ただし、これらの特徴については不確かなところもあります。例えば、北イスラエル王国の支配層を非難した点では、アモスの先人とも言うべきエリヤやエリシャたちがいますし、アモスが、その活動の初めから、全くの単独な預言者であったかどうかについても疑問が持たれています。
アモスの預言活動は、北イスラエル王国のヤロブアム2世(前786〜746)と南ユダ王国のウジヤ王(前783〜742)の時代に当たります。この両王たちの長い治世は、どちらも比較的平穏のうちに、発展と拡大の時期を迎えていました。北方のアッシリアも南方のエジプトも未だ脅威ではなかったので、南北の両王国はダビデ王朝時代の領土を回復しようと目指していました。
「アモス書」(1の1)によれば、アモスはテコア(エルサレムの南西にある村)の人とあるので、この記述から判断すると南ユダで生まれ育った人です。彼が北王国から南王国へ追放されたのもこのためであろうと考えられます。ところが、北イスラエルのガリラヤにもテコアという地名があったことから、ここが彼の故郷ではないかという説もあります。南王国のテコアでは「いちじく桑」(7の14)が育たないからです〔K・コッホ著『預言者T』教文館、139頁〕。私は、南ユダ王国で預言者として召され、北王国へ出向いて預言活動を行い、その結果追放されて南王国へ戻り、そこで「アモス書」を編集したという従来の説をとりますが、北王国の出身という説も捨て切れません。
預言活動を始める前までのアモスは、貧しい羊飼い(7の14)でいちじく桑の栽培者であったというのが従来までの彼のイメージでした。しかしアモスについて直接述べられているのは「アモス書」の7章10節〜16節だけですから、この箇所だけから、彼がただの羊飼いであったかどうかを判断するのは問題です。例えば王室の羊を管理する豊かな羊の所有者であり、いちじく桑は家畜の食物として、彼はその栽培をも管理していたのではないかとも考えられます。アモスは独立の土地所有者で、王室の羊を管理する役人であったのかもしれません。彼は両王国とその周辺の国々の歴史をよく知っていますし、詩的な表現を用いて預言する豊かな言語の才能を持っていますから、そうとうの知識人であったのは間違いありません。
彼の預言は主として北イスラエル王国とその首都サマリアに向けられたものですから、アモスは南ユダ王国から北イスラエルへ出向いて預言したことになります。しかし彼は、それ以前の預言者とは異なり、預言者宗団のメンバーとして預言活動を行なっていたのではなかったようです(7の14)。ダビデとソロモンの王政時代を経て、職業的な預言者宗団は、この頃すでに王室の庇護の下にあったために、王や国事に関しては、批判するよりもむしろ擁護的な預言をする場合が多かったのでしょう。この意味でアモスは、単独の預言者として注目に値する人です。ヤハウェの言葉を受けた者はだれでも預言できる。この事例を確立した点で、彼は画期的な預言者です。ただし、彼の表現には祭儀的な様式が用いられていますから、祭儀にかかわる預言者としての訓練を受けた可能性があります。彼はあえて堕落した預言者宗団から離れて単独で預言活動を行なったのでしょう。
「アモス書」7章から判断すると、ベテルの祭司アマツヤが、王の命とイスラエルの命運が尽きているとアモスが預言していることで、彼を王に讒言(ざんげん)したようです。その結果アマツヤは、アモスをユダへ追放するよう王によって命じられます。これに対してアモスは「私は預言者ではない」と答えています。これは職業的に預言によって生計を立てているのではないことを意味していて、自分とアマツヤとの違いを強調しているのです。祭司アマツヤとのこの話が、アモスにかんする唯一の伝記的な記事です。これが、アモスの北王国での預言活動の最後の出来事となりました。これ以後彼はユダへ退去して、そこで自分に授与された預言を書き残したと思われます。
