原爆投下と日米の価値観
右京区の有志による『常磐野9条の会』に寄せて(2008年9月号)
かつてアメリカで、太平洋戦争の勝利を記念するために、原爆の図柄の切手が発売されたことがあります。これに対して日本から大きな反発が起こりました。すると日本側からの反発が、今度はアメリカの内部にも論争を起こして、日本側からの反発に対応して、アメリカは切手の図柄を変更しました。アメリカが図柄を変更したのは、原爆投下の誤りを認めたからではありません。原爆投下は「正しかった」が、日本人の「被害者意識」に配慮したからだと『ニューズ・ウィーク』は伝えました。この事件は、原爆に対する日米の根本的な価値観の対立を浮き彫りにしています。日本人は、原爆体験を「アメリカから」受けた被害だと見るよりも、むしろ原爆の悲惨は、どこの国でも起こりうる人類普遍の体験として、これを「人間の犯した誤り」だと受けとめたのです。これに対してアメリカが原爆投下を正当化するのは、それが戦争の終結をもたらした「正しい」選択であったと考えるからです。しかし、アメリカの記念切手の真の狙いは、過去だけでなく、アメリカの強大な核兵器が、<これからも>世界の平和維持に欠かすことができないという戦略的な意図と価値観に基づいています。
アメリカの記念切手に対して、広島の市長は「私たちは過去のことで言い争うつもりはない。むしろ人類の未来という視点から、今度の切手は残念である」と発言しました。アメリカは「過去の」原爆を正当化しようとし、広島市長は「未来に向けて」核廃絶を訴えるのです。武力による「アメリカの平和」構想か、核兵器の廃絶による世界平和か、ここには、根本的な「価値観の相違」が横たわっています。いったいどちらが本当に「正しい」のでしょうか? 核をめぐる日米の価値観の相違は、人類の未来にかかわる重大な問題なのです。
アメリカが唱える核兵器による「平和秩序」が支配的になれば、日本の核廃絶思想は幻の「神話」となって「歴史」の裏に埋没します。しかしもしも、核廃絶による世界平和という日本人の反核思想が、たとえば国連による核兵器の管理から、さらに核の廃絶という方向で実現するならば、日本の反核思想は、人類の平和へ向かう出発点としてその「歴史的」意義を獲得します。現在の世界的な動向は、徐々に核兵器廃絶に向かいつつあります。これは日本人の価値観が「未来」を味方にしていることを意味しています。未来を味方にする者は「歴史」を味方にする者です。9条を含む平和憲法の精神が、幻の「神話」になるのか?それとも人類の平和を築く「歴史」の出発点になるのか?これが今問われているのです。
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