旧約以前から士師の時代まで

旧約以前の預言
  ヘブライ語の動詞「ナーバー」は「霊感によって語る・預言する」という意味で、これの名詞形が「ナービー」で「預言者」のことです。ヘブライ語の名詞「ナービー」の語源は「ヌビー」で、セム系のアッカド語からでた語です〔The Theological Dictionary of the Old Testament, vol.IX,131 〕。アッカド語では本来「名前を呼ぶ」という意味で、そこから「神に召された者」「神に代わって語る者」の意味になりました。
 ユーフラテス河の流域では紀元前5000年頃から農耕が営まれていて、この地方は、エジプトや中国と並んで世界で最も古い3大文明の発祥地帯として知られています。これをメソポタミア文明と呼びます。シュメール民族は、北部のイラン地方からこのメソポタミア地方へ侵入して、前3500年頃にユーフラテス川周辺に都市国家を成立させました。シュメール王国はウルク王朝からウル王朝へと続きますが、これらの王朝は世界最古の都市文明を成立させたと言えます。
  その後、前2300年頃にメソポタミア北部にアッカド王国が成立することになり、メソポタミア地方は、北部のアッカド王国と南部のシュメール王国とに分かれました。アッカド王国のアッカド語が後のバビロニア語となりました。「預言者」はアッカド語で「ナブーム」と言います。南部のシュメール王国には、聖書にその名がでてくる都市ウルク(「創世記」10章10節)とアブラハムの出身都市ウルがありました。シュメール語とその文化は、母神イシュタルやギルガメシュ神話などで知られていて、特に神話、祭儀、学問の分野で大きな影響を与えました。すでに前1850年頃の粘土板には、預言者がシュメール王国の未来について預言して「イシュタルはかく語った」と王に告げたという記録が残されています。
 アッカド王国が成立したのとほぼ同じ頃に(前2500年)、現在の北シリアにエブラ王国が成立しました。エブラはアッカドやシュメールの文化の影響を強く受けていたと考えられます。1974年から1976年にかけて、このエブラ王国の存在した地域から1万4000点以上に及ぶ粘土板文書が発見されました。これらは楔形(くさびがた)文字を用いたエブラ語で書かれていますが、シュメール文字のものも多数発見されていて、両者の交流が盛んであったことを示しています。特にエブラの神殿様式は、カナン地帯で広く採用され、その様式はソロモンの神殿につながると見られています。
  エブラ語は、ウガリット語、フェニキア語、古代ヘブライ語などと同じく、カナン語圏(現在のパレスチナ)に属すると考えられますから、シュメール語とは区別されているようです。しかし、この発見によって、古代の南部メソポタミアのシュメールからマリを経てエブラへとセム系の文化圏が広範囲に存在していた可能性がでてきたのです。エブラ文書にも「預言者=ナービー/ナブー」がでてきて、この語は、これらカナン語圏では共通して「神に呼び出され神に代わって語る人」を意味していました。
 1934年に、シュメールの都市ウルとエブラ王国を結ぶ途上にあるマリでも、楔形文字で書かれた2万5000枚に登る粘土板文書が発見されました。マリは紀元前4000年にはすでに存在していましたが、バビロンの王ハムラピによって前1760年頃に滅ぼされました。これらの文書には、「ヘブル」という言葉の語源を思わせる「ハビル」が頻出しますが、注意されるのは預言者に関する文書が多いことです。特に女預言者の存在が注目されています。マリ語では、神のお告げを語る人は「マフーム/マフートム(女性)」で、これは「恍惚・興奮状態」を意味します。さらに「ナブー=お告げを語る人」も同じ意味で用いられ、王が複数のナブーたちを呼び寄せて神へのうかがいをたてて、王に有利なお告げを受けたことが記されていますが、その詳細はわかりません。