この部分、特に「その城郭を憎む」は、ヤロブアム時代に、北イスラエルが、ヨルダンの東部地域を制圧して領土を拡大したことに関連しています(「アモス書」6の13参照)。ヤロブアム2世は、軍事的に勝利を得て、堅固な城郭を築いて拡大した王国を固めました。また、傲慢なアッシリアの圧迫が周辺諸族の反発を招く度に、北イスラエルの民は、アッシリアに対する敵愾心を強くしていました。これらの情勢は、ことごとくヤロブアムに味方していましたから、ヤロブアムは万事うまく行っていると思っていたのです。この結果ヤロブアム2世の宮廷は傲慢と贅沢に陥ったのです。またそこで執り行われる祭儀も、民から取り立てた犠牲の上に成り立っていました。「ヤコブの誇る神殿」とは彼の宮廷が執り行なう祭儀のこのような性格を指しています。
北イスラエル王国は、完全な祭政一致国家でしたから、神殿は国家の中心的な地位を占めていました。北イスラエルの聖なる神殿はサマリアにありました。「ヤコブの誇る神殿」とはこの神殿のことです。またダンとベテルにある金の子牛は、北イスラエル王国の宗教を象徴していて、それは残酷な宗教改革者イエフの時でさえ、取り除かれることがなかったのです(「列王記下」10の28)。イスラエルは宗教国家であり、民は信心深く聖所への巡礼も祭りも欠かすことがありませんでした。人々は、自分たちの国が完全なヤハウェ祭祀国家であり、国の繁栄はヤハウェの好意から出ていることを疑わなかったのです。
ここでアモスが言う「正しい者」とは、ヤハウェの契約を実行し、神への礼拝と献げ物をおこたることなく、独立した生計を営み、共同体の中でその権利を保証されていたイスラエルの農民たちを指しています。ところが、このように本来独立した自営の農民であるはずの人たちの中から、経済的変動によって自分たちを支えてきた生産基盤を崩され、その結果貧困に陥り、負債を抱えて自分の土地を手放し、農奴(土地を持たない農民奴隷)となる人たちが増加していたのです。
しかも北イスラエル王国を支配していた貴族や富豪たちは、自らの利権と欲得のために、自分たちが本来救済すべき農民たちを見捨てて省みないばかりか、負債に苦しむこれら貧困化した人たちを、「靴一足の値段で」売り飛ばして「弱い者の頭を踏みつけた」のです。モーセの十戒にある「盗むな」とは、イスラエル共同体の中で、その人が当然受けるべき権利を与えずにこれを奪うこと、また人間(特に子ども)を盗むこと、これをしてはならないという意味でもありました。ところが北王国の支配者たちは、民が受けるべき富を独占し、負債を抱えた人間を売ることで、その家族の成員を奪い取ったのです。
イスラエルの祭儀は、「祭り」(年毎)と「新月祭」(月毎)と「安息日」(週毎)に大別されていました。この制度は、農業を営む人たちが労働を休んで神を礼拝する祭儀制度と深く結びついていました。農耕の自営業者にとって、商取引は生活の重要な部分ではなかったのです。ところが、貿易の拡大に伴い商業が盛んになるにつれて、祭儀も経済優先へと移行し始めたのです。<神様よりも商売>が人々の本音だったようです。
古代の日本でもそうですが、本来商取引は神事と結びついていました。神社の境内に祭りの日に市が立つのは、そのためです。このように、商取引とは、本来宗教的な営みで祭儀と結びついていたのです。しかしながら、神の前で聖なる営みとして行わなければならない公正な売り買いは、北イスラエルではその意味を失い、ごまかしが横行しました。商人たちは、本来の神への祭儀よりも、「安息日が早く終わって」人々を働かせ、自分たちの利益をあげることばかりを考えていたのです。
