3章 『論語』のことば
 
孔子の曰く、君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮(あなど)る。(李氏8)
 
舜、五人ありて、天下治まる。武王の曰く、予(わ)れに乱十人あり。孔子曰(のたま)わく、才難(かた)しと、其れ然(しか)らずや。・・・・・周の徳は、其れ至徳と謂(い)うのみ。(泰伯20)
舜には五人の臣下がいてそれで天下が治まった、(周の)武王のことばに「わたしには治めてくれるものが十人いる。」とある。孔子はいわれた、「人材は得がたいというが、そのとおりだ。・・・・・周の徳はまず最高の徳だといって宜しかろう。」〔岩波訳『論語』〕
 
 古代中国で言う「天命」とは、ほんらい順調と吉兆、同時に逆境と凶兆をも支配する窮極の理法のことである。後代には、これが、天が人と物事を支配する根本的な理法をも指すようになった〔岩波『論語』334頁〕。なお「大人」とは徳の高い先人のことである。君子たる者は、先ず「天命」を畏れ、次に有徳の先達を畏れ、さらに聖人の言葉を畏れ敬うとある。徳のある「大人」とは、具体的に尭や舜の「五人の臣」などがこれにあたるが、孔子は、とりわけ周の武王に仕えた周公旦(しゅうこうたん)、召公セキ(しょうこうせき)、太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)以下の十名の人物について、「周の徳は、其れ至徳と謂うべき」(泰伯20)と称賛している〔エリアーデ前掲書20頁〕〔岩波『論語』163頁〕。「聖人」について孔子は、「聖と仁との若(ごと)きは、則(すなわ)ち吾(わ)れ豈(あ)に敢(あ)えてせんや」(述而33)、現代文に訳せば「聖とか仁などというのは、わたしなどとてものことだ」〔岩波訳『論語』〕と謙遜している。「仁」はともかく「聖」は、天命に具わる何か近づきがたい畏怖を言い表わしているのであろう。
 
子の曰わく、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳随(みみしたが)う。七十にして心の欲する所に随って、矩(のり)を踰(こ)えず。(為政4)
 
 これは、孔子が自分の生涯を回顧した言葉だとされるが、不遇な境遇にあってなお学を志して、天命を知り、心の欲するままの自由な境地にたどり着いたことを述べている。「天命を知る」とあるのは、孔子が自分に与えられている「天からの使命」を悟った言葉だと思うが、孔子にそのような徳を与えたのは「天」にほかならないことを言おうとしている〔エリアーデ『世界宗教史』(2)20頁〕〔岩波『論語』36頁〕。孔子については、とかくその合理性、現実性、非宗教性が強調される。これにはおそらく、教育勅語などに代表される戦前の儒教的な思想に対する戦後の反省がこめられていると思うが、わたしは、孔子の思想の背後には、古代中国以来の「天神」への畏れがあり、そこから授与される天啓によって初めて、「天からの使命」を悟り、「惑い」を断ち、人の言葉に「耳随う」素直さを得、よって天からの「矩(のり)を超える」ことがない随意を体得できたと思う。一見して非宗教的と見える『論語』に潜むこのような宗教的霊性を見落としてはならないだろう。
 
子の曰く、無為にして治まる者は其れ舜なるか。夫(そ)れ何をか為さんや。己れを恭々(うやうや)しくして正しく南面するのみ。(衛霊公5)
 
子の曰わく、述べて作らず、信じて古(いにし)えを好む。窃(ひそ)かに我が老彭(ろうほう)に比す。(述而1)
先生がいわれた、「(古いことにもとづいて)述べて創作はせず、むかしのことを信じて愛好する。(そうした自分を)こっそりわが老彭(の態度)にも比べている。」〔岩波訳『論語』〕
 