 また、マリ文書の中には、王などのたてるうかがいに「答える者」として、アッカド語の「アーピルゥアーピルトゥ」がでてきます〔Anchor Bible Dictionary, vol.V, 478〕。これには男女がいて、さまざまな「うかがい」に答える役割を果たしていたようです。ここで言う「答える」は、ヘブライ語の「アーナー」に相当していて、嘆き訴える者に神のお告げが与えられる(「詩編」22篇22節)という意味になります。
 これらの預言の多くは神殿で神に犠牲を供える祭儀を伴っておこなわれました。そこでは預言者が恍惚状態で夢やお告げを語り、王に警告や励ましのお告げを語っています。女預言者が興奮状態でお告げを語ったともあります。お告げはほとんどの場合王の役人に伝えられたようで、これから判断すると、マリでの預言は、主として王のいる宮廷でおこなわれたものが記録されて残ったと思われます。ただし、預言者の恍惚あるいは興奮状態は、預言者自身の自己認識を必ずしも失わせるものではなく、マリの預言者たちは、自分の預言の内容をきちんと理解して語っていたようです。この点でも、ヘブライの預言者が、恍惚状態にあっても自制心を失わず、自分が神から「遣わされた」(サーラー)ことを意識しているのと共通するところがあります(例えば「イザヤ書」6章8節/「エレミヤ書」1章7節など)〔The Theological Dictionary of the Old Testament, vol.IX,136〕。
  フェニキアでは、預言者はヘブライ語と同じ「ナービー」です。彼らはバアル神におうかがいをたてそのために興奮状態に入ったとあります。フェニキアの王子に仕える従者が、これに加わって恍惚状態になって預言したことも記録されています。カナンの「アシェラの預言者」たちは、「列王記上」18章19節にもでてきます。カナンでは、例えば「出エジプト記」3章12節などにあるように、神が預言者に「しるし」を与えたことが語られています。さらにまた、アラム語の碑文では、王が「主なるバアル」から夢・幻を受けたとありますが、この「幻」はヘブライ語の「ホーゼー=幻視する者/預言者」(「民数記」24章4節)と同じ語源です。
 マリの伝承を受け継いでいるアッシリアでも、王のための祭儀において恍惚状態で「告知する者」や母神イシュタルから「啓示を受ける者」や王のために神に献身する女預言者の宣託がおこなわれたことが記録されています。このほかに、エジプトでも預言の伝統が長く、国家の将来を予言する祭儀的な預言者たちがいました。彼らは、国家の危機に際して国を救うヘブライのメシア的な預言者の先触れと言えるのかもしれません。 

土地のない神
  上に述べたマリの預言やカナン圏でおこなわれていた預言の形態は、古代のヘブライにも受け継がれました。「聖書の宗教はそれ自体で存在しているのではない。きわめて多層の古代オリエントの宗教史から成長してきたのであり、その後、最高の独自な方向転換をとげて、他の古代世界からますます離れていったのである。イスラエル宗教が肥沃なる三日月地帯の宗教史に錨を下ろしていることは、預言のような現象の場合にとくに明瞭になる」〔K・コッホ著/荒井章三・他訳『預言者』T、教文館32〕とあるとおりです。旧約聖書の預言ばかりでなく、旧約の宗教それ自体が、これに先立つ幾千年もの人類の歴史の上に成り立っていることを私たちは忘れてはなりません。
  イスラエル民族の祖先はいわゆる「遊牧民」であると言われてきました。しかし、住居を定めず常に移動し続ける「遊牧の民」とは別に、雨期になると荒れ野の奥地に入って家畜を養い、乾季になると肥沃な地帯に移動して、その土地の農耕民が刈り入れを終えると、その後の田や草地や森に放牧して家畜を養うという形態の「家畜飼育民」も存在していました。彼らはそこに住む土地の住民と放牧のための森林や水を確保するための井戸の使用権利などを契約によって確保していました。したがって、家畜飼育民は、農耕民たちに依存して生活しなければなりませんでした。はっきりしたことはわかりませんが、イスラエルの先祖は、このような家畜飼育民であったと見るのが正しいようです。