「くず麦」とは、脱穀にかけた後に残った麦くずに籾殻を挽いたのを混ぜ、それを普通の麦に混ぜた物を指しています。これは極貧層に売られていました。このようにして、飽くことのない利潤追求が、「エジプトの地での奴隷状態からヤハウェによって贖い出された契約の民」を再び奴隷状態へと追いやったのです。このように北イスラエルの繁栄には、明るさの裏に暗さが潜んでいたのです。「列王記下」14章(23節〜27節)に、ヤロブアム2世に対して全く異なるふたつの評価が並んで出てくるのは、彼の治世とその政策とが、反ヤハウェ主義かそうでないかという視点からだけでは割り切ることができないことを示しています。
というのが実状でした。「賄賂」と訳されている言葉は、「人命金」と訳すこともできます〔岩波訳〕。これは殺人の場合に支払われる贖い金のことで、富む者は金の力で人の命を奪うことさえできたのです。こうして王宮を中心とする指導者たちは、「裁きを毒草に 恵みの業の実を苦よもぎに変えた」(6の12)のです。
債務奴隷は、イスラエル共同体の「自由な民」として参加することから排除されました。ただし、債務奴隷制度それ自体は古代からのもので、イスラエルの法でも違法ではありません。だから、彼らは「合法的に」搾取され、弾圧され、排除されたのです。主なる神の契約が約束する人間の救済とは、その者が、土地所有に基づく独立した自由人となることと密接に結びついています。イスラエルの民がカナンに侵入し、そこで勝利したことが、主なる神の救済史であって、神がその民に遺したのがこの土地取得契約だったのです。だから、その相続から追放されることは、ヤハウェの契約に基づく「正義」が失われることを意味したのです。
このように、イスラエルとヤハウェとの間の契約は、「義」と「公正」を遂行することであったのに、イスラエルの支配階級は、これを転倒して、彼らの繁栄こそヤハウェが共にいる証拠であると考えました。城壁の広場には民が集まり、そこでは伝統的に直接民主制で論じ合うことができました。ところが、そういう場で、「訴えを公平に扱う者」「真実を語る者」を権力者が蹂躙したのです。彼らは、有罪が確定してもその判決を賄賂で不問にし、小規模の自由農民から過酷な納税を取りたてることによって、戦費と徴兵で「弱い者・貧しい者」へと転落させ、さらに彼らを債務奴隷として売ったのです。
「ツェダーカー」(正義に基づく社会秩序)と「ミシュパート」(公正な裁き)とは、失われた秩序を回復するために、氏族共同体、地域共同体、民族共同体が、自発的な行為によってこれを取り戻すことを意味しています。社会や国家を改革する力は、自然と社会とが土地を媒介として生きる場にあって生活する小農民たちに委ねられていました。土地の授与は、神と共同体の中で「ツァディーク(正しい者)」として生活し、ヤハウェの民として正しく生きる権利が授与されることを意味したのです。これによって初めて、ヤハウェ共同体の中にある独立した自己の能力を活かすことができました。イスラエルが、カナンの文化を吸収してこれをヤハウェ化した時に目指すべきことは、まさにこのことだったのです。カナンの宗教的祭儀を「ヤハウェ化」するというのは、このような理念に基づく変革であり、この理念を祭儀的に表現することが、イスラエルの聖所で行われる祭儀のほんとうの意味だったのです。
ヘブライでは、「義」とは行為を意味するのではなく、正しいことを行わせるあるいは行うことを可能にさせる共同体の「場」そのものを意味しました〔コッホ『預言者T』121頁〕。それこそが、主なる神ヤハウェが霊的に現臨する「場」にほかなりません。み霊にあるこういう主の顕現を体験する場こそが、主なる神と出会うカリスマの場であり、それこそが、共同体への忠誠心を養う大きな力となったのです。この祭儀に参加する人々は、そこで捧げられる犠牲の牛や羊の肉を食べ(これは現在のサクラメントであり聖餐にあたります)、そこにヤハウェの新しいみ霊の働きを感じ取り、ヤハウェの霊の顕現を伏し拝むことで、新たな力を与えられていたのです。