 天を畏れる孔子の霊性を洞察することで初めて、なぜ彼が、その規範を未来ではなく過去に求めたのか、その理由が理解できる。孔子以前の時代にあっては、宗教も道徳も政治も、すべてが「敬天」から発するもので、宇宙の主神としての「天」こそ、人間に禍福をもたらすものであった。儀礼も、儀礼に伴う天への献げ物としての犠牲も、こういう宗教的な畏敬から発している。だから、儀礼を執り行ない、身を慎んでうやうやしく「ただ南に向かう」(正しい儀礼を衷心から執り行なう姿勢)ことだけで、「何もしないでいても国が治まり人心が安らかであった」人物と言えば舜ぐらいだろうと言うのである。老彭は、殷王朝の時代の賢人で、真偽のほどは分からないが『老子』の著者ではないかという説さえあるほどの人物である。孔子は、これら過去の名君と賢人に見習い、古来の伝統的な儀礼を通じて、現実の国政と、社会の霊的・宗教的な回復に努めようと志したのであろう〔エリアーデ『世界宗教史』(2)22頁〕。
 しかし、孔子の説く「道」とは、本質的に「人の道」のことである。人が「人の道」にかなう歩みをすること、これこそが、天に嘉(よ)みせられ福を得る。ここに孔子の思想の革新性があった〔和辻『孔子』134頁〕。ところが、なぜか、『論語』は、孔子の革新性を持ち出すよりも、古いものを蘇生させ、回復することを強調する〔和辻『孔子』136~38頁〕。しかし、これを意外とせず、そこに孔子の宗教的な洞察を読み取る時に初めて、その謎が解けてくる。孔子の「革新性」は、彼が理想とする中国古来の天の道への畏敬と、これがもたらす霊性から生じるからである。
 
子の曰く、禹(う)は吾(わ)れ間然(かんぜん)すること無し。飲食を菲(うす)くして孝を鬼神に致し、衣服を悪(あ)しくして美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室を卑(ひく)くして力を溝洫(こうきょく)に尽くす。禹は吾れ間然すること無し。(泰伯21)
 先生がいわれた。「禹はわたしには非のうちどころがない。飲食をきりつめて神々に(お供え物を立派にして)まごころをつくし、衣服を質素にして祭りの黻(ふつ)や冕(べん)〔祭りに着用する前垂れと冠〕を十分立派にし、住まいは粗末にして灌漑(かんがい)の水路のために力をつくされた。禹はわたしには非のうちどころがない。」〔岩波訳『論語』〕
 
子の曰わく、周は二代に監(かんが)みて郁郁呼(いくいくこ)として文なるかな。吾れが周に従わん。(八?14)
 先生がいわれた。「周(の文化)は、夏と殷との二代を参考にして、いかにもはなやかに立派だね。わたしは周に従おう。」〔岩波訳『論語』〕
 
 孔子が理想の人物として思慕したのは、周の礼(らい)と楽(がく)の文化を定め、周王朝の基礎を築いた名宰相の周公(周旦公)である。孔子はまた、彼が31歳のころに没した苫(せん)の子産(しさん)(前522年没)から直接に強い影響をうけたと言われている。子産は、鄭(てい)の国の宰相だった人で、彼は中国で最初に成文法を作った。この人は人間中心の合理主義を力強く宣言した博学の政治家だったようである。孔子は、子産に君子の四つの徳が具わっていると言う。「その身の振舞いうやうやしく」「目上に仕えるに慎み深く」「人民を養うに情け深く」「人民を使役するに正しいやり方でする」こと(公冶長16)〔岩波訳『論語』〕。この四徳である。
 天は犠牲と儀礼を好む。しかし、それ以上に、人倫による行為、とりわけ徳のある政治を好む。たとえまだら牛の子でも、毛並みが赤く角が良いなら、山川の神々への犠牲として祭祀の供物に選ばれる。門人の仲弓(ちゅうきゅう)は、微賤の出ではあっても、人格が立派だから抜擢されるのはこのゆえである(雍也6)〔岩波『論語』108頁〕。したがって、君子は、哲学的あるいは神学的な探求に重きを置かない。君子は、何よりも先ず現実の具体的な人間存在にかかわらなければならない。宗教的な存在を否定はしないけれども、これを重要視しすぎると逆に弊害をもたらす。孔子は、人間の「宗教性」がもたらす弊害をも的確に見抜いていたのである。孔子が何よりも重要な事としていたのは、「小人」(普通の人)を「君子」に変容させることである〔エリアーデ前掲書20頁〕。孔子の眼は、天から古来の霊的な伝統へ、そこからさらに、現在の国の有り様、すなわち「国治」に向けられている。
 
