時は主のもの
コヘレトの言葉3章
(1)
  今日は「コヘレトの言葉」の3章から読みたいと思います。この書は、文語訳聖書では「空の空、空の空なるかな」という有名な句で始まっています。実は先日お亡くなりになった井上正名さんと、お亡くなりになる1月ほど前に、ヘブライ語の原語でここを日本語と一緒に読んだのですが、その時彼は「今日は原語でこの言葉を読めた」と喜んでおられました。それからしばらくして、あっという間にお亡くなりになりました。彼とは20年以上も前に、京都大学の裏の駸々堂で、ギリシア語で「ヨハネによる福音書」を読み始めて以来のおつきあいで、最後に「コヘレトの言葉」を読んで逝かれました。
  題名にある「コヘレト」という言葉の意味はよくわからないのです。文語訳では「伝道の書」となっていました。英語では "Ecclesiastes"「教会で語る人」となっています。多分そういう意味だろうと思うんですけれども、この意味と実際の内容とが合わないんですね。おそらくこの人は、町の人達を集めて聖書の講義をする「知恵の教師」であったのだろうと言われています。「知恵」と言いますと、旧約聖書には「知恵文学」という独特の分野があります。「コヘレトの言葉」、「箴言」、それから「ヨブ記」や「ダニエル書」もそうです。旧約続編には「知恵の書」というのもあります。
  知恵文学というのはいつ頃のものかと言いますと、イスラエルのユダ族が捕囚から帰った後に書かれたものです。「コヘレトの言葉」が書かれたのは、たぶん紀元前250年から紀元前200年の間くらいです。知恵文学は新約聖書に非常に大きな影響を与えていて、イエス様は諺やたとえを上手に語っておられますが、これは知恵文学の伝統からでていると言えます。
  こういうわけで、知恵文学は旧約聖書では、比較的新しい時代に属することになります。それ以前の時代では、「創世記」や「サムエル記」や「申命記」などがあって、これらはまとめて「律法の書」と呼ばれていました。これら律法の書はなんと言っても旧約聖書の中心でした。ですからイエス様の時代まで、律法(トーラー)はユダヤ教の真髄だったのです。では旧約の律法というのはそんなにすごいのかと言いますと、もちろんすごくないことはないんですが、法としてそんなにすぐれているのかと言いますと、ここにご専門の先生がおられますが、必ずしもそんなにすぐれているわけではない。むしろ古代エジプトだとかバビロニアだとか中国ですね、これら古代国家の法体系のほうにいろいろすぐれたものがあって、旧約聖書もその影響を受けています。ですから、旧約聖書が法的に特にすぐれていたとは言えません。
  では、旧約聖書の律法の何が一番大事なのかと言いますと、実はモーセに率いられた出エジプトなんです。モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出します。そしてシナイ山でヤハウェから律法を与えられます。このイスラエルの歴史ですね。ヤハウェの神が自分たちと共にいてくださるんだ。この神が常に自分たちと一緒にいて、導いてくださるんだという信仰です。この信仰によって父祖アブラハム以来のイスラエルの歴史が成り立っているのです。こういう確信と信仰、これがトーラーと結びついて、イスラエルの精神を形成していたのです。
  ところが、イスラエルが南北に分裂して、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされ、南ユダ王国がバビロニアに滅ぼされると、イスラエルという国が消滅してしまいます。それからバビロンの捕囚が50年間ほど続きます。これはイスラエルの人々にとって辛い苦しい試練でした。ただ体験として苦しいという以上に、精神的信仰的に大きな危機であり試練だったのです。どういう意味かと言いますと、それまではヤハウェが自分たちを導く神だと信じていたのに、それが根底から否定されるようなことが現実に起こったからです。いったいヤハウェは私たちの神なのだろうか? こういう疑問が、特に若い人たちの間に起こりました。歴史を導く神は、現実にはいないのではないか? 極端に言えば、そういう信仰的な危機が捕囚のイスラエルの民を襲ったのです。その時に第二イザヤが現れて、出エジプトを導いたヤハウェは、必ずユダの地に自分たちを連れ戻してくれるのだと語ったのですね。エゼキエルにも新しい神殿のビジョンが示されました。これらの預言者たちに励まされて、イスラエルは、ペルシアのキュロス王のおかげもあって再びユダの地に戻ることができたのです。
  でも、戻ったから危機が去ったということではありませんでした。ダビデ王朝時代のイスラエルの確固とした歴史、主は自分たちを導いてくださるんだというストーリーですね、これがイスラエル民族の「物語」だったのです。これが木っ端みじんに砕かれたという体験は、それ以後もずっと尾を引きます。ヨブの苦しみもこれにつながると言えます。どうして正しい人間が理由もないのに迫害されるんだろうという疑問です。こういう疑問の一環として「コヘレトの言葉」もでてきたわけです。この状況は現代と非常に似ていますね。現代も、人類を導く歴史などというものが本当にあるのかという疑問が、特に若い人たちの間で強いです。