ところが、「弱い者を踏みつけて」得た穀物の献げ物を捧げ、民から取り立てたぶどう酒で祭りを祝い、星の神やケワンの神の御輿を担ぎまわっても、そのようなイスラエルの祭儀には、もはや主なる神から降る力もなければみ霊の働きも失われていました。祭儀に携わる王侯貴族とその夫人たちは、「祭壇のあるところではどこでも その傍らに質にとった衣を広げ 科料として取り立てたぶどう酒を神殿の中で飲んで」(アモス2の8)いたのです。
真のヤハウェの現臨を求めるにはどうすればよいのか? これが真剣に問われるべき国民的な課題でした。アモスがここで「かつて40年の間荒れ野にいたときに、犠牲は必要だったのか」と問いかけているのはまさにこの点です。国内に矛盾が生じて、民が苦しむと、必ず反乱や簒奪(さんだつ)が起きて、王は殺されたり失脚したりして、王権の交代が行われました。特に北イスラエル王国では、陰謀によるこのような王権交代が頻繁に起きました。しかし、事態は従来のような、王の交代では、最早取り除くことができないほど深刻な罪となっていたのです。「わたしがイスラエルの罪を罰する日に ベテルの祭壇に罰を下す。 祭壇の角は切られて地に落ちる」(アモス3の13)と主が告げたのはこのためです。そして今や 主はこう言われるのです。「わたしは、お前たちを捕囚としてダマスコのかなたの地に連れ去らせる。」
一読すると、この引用は、アモスがヤハウェのために行う祭儀それ自体を否定しているようにもとれます。実際、アモスは、神殿での祭儀を否定していたと解釈されることもあります。しかし現在では、この解釈は必ずしも正しくないと考えられています。
ベテルやギルガルは、ヤハウェ契約に基づく救済史の出発点となる聖所でした(「創世記」31の13/「ヨシュア記」4の20/「列王記下」2の1〜2)。それらは、土地取得による聖所創立の伝承と深く結びついた場所であり、そこで行われる祭儀は、イスラエルの民にこれを思い起こさせる国の聖所として正当化されていました。しかもベテルもギルガルも、単に主に犠牲を献げる聖所だけではありません。主のみ霊の降臨と生活を支える実りをもたらす中心こそベテルの神殿で行われる祭儀だったのです。ギルガルでの民の祭りは、人々に最初の土地契約を思い起こさせる祭儀でした。この意味でベテルとギルガルこそ救済史のより所だったのです。
では、アモスは、なぜこれを否定しているように見えるのでしょうか? 私たちはここで、祭儀を「批判する」ことと「否定する」こととを区別しなければなりません。この点を私たちに身近な例をあげて説明しましょう。
離婚する人は、結婚を大事にしない、あるいは結婚に対してだらしなくルーズな考え方をする人だ。一般にはこのように考えられています。確かに離婚する人の中には、いい加減な気持ちで結婚する人たちがいます。そもそも結婚制度それ自体が、男と女の「自然な関係」から見れば誤りだ、こういうことを言う知識人さえいるほどです。こういう人たちが、簡単に離婚するのはある意味で当然です。なぜならこの人たちは、初めから「結婚」それ自体にあまり大きな意味を認めていないからです。
ところが、離婚する人の中には、結婚を理想化して、結婚に対して夢を抱く人たちもいるのです。結婚を理想化して、これに美しい夢を抱く「純真な」人たちが、夫の浮気、あるいは妻の不倫などによって、深く心を傷つけられた場合に、彼らは、「たった一度の」浮気でも、夢が破れて離婚に踏み切ることがあります。この場合に、この人たちが「結婚それ自体にあまり意味を認めていなかった」と判断するのは誤りです。事実は逆で、彼らが離婚したのは、結婚に「あまりに大きな期待と夢を抱きすぎたから」なのです。こういう人も、離婚に至るケースが多いのです。
このことから私たちは、外見的には同じに見える離婚であっても、そこにはふたとおりの人がいることに気がつきます。一方は、初めから結婚それ自体を軽く見たり、結婚を制度として「否定する」人たちです。もう一方は、結婚を理想化したり過度に期待を抱いた人たちです。こういう人たちは、結婚それ自体の意味を否定しないどころか、純粋に理想化しているそのゆえに、現実の結婚に「批判的に」なるのです。すなわち、同じように離婚する人でも、実はその動機が全く正反対なのです。