子の曰わく、千乗(せんじょう)の国を道びくに、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。(学而5)
 
子の曰く、弟子(ていし)、入りては則(すなわ)ち孝、出でては則ち弟(てい)、謹(つつし)みて信あり。汎(ひろ)く衆(しゅう)を愛して仁に親しみ、行ないて余力あれば、則ち以て文を学ぶ。(学而6)
 
 学而篇の5と6は対になっていて、どちらにも「信」と「愛」が出てくる。学而6は「弟子(ていし)」への呼びかけであるから、これは、孔子が自分の弟子(でし)たちに説いている。しかも、ここでは、弟子個人の身辺にかかわる道徳的課題だけでない。彼らが国の要職に就いた場合の心得を説いている。自分の身を正しさえすれば、政治は難しくないのである(子路13)。学而5の「千乗の国」とは、周王朝の時代のことで、戦車千台を持つ当時の諸侯の国のことであり、「事を敬して信」とは、とりわけ国家的な事を行なう場合には、何よりも信義を重んじることで、民から信用を得るように心がけること。「用を節する」とは、国事にかかる費用を節約して、民に負担をかけないよう思いやること。「民を使う」とは、民に国家の労役を課す場合には、農繁期を避けるなどである〔岩波『論語』23~24頁参照〕。「民を使う」には、国同士の戦争において「民の命を使う」ことも含まれるのであろう。
 17世紀前半のイングランドで、国民を代表する議会が国王と争い、ついにピューリタン革命を起こすにいたるが、その際に、まず民の課税の問題に端を発し、次いで民の宗教・思想の有りよう(カトリックか、プロテスタントか、イングランド国教会か)の問題に事が及び、最後に議会が王権に対立する形で徴兵権を確立している。古今東西を問わず、国家の支配者・指導者は、民の宗教・思想と課税と兵役の三問題に直面しなければならない。
 「民は信なくんば立たず」(顔淵7)とあるように、国を支配する者は、信義によって民の思想を信頼へ導き、課税をできるだけ減らして民の生活を思いやり、労役・兵役は、それにふさわしい「時」を選んで行なうようにせよ。こう孔子は説いている。「人の道」とは人倫のことであるが、「人倫」は、人それぞれの倫理・道徳に限定されない。それは「国治」(国を治める)にかかわらざるをえない〔和辻『孔子』88頁〕。孔子の「信と愛」は、そういう政治的・社会的な巾と奥行きをもって語られている。しかも、孔子の思想の本質には、妥協を許さない宗教的な霊性が一貫している。「予(わ)れは一(いつ)以(も)ってこれを貫く」(衛霊公3)とあり、「聖人の道」と異なる道を研究するのは邪道である(為政16)。
 だから、学而6にあるように、孔子の弟子たる者は、まず学よりも具体的な実践を心がけなければならない。家庭にあって親に孝行を尽くし、家の外では年長者を敬い、仕事において勤勉に信義を貫き、すべての人への広範な愛の心を失わないこと、これが、孔子の言う「仁」の道であろう(里仁1/3/4)。その上で初めて、『詩経』や『書径』などの規範となる「文」を学ぶべきであると言う〔岩波『論語』24頁〕。このことは、文よりも具体的な行動を重んじるかのように受け取られるかもしれないが、それは誤りである。孔子が「文」を学ぶと言うとき、彼は「武」に対して「文」を考えている。国の兵(軍備)と食(食糧)と信(民の信頼)の三つ中で、どうしても一つを放棄しなければならない時には、先ず軍備を後回しにせよとある(顔淵7)。「武よりも文」こそ、国治の根本理念でなければならないからである。
 学而の5と6は、一見すると、かつての教育勅語にある「親に孝、君に忠、朋友相(ほうゆうあ)い信じ」の一句を思わせる。しかし実は、孔子ほんらいの教えは、後代の儒家が説くような「家では親孝行、国では君主へ忠義」の忠孝の道を本義とするものではない。孔子の「道」は、家を捨て仕事を捨てて出家の道を歩む仏道とは異なり、「国治」を何よりも大事にする「信愛」の道なのである〔和辻『孔子』88頁〕。「信愛」をもって親と朋友と君主に仕えるのが国治への正しい道だからである。だから、国の要職にある者は、そういう「仁の人」を己の親友にせよと説いている。愚かな小人が国政に参与するならば、自分の言いなりに民を操(あやつ)ろうとして国を過(あやま)つ。孔子は、国をそのような過ちから防いで、民と国を護ろうと志す。「信と愛」の仁をもって、民と国を正しい道へ導こうとする。これが、孔子ほんらいの教えの真髄でなかったかと想う。孔子が、政治よりも家族間の人倫に重きを置くように見える時でも(為政21)、国家の原理や組織や教義ではなく、「人の道」(人倫)こそが、民と国を正しくする根源の力であることを念頭に置いている。「正とは政なり」(顔淵17)である。人を愛する仁の道(顔淵22)、これあって初めて、為政者が国を正しく治めることができるからである。「徳は孤ならず、必ず鄰(となり)あり」(里仁25)とはそういうことをも含むのであろう。
 