  世界的な規模だけでなく、個人個人でも自分の物語を作ることができないというのが、現代の危機です。自分の周りで起こる出来事がつながらないんです。ばらばらなんです。さまざまな出来事が自分の周りに起こってくるんだけれども、それらは全く無秩序で混沌としていて、それらを結びつけることができないんです。歴史を求める以上に、そもそも歴史なんて存在するのかというのが現代の疑問です。まさにバビロンの捕囚の時にイスラエルの民が味わった危機的な状況に似ています。こういうことを頭に置いて「コヘレトの言葉」の3章を読んでいただくとよくわかります。
(2)
  では、聖句を読みます(3章2節〜8節)。


  ここで「時」というのは「事柄」と同じです。日本語でも「こと」には、言葉の「言」と出来事の「事」とがありますね。神様の「言」によって「事」が起こる。こういう意味です。事が起こるのは、必ずある「とき」です。今は何々の「時」という「とき」です。これは「時間」のことではありませんよ。一日24時間のことではありません。「あの時は楽しかった」と言うときの「とき」です。これはあの出来事が楽しかったと言うのと同じです。その前に「日の下に時期があり、すべての事に時がある」〔岩波訳〕とありますが、今ここでそれが起こるのがよいと神様が判断されたときにそれが起こるという意味なんですね。ここから有名な「時の詩」が始まるのです。
  ちょっと語句の註をしておきますと、「植えたものを抜く時」は収穫の時、刈り入れの時という意味です。「破壊する時、建てる時」とあるのは、破壊と建設の時が繰り返しあるというシバ神みたいな感じがしますが、そんなに深い意味ではなく、もっと具体的に、今ある家を建てようとすれば、まず最初に崩してから建てるでしょう。そういう意味で、岩波訳では「崩すとき建てるとき」となっています。このほうがわかりやすいです。「嘆く時」は、死者を悼むときです。みんなで集まって死者を悲しむときもあれば、今度はみんなで輪になって踊るときもある。イスラエルの人は嬉しいときには必ず輪になって踊りますね。「石を放つ時、石を集める時」、これはわかりません。いろいろな説があります。一説には、物を売り買いするときに秤の分銅に石を使いましたから、石を載せて物を計る。売れると逆に石を放り出す。そういう取引の時に使う計量の石ではないかと言われています。多分そうでしょう。「抱擁の時、抱擁を遠ざける時」は男女の交わりの時です。「求める時、失う時」、これは持ち物、財産のことです。利益を求めるとき、利益を失うとき、こういうときですね。「保つ時、放つ時」は、所有物のことだろうと思います。岩波訳では「守るとき捨てるとき」とあって、このほうがいいようですね。ある物を大事に取っておきます。しかしその取っておいた物も捨てるときがあるといことです。「裂く時、縫う時」、神様の前に悪いことをしたとき、あるいは何か悲しいことが起こったとき、イスラエルの人は衣を裂きますね。裂いて、嘆き悲しむのです。ところがその悲しみの時が終わってしまうと再びそれを縫い直します。「愛する時、憎む時」、これは個人的なこともあるでしょうが、部族同士、民族同士、国家同士のときもあります。個人の間でも国と国との間でも、仲良くするとき、互いに憎み合うときがあります。
(3)
  では次に少しとんで11節にいきます。ここは大事な所ですね。「コヘレトの言葉」の中で、最も大事なところの一つではないかと言われています。
   「時宜にかなって」はまさにその時にということ、絶妙のタイミングと言いますか、神様にしかできないタイミングがあるのですね。「永遠を思う心を人に与えられる」は、神様が生起させるすべての出来事の中に永遠性が宿っているという意味にもなります。この新共同訳では「永遠を思う心を人に与えている」となっていて、意味がすこし違います。英語ではここが "in them" なんだけれども、この "them" がさて人間なのか出来事なのか? これがわからないんです。解釈は両方可能です。「神は出来事をそれぞれの時にかなって生起させる」と私は訳しましたが、この「生起させる」は「できる」ということです。「できる」という日本語はいいですね。あるものが生まれてくる、あるいは「私にそれができる」「できない」と言います。その時が与えられるか与えられないかによって、物事ができるかできないかが決まるのです。その上、神様は出来事のうちに永遠性を賦与されています。けれども、まさにそのゆえに、人間は出来事の永遠性を悟ることができない。神様が生起させている出来事の「初めから終わりまで」をです。この「終わり」は終局の終わり、終末です。終末を人間が見極めることはできない。物事の終わりも自分自身の最後も、これはわからないのです。
  この11節ですが、「コヘレトの言葉」の作者は、伝統的なイスラエルの歴史、ヤハウェがイスラエルの歴史を確固として導いてくださっているという歴史観、はたしてそんなしっかりしたものがあるのか? 今も昔も変わらないではないか? こういう懐疑的な思想を表しているという解釈もあります。逆にこれに対して、いやそうではなく、人間には過去と現在と未来をちゃんとつないでいって、自分の過去の体験を経験にする能力が具わっていると解釈する人もいます。