17世紀のイングランドで、ピューリタンと呼ばれる人たちが、当時のイングランド国教会の主教制度を廃止しました。ピューリタンが主教制度を廃止したのは、主教制度の中身であるキリスト教それ自体を軽く見たり、キリスト教はくだらないと、キリスト教それ自体を否定したからではありません。それとは逆に、教会制度が本来現わしているはずのキリスト教を純粋に重要視したからです(「ピューリタン」とは「純粋にする人」という意味です)。すなわち、教会制度に反対することと、制度の中身であるキリスト教そのものに反対することは全く別のことなのです。だから、ある制度に反対する人には、ふた種類の人がいると考えられます。その制度に含まれる精神それ自体を否定する人と、逆に制度が現す精神を純化しようとする人です。
アモスは、当時の北イスラエルの祭儀を厳しく非難し、批判しました。しかし、そのことから、アモスが、ヤハウェのための祭儀それ自体に価値を認めず、これを否定したと考えるのは誤りです。そうではなく、逆にアモスは、祭儀から失われていたヤハウェ共同体の霊的な力をもう一度取り戻したい、こう考えていたのです。「わたしを求めよ、そして生きよ。」アモスを通じて語るヤハウェのこの呼びかけは、祭儀に含まれている霊的な信仰をもう一度イスラエルの民に思い起こさせようとしています。祭儀を含めて、イスラエルの宗教全体の新しい改革がここで求められているのです。もしもそれを怠るなら、「ギルガルは必ず捕らえ移され ベテルは無に帰するから」です。アモスが予見したとおりのことが、それから20〜40年後に現実に起こりました。アモスは当時の祭儀を「批判」しました。なぜなら、もしそれをやらなければ、イスラエルの祭儀それ自体が「否定」されることになるからです。
ここから始まる挽歌は、ヤロブアム2世時代の北イスラエルの繁栄からは、全く予想もつかないものでした。アモスは、当時の倫理的な腐敗を目の当たりにすることでこのような滅びの預言を行ったのでしょうか? それもあるかもしれません。しかし、アモスには、それ以上にまずヤハウェからの啓示があって、そこから同時代を見ているように私には思われます。「おとめイスラエル」という表現は、イスラエルやシオンを「おとめ」として擬人化する最初の例で、これ以後の預言者たちにしばしば用いられることになります。また「生き残る」とあるのも、ホセアを初め以後の預言書に出てくる「残りの者」の源となっています。「私を求めて生きよ」は、全体として裁きと断罪に満たされた「アモス書」の中で、唯一明るい希望が差してくる句として注目されています。このように「アモス書」には、それ以後の預言書の元型となるべき思想や表現が含まれています。
アモスの預言は、王や国の枠の中で行われていたそれまでの預言者宗団内部の預言や、運命を占う予言とは異なる次元へと踏み出しています。すなわち、宗教と国家のあり方それ自体を根底から批判し、これの滅亡を預言するということが、初めてアモスによって行われたのです。アモスの預言活動の時期をもう少し後にずらす説もあります。それでも時代に対する彼の驚くべき洞察の深さに変わりはありません。
ヤロブアム2世の繁栄と政治的成功が、ヤハウェの庇護を証拠立てていると過信したために、イスラエルの王室は、自己保身の気休め祭儀に陥りました。このために巨大な破局へ向かう危機を回避することができなかったのです。なぜ祭儀が、本来のあるべき姿からその意味をこのように逆転させることになったのでしょうか? それは、達成されたヤハウェ文化に含まれている本質的な意義を、ヤハウェの契約に基づく救済史の視点から、言い替えるなら、「歴史的に」正しく洞察することができなかったからです。このために、せっかく到達したヤハウェ文化が、その時点で当然拒否すべきであったカナン文化へと「逆戻り」(backslide・背教)する結果になったのです。ヤハウェ契約に基づく創造的な霊性を追求することが、国を救う正しい歴史観の根源であること、これを北イスラエルは忘れたのです。