有子が曰く、礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯(こ)れを美と為す。小大これに由るも行なわれざる所あり。和を知りて和すれども、礼を以てこれを節せざれば、亦(また)行なわれず。(学而12)
(門人の)有子がいった、「礼(主として冠婚葬祭の定め)の働きとしては調和が貴いのである。むかしの聖王の道もそれでこそ立派であった。(しかし)小事も大事もそれ(調和)に依(よ)りながらうまくいかないこともある。調和を知って調和していても、礼でそこに折り目をつけるのでなければ、やはりうまくいかないものだ。」〔岩波訳『論語』〕
 
子の曰く、恭(きょう)にして礼なければ則ち労す。慎(しん)にして礼なければ則ちシ(し)す。勇にして礼なければ則ち乱る。直にして礼なければ則ち殺す。君子、親(しん)に篤(あつ)ければ、則ち民仁に興る。故旧遺(こきゅうわす)れざれば、則ち民(たみ)偸(うす)からず。(泰伯2)
 先生がいわれた。「うやうやしくしても礼によらなければ骨が折れる。慎重にしても礼によらなければいじける。勇ましくしても礼によらなければ乱暴になる。まっ直ぐであっても礼によらなければ窮屈になる。君子(為政者)が(礼に従って)近親に手厚くしたなら、人民も(見ならって)仁のために発憤するし、むかしなじみを忘れなければ、人民も薄情でなくなる。」〔岩波訳『論語』〕
 
 「天命」とは言うものの、孔子は、天道を原理化したり神学的に把握しようとはしなかった。天命も国家も社会組織も政治も経済も、どこまでも人と人との人倫関係において見ていたからである。人間同士の人倫こそが「人の道」であり、人の道は、小宇宙とこれが形成する国家・社会と人間を取り囲む大自然と大宇宙を決定づける中枢である。こういう視点から、孔子は、天道を原理化したり教義化したり合理化したりせずに、分からないことは分からないままに、人倫関係に焦点を当てるのである。東洋医学が、病を見ず患者を診て、病気を治すよりも病人を治そうとする発想の源は、孔子のこのような人間観、社会観、世界観から発出しているのかもしれない。
 では、どのようにすれば、小人を君子に変えることができるのか? 孔子は、伝統的な犠牲を捧げる礼(らい)を執り行なうべきことをしきりに説いている。なぜなら、そのような「礼」が「君子」の生き方を形成するからである。「礼にはずれたことは、見ず、聞かず、言わず、行なわず」(顔淵1)、正しい儀礼を執り行なうことによって初めて、呪術的で宗教的な霊威が解き放たれる。ただしそれは、儀礼を単に上辺で守ることではない(陽貨11)。儀礼で意図的に感情を高揚させることでもない。儀礼を衷心から執り行なうことによって人は初めて、儀礼の働きに与り、そうすることで「礼」を正しく守ることができる。「そのこと」が、まことに道を行なう人、すなわち「真人(しんじん)」を形成する。舜にならって、国の儀礼に従い「顔を南に向けて(儀礼を守る姿勢)、威厳をもって立つ」とはそういうことであろう。ここでは、宇宙に働く力も国家に働く力も人間に働く力も、儀礼の規範と一つになってとらえられている。政治における「徳」の力とは、「北極星が自分の場所にいながら、多くの星星が、北極星に向かって恭しく礼するようなもの」(為政1)なのである〔エリアーデ『世界宗教史』(2)20~21頁〕。
 人の振舞いが、そのままで宇宙の調和の力の顕現となり、その力によって、人は宇宙の調和に従う人間へと変容する。これこそが、孔子が言う君子に具わる霊性である。古来の複雑で階層化された儀礼を人がだれでも求めて執り行なうことができる「礼」へと変容させることこそ、孔子の「宗教改革」であった。「礼」を通じてもたらされる霊性こそ、人に具わる生得的な適正と修練による教育によって「君子」を形成するからである。富と貴い身分は誰しも望むところだが、それらは、勤勉で高潔な人でなければ、ふさわしくない。貧しく賤(いや)しい生活は誰しもいやがるが、怠惰で下劣な人にはこれが避けられない。「君子は食事の時でも仁の道をはずれることなく、急変の時でも仁にいることができる」(里仁5)のである〔岩波『論語』72頁〕。
 
