普段使ってない部屋の前に来ました。私はその部屋に入って、匂いの元を探したんですが、原因はわかりませんでした。
  この部屋は北側にあって日当たりが悪く、暗かったので、長く空き部屋にしていたのです。カビのせいかもしれないと思って、すぐに部屋の空気を入れ替え、念入りに掃除して、芳香剤を置くことにしました。その匂いは数日も経たないうちに消えたのですが、それからも同じことが、度々ありました。
  「変なことがあるものだなあ」と思っていたのですが、この奇妙なことがあってから、その部屋の中で人の気配がするようになったのです。部屋に入ると誰かに見られている感じがして、気持ち悪くていられないのです。なぜ、こんなことが…と、信じられない現象に、ずいぶん戸惑い悩みました。引っ越すことも考えましたが、経済的に余裕がなかったので出来ませんでした。それに主人と子供達は、私ほどは気にならない様子だったので、家族に悪いことが起きないようにと、神様に祈りながら、それからも生活を続けていました。
  ところが、更に二年が過ぎた頃には、不気味な気配が段々強くなって、そこから憎悪さえ感じるようになったのです。私はイエス・キリストを信じているのに、なぜこんなことになるのか分かりませんでした。自分達の身に何か悪いことが起こるのではないかと不安でいっぱいになり、どうしたら解決できるのかと真剣に考え始めました。そこで、「あるいは?」と思って、人から聞いた話から、お清めの塩と水、献花、果物、菓子などをお供えしてみましたが、何の効果もありませんでした。また、宗教的な絵画をかざり、聖書を読んで賛美歌のCDを流し続けたりもしましたが、これもなんの効果もなかったのです。
  そんなときには、霊能者が登場し、霊視してお払いをする、というのをテレビで見たこともありますが、私はクリスチャンなので、そんな力に頼るわけにいかないと思いました。だけど、もうこれ以上放ってはおけない、何もしないで済ませられる段階ではない、原因をさぐってみなければと思いました。そこで、暫らくの間その部屋で過ごすことにしたのです。私はうす気味悪くて、この決断が、なかなか出来ないでいたのですが。
  最初の日は、聖書の詩編91篇を読んで祈り、部屋の照明は明るくしたままで眠ることにしました。落ち着かなくて、なかなか寝付けなかったのですが、何とか朝を向かえました。ところが、三日目の朝方、寝ていた私の左腕が、何者かに引っ張られた途端、次の瞬間、ベッド横の壁の中にスポッと引き込まれたのです。私は恐怖のあまり夢中で「キリストの神様!」と叫びました。すると、腕がシュッと壁の中から戻ってきたのです。私はそのとき「キリストの神様」の絶大なる御名の力を見せられたのです。本当に驚きました。
  実は、この状況を誰かに相談しようと、前から思っていたのですが、話を切り出せずにいました。こうしてキリストが力添えして下さるなら、何とか自分でやってみようと、決意を新たに臨むことにしました。
  翌日の晩から、三日続けて、今度は大きな岩のような顔が、私を睨みつけている夢を見ました。私は、寝ても覚めても、ただイエス・キリストの名を呼び続けました。すると、夢の中の岩の顔が三日目になると、幾分やわらいだ表情になったので不思議でした。それからは、夢の中でその存在が段々と正体を現し始めたのです。
  ある日の夢で、それはいつの時代でしょうか、見渡す限り広々とした所で、膝丈ほどの草が生えており、そのあちこちに、戦って死んだ多くの侍たちが横たわっている光景を見せられたのです。その中に、一人の侍が、片目を失い、片足を切られて、ぼろぼろの痛々しい姿で倒れているのが見えました。それからは、同じような夢を毎晩のように見せられました。あるときは曲がりくねった坂道を降りていくと、ドンよりとした灰色の水をたたえた沼があり、上を見上げると、沼と同じ重たい灰色に染まった空が見えます。この景色を見ていると、体も心も重くなり、全ての希望も力も失うという耐え難いほどの絶望感に襲われるのです(この絶望感の苦痛といったら、例える言葉がありません)。この、お侍さんの心は、この景色と同じ状態にあるんだと思いました。死んでも死に切れない切なさです。その苦しみといったらありません。霊魂不滅と聞いていましたが、それは永遠の命ということとは、全く、とんでもない別のことなんだと分かったのです。
  私は、ここに越してきて、このことに関わってから今まで、自分の家族の保護と救いだけを神様に祈ってきたのですが、ここに至って、初めて自分の足りなさに気がつきました。私はこの迷っている霊に対して、心を遣うことをせず、ただ形だけのことをして、どうぞ成仏してくださいと言っていたのです。でも、死んだ人も生きている人と同じ感情をもっているのだとわかったのですね。その迷える霊が、呻いて叫んでいることに、やっと私は気がつきました。
  それで、もっと熱い心で、その霊のことを考えてあげないと駄目なんだと思いました。私には、怖くて気持ち悪い霊ですが、その霊にしてみれば、それなりの事情があったのです。恨めしい無念な気持ちを抱き続けているうちに、絶望しかない世界に自分を閉じ込めてしまい、そこからどうにも抜け出すことが出来なくなってしまったのではないでしょうか。もう何百年も経っているのに、悲惨な状況が延々と続いて、そこから抜け出せない、本当にそんなことがあるのなら、これは大変なことだと思いました。私は、そのお侍さんが気の毒に思えてきて、怖いという思いは消えて、出来ることなら助けてあげたいと思いました。実はその頃、私は中高年にさしかかり、体調がすぐれず、若いとき当たり前にできたことが、出来なくなった自分にがっかりし、精神的にも弱くなっているときでした。私自身も淋しさや失望感を味わっていたときだったのです。
  私は集会で祈るときも家で一人で祈るときも、キリストの神様に「どうぞ、この方をお救い下さい、また、成すべきことをお示し下さい」とお願いしました。すると、しばらくして、神様から小さなヒントが与えられました。ところが、始めのうちは、それが、ハッキリ把握できませんでした。自分の中で確かなものでなければ、誰かに伝えることはできないと思ったので、神様に具体的な示しを願って、何日も祈りました。くる日もくる日も、ただ、ひたすらキリストの憐れみを乞い求めて祈りました。
   この取り組みを始めてから三ヶ月になろうとしているときでした。その日は、我を忘れて祈っていました。どれくらい祈ったでしょう。突然、燃えるような聖霊に全身が包み込まれ、キリストの憐れみの愛が、私を満たしはじめたのです。失いかけていた夢と希望が、私の中に熱い火となって、再び輝きだしたのです。「ああ、これだ!」と思いました。神様は、まず、私に聖霊を注いで、愛と希望を回復してくださったのでした。そうです!これこそが、あのお侍さんが失っていたもの。人はこの希望を失っては生きて行けないのですね。私は、探していたものに、とうとう出会えた嬉しさで喜びいっぱい、「お侍さん!」と呼びかけました。