  ところが遊牧民の中でも駱駝を飼う「駱駝飼育遊牧民」がいました。駱駝は広範囲な移動を可能にします。しかも彼らは食物や衣服などの生活必需品を駱駝から得ることができたので、農耕の民に依存して暮らす必要が無く、彼らだけで独立した生活を営むことができました。このような駱駝飼育遊牧民は、強力な家族/部族意識を持ち、相互に同盟を結んでいました。したがって、彼らは、周囲の農耕民族にとって、友好関係と敵対関係との両方の可能性をいつも秘めていたのです。この駱駝飼育民がパレスチナ地方で力を現し始めたのが、紀元前1000年頃です。聖書に「家畜の群を飼う民」〔「歴代誌下」14章14節→新共同訳では「家畜の群の天幕」とありますが、「天幕」は「民」と読むのが正しいようです〕とあるのがこの駱駝飼育遊牧民です。聖書にでてくるアマレク人やモーセが一時身を寄せていたミディアン人などが、この駱駝飼育民であったと考えられています。
 いわゆる「ベドウィン」と呼ばれているのは、このような駱駝飼育民のことです。彼らは比較的弱小な家畜飼育民たちを支配していました。このような遊牧民を特徴づけるものとして強固な家父長的部族主義があげられます。ただし、家族/氏族/部族の形態は、都市国家に対応するための組織であって、家父長や部族主義それ自体が、必ずしも駱駝飼育民や家畜飼育民の特徴であると断定することはできません。これらは農耕民の間でも見られる形態だからです。
  こういうわけで、イスラエルの祖先は、家畜飼育民として、カナン地方の農耕民との契約によって、彼らに依存して暮らす民でした。しかし彼らは、家族/氏族/部族主義と部族同士の契約に基づく同盟関係を遊牧民から継承していました。それだけでなく、血の復習の慣習、安息日や過越祭や贖罪の儀礼なども受け継いでいたと考えられます。その上彼らは、さらに重要なものを遊牧の民から受け継ぎました。それは遊牧民の持つ独特の神概念です。
 「ヘブル」のもととなる「ハビル」というのは「土地を持たない人たち」を指す言葉であったと思われますが、イスラエルの先祖が受け継いだ神についての考え方は、この「土地のない神」からでてきたのです。モーセがミディアンの祭司のもとへ身を寄せていた間に、初めて「ヤハウェ」という神の名前を啓示された(「出エジプト記」3章14節)とありますが、モーセに顕れたヤハウェは、遊牧民が受け継いできた「土地のない神」であったと言えます。こうして、イスラエルの先祖は、農耕の民に依存し彼らと関係を保ちながら、同時に遊牧民の生活形態とこれに伴う宗教的祭儀をも受け継ぐことになったのです。
  ヘブライ語の「言葉」にあたる「ダバール」は、背後から押し出すという行動を示唆していますが、ギリシア語の「ロゴス」は、「集める」「秩序立てる」「整える」という意味からでていて、これは理性・理念に関連しています〔浅野順一『イスラエル豫言者の神学』12〕。ギリシア思想と対比されるイスラエルの思想の根底には、モーセの神「ヤハウェ」の「土地のない神」概念があるのです。

カナンへの定住
  イスラエルの12部族がカナンでの土地取得を開始したのは、紀元前1250年頃のことであると考えられています。聖書によれば、モーセの後を継いだヨシュアの指導によってカナン侵入が開始されたとあり、また、このモーセこそが、メシアとしてイエスが現れるまでの最大の預言者であると言われています。しかし、「出エジプト記」や「民数記」で描かれているモーセの姿には、捕囚前後のいわゆる申命記史家(たち)〔前600年から前500年頃まで〕によって、編集の手が加わえられていると見ることができます。この点では「ヨシュア記」も同じで、現在では、イスラエルの12部族が、いっせいにカナンへの侵入を果たしたとは考えられていません。そのような劇的な歴史は、エジプトから脱出してカナンへ入り込んだ一部の部族や集団には当てはまるかもしれませんが、実際には、それぞれの部族が、徐々にカナンの諸地域に比較的平和に定住していったと見るほうが正しいようです。