このように見てくると、アモスの神は「流動する神」です。彼は単なる伝統的な<ヤハウェ主義>の立場から預言したのではありません。彼には知恵の霊が宿っていました。ですから彼を単なる祭儀否定主義者と見てはならないのです。一見そのように見えるけれども決してそうではありません。それは、申命記作家たちが、一見頑迷な律法主義者に見えていて、実はヤハウェの律法を新しく解釈し直そうとする試みを忘れていなかったのと同様です。私たちはここで、申命記作家が「ヤロブアムの罪」と非難したのは、単に過去のヤハウェ主義に戻れという単純な主張ではなかったことを銘記すべきです。アモスの祭儀批判も申命記作家の律法主義も単なる懐古的な過去礼賛ではなく、新たな事態に直面した王国の再生を願っていたことを忘れてはなりません。
イスラエルはヤハウェに選ばれた特権の民だと見なされていました。「主の日」はイスラエルに光をもたらすはずでした。しかしアモスが見たイスラエルは、すでに病んだ民と国家の姿でした。イスラエルでは、わずかな負債で民が奴隷に売られ、家畜同様に扱われていました。支配者たちは、アモスが「彼らの」神の家と呼んだ場所で、取り上げた酒を犠牲の供え物とし、社会的犯罪で得た物で祭儀を飾りました。ヤハウェはこの堕落した祭儀を拒否したのです。この時アモスは、伝統的な祭儀宗教文化をば、救済史的な視野の下に置いてこれを見ていたのです。しかし彼がそこに見たもの、それは終わりを告げる「主の日」だったのです。
そもそも古代においては、ある神が己を信じる民を滅ぼすなどということは、とても信じられないことでした。南北両王国の指導者たちも同じように考えていました。まさか、ヤハウェが、自分を信じる己の民に滅びを宣告することなどありえないと。このために「たわごと」を語る偽り者、神を冒涜する者とののしられ批判されたのはアモスのほうでした。「正義と公正な裁き」、これこそアモスの社会批判と祭儀批判とを結ぶ鍵語です。アモスの神は、搾取と偽の祭儀宗教から民を解放すると宣言したのです。なんと、法と正義の神に導かれているはずのイスラエルで、その選びの民の国家と祭儀を形成する宗教から、神がイスラエルの民を解放すると言うのです!
ヤハウェが己の民に裁きを下すというこの驚くべき事態は、すでにエリヤとエリシャの時代に、北イスラエルにおいて行われたことです。しかし、それは国内での王朝の交代によって解決できる範囲に留まっていました。けれどもこの矛盾はやがて拡大して、迫ってくる国際的危機の下にあっては、最早王朝の交代では処理しきれないところまで来ていたのです。そこに国家的存亡の危機を見抜いたのがアモスでした。アモスの預言に国際条約の用語が反映しているのはこのためです。こうして、「ヤハウェに帰る」ことをしなかった民は、逆転された「救済史」を歩むことになりました。パンの不足、日照り、穀物枯れ、蝗、疫病、剣、地震などの7つの災害が預言されます。
民はヤハウェの日に敵が消滅することを期待しました。ヤロブアムこそメシアであると信じる者さえもいました。しかし終末は滅びの日となるのです。救済史は滅亡史となるのです。受容は拒否を伴わず、逆に拒否すべきものに取り込まれたからです。征服の神が破滅の神となり(2の9〜16)、選民は万民の神によって諸国民の間に消滅するのです。かつてイスラエルの周辺諸国が滅ぼされたように、今度はイスラエルが滅びるのです。戦争(3の11)、敗北(5の3)、移送(7の17)、イスラエルの滅亡(7の11)、そしてアッシリアによるイスラエルの捕囚、これらすべてが前734年にアッシリアのティグラトピレセル3世によって起こったのです。