  そう呼びかけながら、私は、こみ上げてくる熱い思いを、侍の霊に向けて、力いっぱい投げつけました。すると、投げつけた思いが、すーっと、そのお侍さんの中に入っていくのがわかったんです。そしてすぐに、「そうか、わかったよ!」というのが返ってきたのです。本当に不思議でした。キリストから私に、私からお侍の霊へ、聖霊のいのちが、バトンタッチされていったのです。この日、久しぶりに私は、さわやかな気持ちで、家族とこの経緯について話し合いました。私は嬉しくて、「本当によかったね、お侍さん!」 と叫びました。でもまさか、これで、本当にわかってくれて、行くべき所に行ったのかしらと、すぐには信じられなくて、明日は、あさっては、いや、一週間したら、また現れるんじゃないかと、ずっと様子をうかがっていたのですが、一ヶ月、半年たってもそれっきり、戻ってきませんでした。
  キリストの神様は、この切ない魂を救って下さいました。限りない御愛に心から感謝いたします。私は、このことを思い出すたび、キリストの奇すしき御業(みわざ)に驚嘆し、キリストのご愛のもったいなさに涙が溢れるのです。キリストは、このことを通して、私に多くの貴重な学びをさせて下さいました。キリストの教えは聖書に書いてある通りですが、人が生きている間、どんな心で過ごさなければいけないか、人は自分の人生を呪ったり、他人を恨んだまま死んだらどうなるのか…。だから、決して絶望の果てに自ら死を選んだりしてはいけないのです。私は、このような体験をしましたが、自分が望んでもいない嫌なことを通しても、最後に、主は勝利を勝ち取ってくださいました。最後にローマ人への手紙14章9節を引用して終わりたいと思います。


  復活のキリストの福音は、死んだ者にも述べ伝えられ、今もその救いの御業は顕われるのです。主イエス・キリストの御名を、心から賛美申しあげます。

【返信】
 難しい内容の霊的な体験をよくもこれだけまとめてくださいました。本当に有り難うございます。これは貴重な体験で、多くの人にとっても大事な証しになると思います。
【再来信】
  ところで、本文中では触れていませんが、匂いのことですが、あれは間違いなく霊の影響によるものだったと私は思っています。あのような悪臭が、心の状態(怨念、憎悪)によるとか、また、その霊的なことが物質化するということも生きている者の常識では、とうてい考えられないです。ですが、体験してしまうと否定できません。世界は、人間の理解を超える多くのことで満ち満ちていると、あらためて畏れおののく思いです。以前、「天国の香りってあるのよ」という話を聞きました。想像の域ですが、かぐわしい霊の香りも又「ある」と信じます。
【再返信】
  だいぶ前に、京都に韓国人の伝道者の女性が来たことがあります。私もその人にお会いしましたが、後で、その方と一緒にいた日本人に聞いたのですが、彼女といるときに、すごくいい香りが漂って来たといいます。私もお会いしたので分かりますが、その伝道者は、年配で苦労も多く、おしゃれ気はまったく感じなかった人です。それから、自分の体験ですが、霊的に苦しいときに祈ると悪臭がしてその霊が出ていくことがありました。霊的な世界とは肉体的な物質界をも含むものなのですね。
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