1章 孔子の時代と生涯
■孔子の時代背景
和辻哲郎は、その『孔子』の冒頭で、釈迦、孔子、ソクラテス、イエスを「四聖」と呼んでいる〔和辻『孔子』11頁〕。彼が、この四人を「四聖」と呼んで「人類の教師」としているのは、中国を中心とするユーラシア大陸を視野において、これら四聖人を観ているからであろう。ただし、和辻の言う「中国」(シナ)は、通常考えられているよりもはるかに複雑で、その歴史は必ずしも一貫していない。古来、中国では、漢民族以外にも、様々な異民族が侵入を繰り返して、それぞれの王朝を建てているから、周王朝→秦・漢王朝→隋・唐王朝→明・清王朝→現代という大きな流れの中でも、時代によって、歴史的文化的な内容がずいぶん異なっている。和辻によれば、それにもかかわらず、中国が、終始一貫した歴史的・文化的なアイデンティティーを主張しているのは、象形文字としての漢字の功績が大きいことになる。漢字は、音声文字ではないから、それぞれの民族や時代によって、それぞれに異なる発音(読み方)がなされても、「書き言葉としての文字」の一貫性が保持されている限り、その内容も一貫性を保持しているからである。ちょうど、現在、国際語として通用している英語が、単語の綴りと発音とが必ずしも一致せず、発音は、人により人種によってそれぞれに訛(なま)りがあっても、書き言葉としての綴りが共通し一貫している限り、国際語として共通の役割を果たすことができるのと事情が似ている。
古代の中国において、陰陽の交代によって支配されている世界は、人を取り囲む大宇宙と、人それ自体の内に見出される小宇宙との「二つの宇宙」の対応関係で成り立っていた。だから、中国では、これら二つの相互の調和を目指す理論が生み出された。この理論は、あらゆる分野の知識に及ぶから、徳に基づく社会制度、都市や住居の聖なる空間にいたるまで、文化的宗教的な分野を含むものになる。宇宙全体の「調和」を人間の原初にさかのぼる「起源」、すなわち古来の呪術と神話論に求めようとしたのが「道」を求める「道家(どうか)」の人たちである。彼らは、老荘の一派で、心安らかで無欲な「無為恬淡」(むいてんたん)を志す人たちであり、後に道教の祖とされる。
これに対して、宇宙と自然にある人間は、人類がその文明によって実現した国家社会の公正かつ徳のある社会の中でしか、真に調和した生き方を実現できないと考えたのが孔子である。彼は、秩序が崩壊し不正がはびこる乱世にある民衆の悲惨と苦悩を目の当たりにした。賢明な指導者による徳治こそが、民を救い国を改革できると信じた彼は、政治の要職に就くことを志したが、その志を果たすことができず、市井の賢者として弟子たちの教育にあたった。彼の思想は、後に儒家(じゅか)と称され、漢王朝(前206年~後220年)の指導理念とされるようになる〔エリアーデ『世界宗教史』(2)19頁〕。
私がこれから見ていくのは、孔子を始祖とする後代の「儒教」のことではない。どこまでも孔子個人のことである。孔子の著作や編集だとされる諸書のことではない。孔子の言葉を最も忠実に伝えていると思われる『論語』のことである。なお、以下の『論語』からの引用は、すべてワイド版岩波文庫『論語』(金谷治訳註)からである。論語には、「礼(らい)」「知」「信」「仁」「恕」など「五徳の道」が説かれていて、これを全うする者を「君子」と呼んでいる。
■孔子の生涯
以下は、次の諸書を参照しながら、私なりにまとめたものである。ネット版平凡社『世界百科大事典』「孔子」/朝日百科『世界の歴史』(8)「孔子と弟子たち」42~45頁/『論語』金谷治訳註(ワイド版岩波文庫)の巻末の孔子略年表/ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』(2)筑摩書房18~22頁/ネット版『広辞苑』(岩波書店)など。
