4章 孔子と宗教
子、怪力乱~を語らず。(述而20)
先生は、怪異と暴力と背徳と神秘とは、口にされなかった。〔岩波訳『論語』〕
季路(きろ)、鬼神に事(つか)えんことを問う。子の曰(のたま)わく、未だ人に事(つか)うること能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能く鬼(き)に事えん。曰(いわ)く、敢えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉(いづく)んぞ死を知らん。(先進12)
季路が~霊に仕えることをおたずねした。先生はいわれた、「人に仕えることもできないのに、どうして~霊に仕えられよう。」「恐れ入りますが死のことをおたずねします。」というと、「生もわからないのに、どうして死がわかろう。」〔岩波訳『論語』〕
孔子とその『論語』について次のよう言われることが多い。『論語』によるかぎり、孔子は常識人であり、凡人であった。孔子は、常識を超えるかわりに、常識の下に隠されている人類の経験に裏打ちされた「真理」を発掘しようとした。だから彼は「偉大な凡人」であり、超越的な神について語ることもなく、永遠の問題にも冷淡であった。高邁に走らず卑近な現実の中にその理想を求めた。このために彼は、人間相互の愛情を重んじて「徳」に基づく政治を説き、後世、儒家の祖と仰がれるようになった〔ネット版平凡社『世界百科大事典』を参照〕。これに類する見方はほかにもあるが、上にあげた述而篇20と先進篇12からの引用も、こういう孔子への見方を裏付けるものとして理解されているようである。
けれどもわたしの見方は、これとは少し異なる。すでに幾度か指摘したように、孔子は儀礼を含む宗教とこれがもたらす霊性に深い洞察を加えている。だから孔子が「宗教的でない」という見方には限定と注意が必要である。彼は「鬼神」を「敬して拝せず」、これにかかわるのを避けたかのようにとるべきではない。彼は鬼神の内に潜む矛盾、その宗教的霊性がもたらす禍福の二重性を見抜いていて、その上で、宗教的霊性が、時には王権の支配に恐ろしい危険性をもたらすことを熟知していたと考えるべきである。だからこそ彼は、周王朝を理想化し、神殿国家体制に基づく権力に潜む魔性を極力抑えて、民に平和と安寧をもたらす国治の道を探り求めた。彼は、例えばユダヤの預言者たちが行なったように、地上の権力に対抗して、神の視点からこれに批判と断罪を加える、ということはしなかった。あるいは釈迦のように、王権制度とこれを支える宗教を成り立たせている「人間の宗教性」それ自体に透徹した悟りの眼差しを向けて、ホモ・レリギオースゥスとしての人間存在の虚無性を見透すことで、人間がこの世の呪縛から解脱する道を求めることもしなかった。
孔子が「宗教」に重きを置かなかったという指摘は正しい。しかし彼が敢えて重視することを避けた「宗教」とは、神殿国家の王権を支えるために理念化された神学的体系を具えて制度化された「宗教」のことである。人間の「宗教性」に基づくそういう神殿国家体制には、しばしば「怪異と暴力と背徳の神秘」な臭いがまとわりつくことを孔子は嗅ぎ取っていたからであろう。けれども、孔子の人倫重視の視点からの道徳的な政治改革も、「その源泉には宗教がある」という見解もまた正しいと言わなければならない〔エリアーデ『世界宗教史』(2)19頁〕。ただし、エリアーデがここで「宗教」と言うのは「人類学的な」視野からであって、理念化され体系化された教義を伴う「宗教」のことではない。わたしがここで言う「宗教性」も同様に「人類学的」である。それは、ホモ・レリギオースゥス(宗教する人)として進化を遂げてきた人類に具わる生々しく時には残酷なまでの宗教的現実を指している。それは、共同体を形成する積極的な原理として、原初から人類を支えてきた宗教と宗教体験だけではない。宗教する人類の宗教体験は、敵対する同類の共同体を殺戮し、己の生存を脅かすあらゆる生物へのすさまじい暴力と絶滅をも敢えて辞さない「宗教性」と表裏を成している。孔子が見ていた「鬼神」もこれに近い存在として彼の眼に映っていたのではないか。だからこそ彼は、正しい礼とこれによって育まれる人倫の道を通じて、王権を民の平和と安寧のために機能させる「このこと」だけに専心したのである。
孔子は、殷王朝末期の紂王に見るような暴虐な専制政治のもたらす堕落と恐怖を知っていた。「怪力乱~を語らず」とあるように、彼もまた、怪異と暴力と背徳の王権が「神秘な魔性」に動かされ操られる時の恐怖と悲惨の背後に、人間に潜む「宗教的な魔性」を洞察したのであろう。それだけでなく、彼は周王朝の後退に伴う群雄割拠の混乱がもたらす民衆の悲惨をも目の当たりにした。彼が理想としたのは、天命に従い正しい祭儀と礼に基づく秩序と平和の回復であり、「仁」と「忠恕」を具えた王政による徳治であった。このような徳を具えた「人の道」こそが、暴政と圧政から民を守り、同時に秩序ある礼節によって平和と安寧をもたらす道であると説き続けたのである。
孔子の教えは、その後儒教として東北アジアに大きな影響を及ぼした。かつての朝鮮王朝は、14世紀末に太祖が創立したが、太祖は新王朝の創設に当たって、国教をそれまでの仏教から儒教へ転換した。これは、寺院の宗教的な権威を背景とする地方の諸公の勢力を抑えて、国家の統一を図り、弱体化した王政を建て直すための政策であった。この王朝は、明と清などの大国の支配を受けながらも、1863年の哲宋まで500年近くも続いている。
しかし、王朝が18世紀後半の正祖(治世1776年〜1800年)の時代になると、儒教的な官僚と結んだ諸侯たちが両班(やんばん)と称する貴族階級を形成して、己の利得を図り民を苦しめていた。「イ・サン」という韓国のテレビ・ドラマによれば、正祖は、その英断によって王権を強化し、国政の改革を図ろうとするが、貴族と儒教官僚による抵抗に遭って改革はなかなかはかどらなかった。儒教を国家宗教とする官僚制の弊害を打破するために正祖は貴族と儒教官僚たちと闘わなければならなかったのである。一方で、王権の強化政策を利用して、利得と専制を図ろうとする臣下も現われたから、改革はいっそう難航した。この事例は、儒教には、王権の専制を抑える一定の役割を果たす機能があると同時に、それが制度化することで、弊害をもたらすことをも示している。ちょうどこの頃、中国から天主教(カトリック)が朝鮮に入ってきたから、王権と儒教官僚とカトリックの三つどもえが生じることになった。正祖はカトリックを擁護したが、儒教官僚は、万民を神の前に平等とみなす天主教は、儒教国家体制の身分秩序を崩壊させるとしてこれに反対した。
言うまでもなく、これは孔子よりもはるか後代の儒教と、これを国教とした王朝のことであるから、この事例と孔子の教えを直接結びつけることはできない。しかし孔子の思想が、宗教的な神殿国家が陥りやすい暴政を抑えて、民に安寧と秩序をもたらす政治理念として一定の役割を果たしてきたことは確かである。「宗教する人類」ホモ・レリギオースゥスが形成した文明とこれに支えられた王権体制をば、智と礼と仁によって平和な統治へ導こうとしたこと、特に「礼節を重んじる」倫理観によって、宗教する人に潜む人類の矛盾を克服しようとしたことで、孔子は高く評価されるべきであろう。
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