子の曰く、学びて時にこれを習う。亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる、亦(ま)た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。(学而1)
 
 孔子がその弟子たちに語る学びの心得の最初の言葉である。「学ぶ」こと、これが孔子の教えの基本である。「学ぶ」とは繰り返し「習う」、すなわち「おさらい」することであり、「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」(為政17)とすることで、さらに深く「知る」ことを求める心である。これが、単なる断片的な「知識」でないことは、その智慧を慕って「遠方より」想いを同じくする人が尋ねて来ることで分かる。だから、これは霊的な智慧のことであり、霊的であるがゆえに人々には分かってもらえない。この事情は、プラトン学派でも釈迦の宗団でもイエス・キリストのエクレシアでも同じである〔和辻『孔子』83頁〕。しかし、そのことを「恨む」ことも「怒る」こともなく、伝わる相手に伝えて教え導くこと、これが孔子の理想の「君子」の在り方であり、弟子たちへの模範である。真理の智慧を学び求め、霊的な交わりが与えられ、この世の人々の中にあって端然としている。これが「知恵の人」すなわち「君子」の道であろう。
 
有子(ゆうし)が曰く、其(そ)の人と為(な)りや、孝弟(こうてい)にして上(かみ)を犯(おか)すことを好む者は鮮(すく)なし。上(かみ)を犯すことを好まずして乱を作(な)すことを好む者は、未だこれ有らざるなり。君子は本(もと)を務(つと)む。本(もと)立ちて道生ず。孝弟なる者は其れ仁(じん)の本(もと)たるか。(学而2)
 