  イスラエルの諸部族は、その定住の過程で、土着のカナンの宗教や文化と出合い、時には激しい衝突も起こしました。「ヨシュア記」で語られている戦争の物語には、このような政治・軍事・宗教の衝突が反映しています。しかし、定住が進むにつれて、イスラエルの諸部族は、カナンの宗教とその儀礼とを採り入れていきました。イスラエルの祭儀は本来カナンを起源としています。彼らはこれをイスラエル的に解釈することで、次第に自分たち独自の祭儀を完成していったのです。だからイスラエルの祭儀は農耕儀礼に基づいています。例えば酵母を入れないパンを食べる除酵祭(「出エジプト記」12章8節)は、3月から4月にかけての大麦の収穫を祝う祭りであり、「7週祭」(「出エジプト記」34章22節)は、5月から6月にかけての小麦の収穫の祭りです。この祭りが後に5旬節(ペンテコステ)となりました。仮庵祭(「レビ記」23章34節)は、9月から10月にかけてのぶどうの収穫を祝う祭りです。その上、新月や安息日も農耕と無関係ではありません。ただし、過越祭は3月から4月にかけておこなわれますが、これは元来家族から悪鬼を追放するための牧畜民の儀礼から来ていると思われます〔浅野 214〕。
  神の呼び名について言えば、「主」を表す言葉は、カナン語圏では「バアル」であり、これはセム系の文化圏では神を意味する一般的な呼び方でした。この神への呼びかけ方からもわかるように、同じセム系のイスラエルの「ヤハウェ」も「バアル」と呼ばれる場合がありました。したがってイスラエルの宗教は、「バアル」と「ヤハウェ」の混淆宗教の様相を呈していたと言えます。ちょうど日本の神道と仏教とが混合することで、「南無八幡大菩薩」(なむはちまんだいぼさつ)などという神仏への呼びかけがおこなわれるようになったのと類似しています。その結果カナン定住後のイスラエルでは、外敵との戦いの場合には、部族間の結合を強めるために、ヤハウェへの契約信仰に基づく12部族連合が結成され(前1200年頃か)、他方日常の生活では、バアル的祭儀宗教がおこなわれるという宗教形態の二重性が生じたのです。
 牧畜民としての宗教形態とカナンの農耕民としての宗教形態とが混淆する過程において、摩擦や衝突が生じるのは避けられませんでした。その上、イスラエルにとって不運なことに、ちょうどイスラエルがカナンへの定住を始めたすぐ後で、地中海からペリシテ人がパレスチナの沿岸へ侵入してきたのです(前1150年頃)。定住を始めたイスラエルの諸部族は、直接このペリシテの脅威にさらされることになりました。ここでも衝突と摩擦が起こり、私たちはその典型的な例をサムソンとデリラの物語(「士師記」13章〜16章)に見ることができます。当時の戦争は、民族や部族同士の争いという以上に、民族や部族がそれぞれに信じている神と神との間の戦いでもありました。したがって、イスラエルの戦いは、なによりもまず「ヤハウェの戦い」(「ヨシュア記」10章8節以下)であり、その意味で古代の戦いは本質的に「宗教戦争」だったのです。16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパでも、カトリックとプロテスタントとの間で宗教戦争が起こりました。現代でもイスラム世界では、自分たちの戦いを「聖戦」(ジハード)と呼んで、アラーの神による戦いと見なしているようです。イスラエルの諸部族は、このように摩擦と衝突を繰り返しながら、徐々にカナンの文化を吸収していったのです。

士師たち
  預言状態にある人を表すヘブライ語には、「ナービー=預言者」と「ローエー=先見者・幻を見る者」と「ホーゼー=幻視者・透視者」の三つがあります。このほかに「神の人」という言い方もあります。神の霊に動かされて語り行動した人、あるいはこの霊に満たされた人一般を「預言者」と呼ぶのであれば、アブラハムは預言者(ナービー)であり(「創世記」20章7節)、これが聖書にでてくる最初の「ナービー」の例です。またヤハウェの霊に満たされたモーセの兄アロンが「ナービー」と呼ばれています(「出エジプト記」7章1節)。モーセ自身もイスラエル最大の預言者であるとされています(「申命記」34章10節)。しかし、実際にアブラハムが当時の人々に「ナービー」と呼ばれていたかは大いに疑問です。おそらくそうではなかったでしょう。