2章 『論語』の編集
孔子の伝記を最初に記したのは司馬遷(前145年頃~前86年頃)で、彼の『史記』(前91年頃)は、主として前漢の初めの資料によっている。孔子が没してから『史記』の成立まで約380年の間があるから、この間に孔子の聖人としての名声が高まった。だから、『史記』は、儒聖としての伝統的な孔子像を描いている。『史記』には、孔子が「書伝・礼記(らいき)を叙し、詩を餌(けず)り、楽(がく)を正し、易の十翼を序し、春秋を作った」とあり、六経(りくけい)がことごとく孔子の編集に帰されている。『詩経』(中国最古の詩集で殷から春秋までの311編を国風と雅と頌の三部に分けてある)と『書経』(10章参照)に孔子が手を加えたことはありえるが、六経の中の他の四経との関係は疑問である。魯の宮廷年代記『春秋』には、孔子の在世中に魯国の政権をにぎった季孫氏や孟孫氏や叔孫氏の名が出ているのに、孔子の名は一度も出てこない。孔子が大司寇となり宰相の職を代行したのなら、当然その名が記録されているはずである〔ネット版平凡社『世界百科大事典』〕。これは、後代に、彼が儒学の祖として讃えられるにつれて、孔子の政治家としての官位も高められるようになったからであろう。前漢の初めに儒教が国教となり、後漢になると、「緯書」と呼ばれる一群の書が出た。「緯書」は「経書」に付随して、その禍福や吉凶や予言を記した書群で、「詩緯」「易緯」「書緯」「礼緯」「楽緯」「春秋緯」「孝経緯」などがある。これらは孔子の作と言われるが前漢末(前1世紀末)の偽書であろう。
孔子の人柄や思想を伝える、最も確実な資料は『論語』である。『論語』は、孔子とその門人たちの言行や師弟間の問答を集めたもので、全体が十巻二十編で、約500の断章から成っている。第一巻(1)学而(がくじ)と(2)為政(いせい)/第二巻(3)八イツ(はちいつ)と(4)里仁(りじん)/第三巻(5)公冶長(こうやちょう)と(6)雍也(ようや)/第四巻(7)述而(じゅつじ)と(8)泰伯(たいはく)/第五巻(9)子罕(しかん)と(10)郷党(きょうとう)/第六巻(11)先進(せんしん)と(12)顔淵(がんえん)/第七巻(13)子路(しろ)と(14)憲問(けんもん)/第八巻(15)衛霊公(えいれいこう)と(16)季子(きし)/第九巻(17)陽貨(ようか)と(18)微子(びし)/第十巻(19)子張(しちょう)と(20)堯曰(ぎょうえつ)である。
『論語』の編集については、いまだ明らかでない。孔子の弟子たちが師の言葉を収録したものが、次第に蓄積され整理されて、ある時期に(おそらく前2世紀の前漢時代?)集大成されたと思われる。ただし、和辻哲郎は、『論語』の冒頭の学而編について次のように述べている。この編には孔子の言葉が8章、孔子と子貢との問答が1章、有子の言葉が3章、曾子の言葉が2章、子夏の言葉が1章、子貢と子禽(しきん)の問答が1章あるから、孔子とは直接にかかわりのない弟子たちだけの問答も、孔子の言葉と同様に扱われているのが分かる。このように、弟子の智慧も同等に扱われているのを見ると、この編は、孔子だけでなく、その弟子たちを含む「孔子学派」の智慧を伝えるために編集されていると見てよい〔和辻哲郎『孔子』岩波文庫(1988年)82~83頁〕。和辻は、続いて、孔子だけが弟子に抜きんでた聖者として扱われるのは、『論語』以後においてであると指摘している。おそらく『論語』の背後には、孔子の弟子たちか、孫弟子たちかが経営する学園を想定することができるだろう〔和辻前掲書94頁〕。『論語』が、孔子の弟子たちの学派の影響を受けて編集されていること、その編集も幾つかの段階が想定されることなどは、四福音書に採りこまれているイエス様語録といささか事情が似ていると言えよう。
日本では『論語』の文献学的な研究が進み、竹内義雄は、その『論語之研究』(1939年)で、全体を一~五巻(上論)と六~十巻(下論)とに大別した。その上で、学而と郷党を「斉魯二篇本」とし、雍也、公冶長、為政、八イツ、里仁、述而、泰伯の7篇を「河間七篇本」と見なし、子罕は河間七篇本に後から付加されたと見ている。
下論のほうでは、先進、顔淵、子路、憲問、衛霊公、子張、堯曰の7篇は、ほんらい別に独立した孔子語録で、「斉論語」と呼ばれる語録の原始的な形態であろうと推定する。また、季子、陽貨、微子、子張問(竹内が想定する篇名)は、ほんらい季子篇を基に後から形成されて加えられたと判断した。竹内によれば、「河間七篇本」が最も古く、次いで下論の「斉論語」の原始的形態と思われる7篇が第2期にあたり、学而と郷党の「斉魯二篇本」は第3期のものであり、子罕を始めこれ以外の篇は内容的に見て戦国時代の末期(前300年頃?)のものである。ただし、和辻は、学而と郷党の「斉魯二篇本」を最古のものだと見なしている〔岩波文庫『孔子』162~63頁〕。
古来『論語』の注解はおびただしいが、魏(ぎ)の何晏(かあん)(~249年没)の『集解(しっかい)』は、(前後)漢と魏時代の諸注解を集めて何晏自身の解釈を加えたものである。また、北宋の解釈を統合した南宋の朱熹(しゅき)(1130年~1200年)による『集注(しっちゅう)』があり、何晏のものは「古注」、朱熹のものは「新注」と呼ばれている。日本では、江戸幕府の儒官であった林羅山(はやしらざん)(1583年~1657年)が、弘文館を創設し、これが後の昌平黌(しょうへいこう)の起源となった。彼による漢文書籍の訓点の読み下し文に始まり、古注と新注を取捨選択した伊藤仁斎(いとうじんさい)(1627年~1705年)の『論語古義』、荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666年~1728年)の『論語徴』、安井息軒(やすいそっけん)(1799年~1876年)の『論語集説』などがある〔岩波文庫『論語』「はしがき」5~7頁より〕。
以上のことから分かるのは、『論語』は、中国の思想を今に伝えるまとまった文献としては最古のものに属することである。「孔子はシナ思想史の劈頭に立っている」〔和辻『論語』137頁〕のである。『論語』に使われている漢字の種類は全部で1520字にすぎず、他の古典に比べて平易であり、中国の歴史を通じて『論語』ほど広く読まれた書物はない。儒家の経典として尊重されたためでもあるが、『論語』自体に潜む魅力による点も少なくない。そこには現代からみて批判される点もあるが、人間肯定の精神に即した英知が簡潔な表現で語られているからである〔ネット版平凡社『世界百科大事典』〕。
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