 有子は、孔子の門人で、姓は有(ゆう)で名は若(じゃく)。孔子より43歳も若く、容貌が孔子に似ていたため、孔子の死後、学派の中心に立てようとする企てがあった〔岩波『論語』21頁〕。彼は、顔は似ていてもその人柄は似て非なる者であったらしく、後に斥(しりぞ)けられた。しかし、そのような歴史的な事実をもって、『論語』の冒頭に有子の言葉がくるこの章を解釈するのは適切でない。ここで大事なのは、有子の史実よりも、『論語』では「弟子の言葉」が師の言葉と同等に扱われているそのことである。しかも、それが孔子によって「真」だとされていることである。テキスト本文を史的・文献的な考察だけで判断してはならない。『論語』という作品の内容の本質に照らして、すべての章を理解しなければならない〔和辻『孔子』85頁〕。
 『論語』が伝える「学ぶべき道」の最初が「孝弟」である。父母を敬いこれに仕える「孝行」と兄や年長者に仕える「悌順」、この「孝行悌順」が始めに来る。この辺りは、「主(神)を畏れることは智慧の始め」と教える旧約聖書とは少し異なる。孔子の「道」とは本質的に「人が人に対する道」のことであり、したがって「人倫」こそが出発点である。ただし、その人の道の始めである「孝悌(弟)」は、人の「本(もと)を努める」こと、すなわち人の心の根本から生じる想いでなければならない。「衷心から出た仁(じん)」の想いによる「孝悌」の道でなければならない。「仁」を「愛」と解するなら〔和辻『孔子』86頁〕、「あなたの父と母を敬え」とあるモーセの十戒に近くなるから、心を尽くして神を愛し、同じように隣人を愛せよとある旧約聖書の道へつながる。心から出る人と人との道、これと人の神への道、この二つは相互に矛盾するものではなく「通い合う」ものであろう。「目に見えぬ神の心に通(かよ)うこそ、人の心のまことなりけれ」ということであろう。
 箴言の教えと神の言葉がつながるように、『論語』の教えもその霊性において、聖書の霊性につながるところがある。ただし、孔子は、この「真心から出た人の道」を単なる道徳として見ているのではない。人の真心(まこと)こそ人の「信(まこと)」であり、人を愛し民を愛する「信」こそが、国を治める基本だと謂(い)うのである。「言葉が上手で、顔つきが良い」(学而3)世の政治家たちにこういう「仁」を見出すことが少ないのが、孔子には残念なのである〔和辻『孔子』86頁参照〕。
 孔子は、安易に人を信頼することをしなかった。彼はあまりに知恵者だったからである。彼は、人を信頼はしなかったが「信頼するに足る者」に変えようとしたのである。これこそが「仁の人」に具わる徳である。「仁の人は智者でなければならない」(公冶長19)。しかし、智者が仁とは限らないから、誰がまことの「仁」を具えているのかを見抜くのは難しい(公冶長5)。「己を克(せ)めて礼に復(もど)れば、天下仁に帰す」(顔淵1)「一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界じゅうが仁になつくようになる」〔岩波訳『論語』〕とあるように、仁は礼と深くかかわる。この点で、多分に理想化されているとは言え、孔子の中国の王朝に向ける畏敬の眼差しは注目に値する(八?5)。
 智慧の霊性は、古来の中国から周王朝に受け継がれてきた(八?14)。殷は夏の「礼(らい)」を受け継ぎつつこれを改め、周は殷の「礼(らい)」を受け継いでこれを改革してきた(為政23/泰伯20)。岩波訳では「礼」を「諸制度」と訳しているが〔岩波『論語』49頁〕、「礼(らい)」は、ほんらい宗教的な諸儀礼と深く関わっている。「大廟(魯の周公の礼廟)に入る時は、そこの儀礼をひとつひとつ尋ねる」(郷党18)心がけが大切なのだ。孔子が人間関係の「礼(らい)」を説くとき(学而12/為政5)、その礼の起源を天来の儀礼に求めている(八?12/17)。天来の霊性こそ、人と人との間に相互の礼にある「和」をもたらす。周王朝に伝わる「礼」こそ、「仁の智慧」を解放する。仁の智慧は、人をして仁に「居らせる」(里仁1/2)ように働く。だから彼は、片時も仁を離れることがない(里仁5)。これを知ることができれば、人生の目的が達せられたことになる。「朝(あした)に道を聞きては、夕べに死すとも可なり」(里仁8)である。「仁」の徳を育成する道は「愛情を育てる」ことであろう。この「仁の道」は、新約聖書を含む古今東西の人倫の道と共通するから(公冶長12)、仁の道は、おそらくさらに高い次元の霊性へつながることを孔子は洞察していたのではないだろうか(壅也30)。
 『論語』で言う「君子」とは、人間の理想像であり、具体的には、周の武王の弟で周王朝の創設者である周公旦を指している。特別な技術を身につけるのではなく、「君子は文を学び、礼を以って行なう」ように教えた。「文」とは『詩経』と『書経』のことであるから、『詩経』から人間の豊かな情操を学び、『書経』から政治の肝要を学び、その上で、礼儀作法と秩序の感覚を養い実践せよという意味である。その窮極には「仁」の達成があった。「仁」とは家族愛を拡充することによって、広く他人の立場を思いやる心のことである。文化の根底には「仁」がなければならない。政治も経済も、すべてはこの「仁」から発出する。だから「君子は片時も仁を忘れてはならない」のである〔朝日百科『世界の歴史』(8)43~44頁(町田三郎)〕。孔子は、自分の政策の中心に「仁」をおいて、礼節と仁による政治を志した。彼は、暴力や権力によらず、学ぶことを通して文明の知恵と知識を活かし、これをもって国を治め民の平和な暮らしを守る道を説いた。しかしながら、彼の政治思想を受け容れる国はなく、弟子たちと放浪の旅を重ねなければならなかった。
 