彼らを例えば王国時代にダビデ王に仕えたナタン、さらに北王国イスラエルの人たちに語ったアモス、ホセアなどの記述預言者と同じ意味で「預言者」と呼ぶことはできません。アブラハムを「預言者」(ナービー)と呼ぶのは、後の代にでてきた預言者の称号をイスラエルの歴史の父祖へも遡らせようとする後代の聖書編集者の意図からでたと考えられます〔Gerhard von Rat; Genesis.228〕。同じことが、モーセやアロンの「預言者」という呼び方にもあてはまります。もっともこのことのゆえに、彼らの霊的な偉大さが減じるわけではありませんが。
  イスラエルがカナンへ定住してから、「ヨシュア記」には「ナービー」という言葉は表れません。しかし「士師記」には「女預言者」としてデボラが登場します(「士師記」4章4節)。彼女の出現は、家畜飼育民の弱体な部族連合が、カナンの王たちの強力な連合軍と戦ったその危機的な状況の中で起こりました。その意味でこの戦いは、デボラの属する部族の運命にかかわるものでした。古代イスラエルのジャンヌ・ダルクと言えましょうか。ギデオンも同様に、イスラエルがアマレクなどの駱駝遊牧民に制圧されていたときに、イスラエル古来の神ヤハウェによってバアルの祭壇を壊して立ち上がります。デボラもギデオンも民族としての統一もなく王もいない時代にあって、「戦いの英雄」として神の霊を受けた人々です。このように、イスラエルがカナンに定着し始めた時代には、神の霊に動かされた「預言者」とは、部族の危機的な戦いに際して活躍した人たちを指していると考えられます。
  しかし、私たちは同時に、ギデオンの父がバアルの祭壇を建てていたという事実にも注目しなければなりません。「士師」とは「裁き司」のことです。いわば部族の慣習や掟によって民や部族内の問題を解決する仕事を指しています。したがって、このような役割を受け持つ士師が、戦争において、特にヤハウェと他民族との宗教戦争において指導的な役割を果たすというのは、異例と言わなければなりません。通常の裁き司は、部族内だけでなく、カナンの定住民との間に生じるさまざまな問題をも処理し、そうすることでイスラエルの部族とカナン人との慣習や宗教儀礼の違いから生じる問題を解決する役割をはたしていたはずだからです。私たちは、危機に際して現れるデボラやギデオンのように英雄的な大士師のほかに、数多くの小士師が存在していて、イスラエルとカナン人との間の調停に当たっていたと見るべきで、おそらくギデオンの父もそのような役割を果たしていたのでしょう。だから、彼の父の家にバアルの祭壇があってもおかしくなかったのです。つまり、当時のイスラエルの裁き司たちは、普段の生活では、イスラエルの慣習や儀礼とカナン人のそれらとの調停を図りながら、一度部族の危機となる戦が生じると、ヤハウェの名の下に連合して戦うというやり方をしていたのです。
  この間の事情は、サムソンの場合になるといっそうはっきりします。サムソンは、ペリシテ人とイスラエルの民との間に立たされた士師でした。「士師記」13章以下の物語によると、彼の部族はペリシテに支配されていたようです。ところがサムソンが立ち上がり、ペリシテを撃退します。しかし、サムソンは敵の手に捕らえられます。最後にサムソンは再びペリシテに大打撃を与えることで勝利のうちに倒れます。この物語には、互いに支配したりされたりを繰り返すイスラエルとペリシテとの関係が反映しています。
 しかも、そのような争いの水面下では、サムソンはペリシテの女性を愛してその一人と婚姻関係に入るのです。そこには、争いと同時に、相互の文化的宗教的な交流がおこなわれていたことが示唆されています。敵対と融合、この二つの一見異なる事態が複合しつつ進行しているのがサムソンの物語です。イスラエルとペリシテとの両方に挟まれたサムソンの心の揺れは、そのまま当時のイスラエルの諸部族がおかれていた文化的・経済的・宗教的状況を映していると見ることができます。
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