「その日」、いったいアモスは、この言葉によってなにを言い表そうとしていたのでしょうか? 北イスラエルというひとつの国とそこに住む10部族の滅亡を予見したというのが、彼のメッセージのすべてでしょうか? ひとつの民、ひとつの国が、地上から抹殺される例は、ほかにも多くあります。古代の世界は言うに及ばず、南米のインカ帝国やマヤ文明の滅亡もそうでした。
しかし、アモスが見たのは、このような古代世界で行われた民族滅亡のひとつの事例が、たまたま北イスラエルに訪れたということではありませんでした。なぜなら、彼が予見したことは、神を信じてきた民が、ほかならないその神自身によって滅ぼされるという未だかつて例を見ない出来事だったからです。しかもその神が、契約の神ヤハウェその方であるというのが、アモスのメッセージの衝撃的な性格なのです。神がその民を滅ぼす理由はただ一つ、「正義と公正な裁き」を行わなかったからです。なぜそれがそのような恐ろしい罰に値するのか? それはヤハウェとの契約に背く行為だったからです。「正義と公正な裁き」、これを行う民は地上で平和に暮らすことができ、これを破る民はその地から抹殺されるというのが、ヤハウェ契約の意味だからです。
ここで私たちは、「主の日」が、光と闇の二重性を帯びていることに気がつきます。その日は、イスラエルにとって光ともなり同時に闇ともなりうること、救いと裁きとが表裏になっていること、これを「主の日」は表しています。「主の日」をそのどちらの日とするかは、ひとえにイスラエルの民の歩みにかかっています。主の契約に従って、主のみ霊に導かれて誠実に歩むか、それとも、神を侮り、自己の権勢欲に溺れて不正と不義を働くか。イスラエル王国の運命は、この選択にかかっているのです。
光と闇のこのような二重性は、それ以後もイスラエルの歴史を貫いていて、それは新約の「ヨハネによる福音書」を経て、「ヨハネ黙示録」へと至っています。実は、上にあげた引用は、イエスの十字架の日に、「全地が暗くなり、それが三時まで続いた」(マルコ15の33)とある記事の下敷きとされている預言なのです。イエスの十字架にこめられている光と闇の二重性、私たちはこれをアモスの預言にさかのぼって見ることができます。
アモスが見たもの、それは、歴史において救いが成就し、イスラエルの神が他の神々に勝利し、イスラエルの民が他の民族の頂点に立つという神の約束の日、すなわち「主の日」に、まさにその神によって選ばれた約束の民が滅びるという逆転だったのです。この恐怖は、その後イザヤが予見しエレミヤが預言しかつ実際に体験します。さらにそれは、イエスの宣教の40年後に、ユダヤの国に訪れる滅亡の恐怖体験へとつながります。同様のことは、それ以後もユダヤ・キリスト教の歴史で繰り返されることになります。
私は今、2000年の大晦日の日に、これを書いています。この日のテレビで、「映像の20世紀」と題して、日米共同の番組が再放送されました。そこで見たもの、それは欧米を中心にして、世界中を巻き込んだふたつの世界戦争でした。第2次世界戦争だけで、7500万(おそらくそれ以上でしょう)の人間を死に追いやって、原爆の投下で幕を閉じました。「人類絶滅の日」の訪れが、現実する可能性が初めて出てきたのです。先の大戦では、神は「ユダヤ人」を見捨て、キリスト教国を見捨て、カトリック、プロテスタント、ギリシア・ロシア正教にかかわりなく、あらゆるキリスト教徒が、互いに抹殺し合うように仕向けました。原因はひとつ、彼らが「正義と公正な裁き」を実行しなかったからです。これが、アモスが現代に伝えるメッセージです。「主の日」が「終わりの日」となり「裁きの日」となり、神の民と人類の「歴史の終末」となることがありうるのです。救いを待ち望む神の民に向かって主はこう言われました。