孔子は、前552年に、現在の中国の山東省のほぼ中心に位置する泰山(たいざん)の南方にある曲阜(きょくふ/チュイフー)で生まれた〔その場所は陬邑(すうゆう)〕。曲阜は、当時の魯の国の首都で、今も曲阜には孔子の子孫と言われる人が一万人を超えると言う。曲阜には、今も壮大な孔子廟があり、また曲阜の孔府には、明代の作とされる『聖蹟之図』が遺されていて、孔子の一代記が描かれている〔朝日百科『世界の歴史』(8)43頁図〕。また、台北の故宮博物院蔵の「孔子立像」は、丸顔で穏やかな威厳のある孔子の面影をよく伝えていると言われる〔朝日百科『世界の歴史』(8)42頁図〕。
孔子が生きた前6世紀~前5世紀の中国では、周王朝の権力が衰えたために、「覇者」と呼ばれる諸王や諸公が相争い割拠していた。これら覇者たちの支配する国は、黄河の河口から西へ向かって順に、斉(せい)と魯(ろ)があり、中央には曹(そう)と鄭(てい)と宋(そう)があり、西に向かって周(しゅう)と秦(しん)が並び、曹の北には衛(えい)と晋(しん)、その北には燕(えん)があった。宋の南には呉(ご)があり、さらに南に越(えつ)があった。孔子の故国である魯は、その中でも地理的に中央の要所にあって、しかも弱小であったから、近隣諸国からの脅威に曝(さら)されていた。魯国の内部も、君主である襄公(じょうこう)の権力が弱く、季孫氏と孟孫氏と叔(しゅく)孫氏という3公族が政治を独占していた。最も強力であった季孫氏でさえ、家臣の陽虎が権勢をふるっていたから、事実上は下剋上の様相であった。
孔子は、3歳で父の叔梁コツ(しゅくりょうこつ)に死別し、貧困と苦難のなかで育った。19歳で、宋の幵官氏(けんかんし)と結婚し、翌年に鯉(り)を設けた。孔子28歳の時、魯を訪れたタン子(たんし)に師事して、古代の官制を学んだ。彼は、この頃、季孫氏に仕えて委吏(倉庫番)となり、司職(家畜係)となったが、どちらもきわめて低い地位である。孔子は、36歳の時に、襄公の後を継いで魯の王になった昭公の後を追って斉を訪れている(翌年魯に戻る?)。昭公の後を継いだのが定公で、その第5年目、孔子48歳の時に、陽虎が魯の実権を握り始めると、孔子を認めて仕官させようとした。ところが、魯では、陽虎に対して三桓(さんかん)が反乱を起こし、このため陽虎は斉に逃れた。『史記』によれば、孔子はこの頃52歳で、魯に仕官したとある。孔子は、魯と斉が同盟を結ぶ際に功績を挙げ、その功を認められて魯の定公のもとで司空(農事の長官)となり、大司寇(だいしこう)(司法の長官)に登り、55歳の時、宰相の代行も行なって業績をあげたという。魯では、三桓が実権を握っていたが、孔子は、三桓の横暴な政治に義憤を感じ、三桓の勢力を抑えようとした。だが、これに失敗して、職を退いて魯を去り、諸国を遍歴することになった。孔子56歳の時である。
それから14年もの間、曹、宋、鄭、陳、衛、陳、蔡、楚、衛の諸国をめぐることになるが、衛と陳に比較的長く留まった。その間、諸侯に「徳」を基とする政治の理想を説いたが、衛で内乱が生じるなど、諸国の政治情勢は厳しく、孔子の意見を受け入れる王侯はいなかった。周の創設者である周公旦を理想とする孔子の教えは、富国強兵に奔走する春秋の為政者たちから顧みられることがなかったのであろう〔朝日百科『世界の歴史』(8)45頁〕。孔子は、諸国の歴遊の間も、子路(しろ)や顔回(がんかい)など、何人かの門弟が常に彼に伴っていた。ある時、遍歴の途上で、大樹の下で礼の講習を行なっていると、宋の司馬桓タイ(しばかんたい)は、孔子の命を狙ってその大樹を倒した。その時、孔子は、「天、徳を予(われ)に生(な)せり。桓タイそれ予をいかんせん」と天の護りを告白している。人違いから町民に襲撃されたり、陳と蔡の国境では、食糧が尽きて七日間絶食したと言う。彼は3度も生命の危険にさらされている。孔子69歳の時、即位して間もない哀公の治世に、彼は祖国の魯に戻った。以後は、弟子の教育と学問に専念し、前479年、74歳の高齢で世を去った。
孔子へ