子貢が曰く、我れ人の諸(こ)れを我れに加えんことを欲せざるは、吾(わ)れ亦(ま)た諸れを人に加うること無からんと欲す。子の曰く、賜(し)や、爾(なんじ)の及ぶ所に非(あら)ざるなり。(公冶長12)
子貢がいった、「わたくしは、人が自分にしかけるのを好まないようなことは、わたしの方でも人にしかけないようにしたい。」先生はいわれた、「賜よ、お前にできることではない。」〔岩波訳『論語』〕。
 
子貢問うて曰く、一言にして以て終身これを行なうべき者ありや。子の曰わく、其れ恕(じょ)か。己れの欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ。(衛霊公24)
子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生行なっていけるということがありましょうか。」先生はいわれた、「まあ恕(思いやり)だね。自分の望まないことはひとにしむけないことだ。」〔岩波訳『論語』〕
 
 「恕」とは「思い遣り」のことであるが、同時に「寛恕」という言葉があるように、寛(ひろ)い心で「赦す」ことをも意味する。孔子が「吾(わ)が道は一以てこれを貫く」と告げた時、これを受けて門人の曾子は、「夫子(ふうし=先生)の道は忠恕のみ」と注釈している(里仁15)。「忠」は内なるまごころにそむかぬことで、「恕」は他人へのまごころからの思いやりのことである〔岩波『論語』78頁〕。孔子の「仁と恕」は、聖書の「愛と赦し」に通じる。ここで語られていることは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7章12節/ルカ6章31節)とあるイエスの言葉を想わせる。『論語』と新約聖書の黄金律を比較対照して、「してほしい」と「してほしくない」という積極性と消極性との違いを強調するよりも、むしろ、洋の東西で、これほど似通った言葉が、聖者たちによって語られているその共通性のほうに驚く。確かに、イエスの教えにはほかには見られない独自性があるが、新約聖書を読むほどに、イエスの教えと言いパウロの教えと言い、釈迦や孔子の語る教えと基本的に変わらないその共通性に驚く。
 今さらモーセ十戒を引き合いに出すまでもなく、聖典と言われるものが語る教えは、人類にとって普遍的なものであり、その教えは、人間なら誰でも分かる共通の意識に根ざすものである。大事なのは、誰でも知っているはずのその教えが、なぜ、恭(うやうや)しく聖者と呼ばれる人の口から語られ、聖典として崇められる書に記されているのか、そのことにある。チンパンジーから700万年とも800万年とも言われる太古から分岐して進化してきたはずの人類が、だれでも「よく分かって」いながら、どうしてそれを未だに実行することができないのか? 不思議なのはそちらのほうである。それどころか、最も高度な知能のチンパンジーでさえ持ち合わせていない「宗教」という知的な霊性を具えていながら、どんな未発達の動物でも行なわないような残虐非道な行為をなぜ平然と行なうのか? これほど誰でも「分かって」いて、これほど実行できない動物はほかにいないのではないか? こう思わざるをえないほど、人類は不思議でかつ恐ろしい存在である。思うに、孔子は、宗教を持ちながら、なおこれを犯す人間の恐ろしい矛盾に気付いていた。「賜(し)や、爾(なんじ)の及ぶ所に非(あら)ざるなり」、彼が愛弟子の子貢に対してつぶやいたこの言葉は、孔子が人間に潜むこの不思議な矛盾を鋭く洞察していたことをうかがわせる。
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