  現代でも、歴史がバラバラでまとまりがないという不安と同時に、歴史に対して非常に性急な狂信的な意義付けを与えようとする人たちがでています。とても信じられないような事が言われたり唱えられたりしています。「コヘレトの言葉」の時代のイスラエルでもそうでしたが、過去の宗教にしがみついて、頑固として伝統的な歴史観にしがみつこうとする人たちが、キリスト教の中にもいます。一方では歴史を全く喪失した人がいるかと思えば、一方では古い伝統的歴史観を強引に押し通そうとしている人たちがいるのが、今の世界の現状です。「コヘレトの言葉」の解釈もそういう対立する現代の精神状態にさらされています。
  この文書の著者は、人生や人類の歴史に対して懐疑的な見方をしていると言う人もおれば、逆に、人間には、過去・現在・未来を見通す能力が具わっているのだと解釈する人もいます。でも、どちらの解釈もぴったりと合わない。難点があるんです。著者はどう見てもただの懐疑主義者ではありません。「神は人間が神を恐れ敬うように」とありますから、とてもそうは読みとれません。では人間のうちに確かな可能性を見出しているかと言えば、「人が労苦してなんになろう」などとあります。自分の思っていたことと現実とは全く違うことになるではないか、ということですから、これは、人間それ自体に確かな可能性を見出していることでもないんですね。
  そこでもう一度「生まれる時死ぬ時」という所を読んでみますと、一つ確かなことは、この「コヘレトの言葉」の作者は、過去・現在・未来という分け方をするならば、過去にしがみつくでもなく、未来に希望を託すでもなく、まさに「現在の視点から」物事を見ている、「今この時に」自分のすることに彼の生き様、生きる視点を置いている、こういうことがわかります。これが、先の見えない、混沌とした断片的な出来事の時代に生きるもっとも大事な生き方ではないでしょうか。今の時代は、そういう生き方をするのを神が良しとする時ではないでしょうか。これは一見すると享楽主義的に見えるかもしれませんが、決してそうではないのです。自分に与えられた今の時の中に神様を見出すのが大事なんです。そこに神様を見る。そしてこの今の時に働く神様を敬う。今の時は、けっして自分が勝手に創ったのではない。神様から与えられたものだということを確信することです。
  ですからこれは、人間が、自分で現在・過去・未来を結びつけようと努力することではないんです。人間が自分の判断で勝手にああだこうだとストーリーと創っても始まらない。そいういうことに意義を見出そうとしてもだめなんです。そうではなく、今この時を主に委ねて、その時々を歩むのです。生きるのですね。なぜなら、「時」とは神様が創るものだからです。生起する、できるということは、神様がみ霊によって私にその時をお創りになって与えてくださるからです。昨日は右へ行っても、今日は左へ行けと神様が言われたらそうすればいいんです。自分が右へ行けと決めたんだからどうしても右へ行かなければならないなんて考える必要がないんです。そうやって自分の頭に頼るのではなくて、神が祈りの中でみ霊によって語るとおりにやる、これが生まれる時あり死ぬ時ありの意味です。人間には、物事の起こる時期をぴったりと予測などできません。
  み霊に委ねて、み霊に従って、神様が右と言えばハイと言い、神様が左と言えばハイという、そう言う生き方をしていくなら、過去と現在を結ぼうなんて、人間の浅はかな知恵でやらなくても、神がちゃんと結んでくださいます。自分の過去と現在は、自分が創るものではない。神から与えられるものですから、逆にああそうだったのかと啓示されるんです。過去も現在も未来も神様から啓示される。人生とはそういうものです。クリスチャンの歩みというのはそういうものです。これは普通の人とは違いますね。クリスチャンというのは自由自在です。融通無碍です。かつてイスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱の動くままに旅をしたとあります。イスラエルの民は、自分でスケジュールを組んで旅をしたのではなかった。雲の柱がとまっている間は、何日でも止まっていましたね。動き出すとまた動いた。ではでたらめに旅をしていたのかと言えばそうではない。驚くほど正確に神様はイスラエルを導いて行かれた。これが、み霊にあって、主にあって、イエス様、どうぞ今日一日を歩ませてください、主と共にある時を歩ませてくださいという祈りです。
  永遠は瞬間にしか現れないとキエルケゴールという哲学者が言いましたね。人類がどうなろうと、歴史がどうなろうと、私は主のみ霊にあって生きていくんだというのが、祈りの中に生きる私たちの生き方だと思います。「フィリピの信徒への手紙」2章14節に、「今の時を活かしなさい」とありますね。これは「今の時を贖いなさい」という意味にもなります。とても深い意味です。
(4)
  多くの批評家は、「コヘレトの言葉」をユダヤ=キリスト教的な歴史観に対する懐疑的な文書であると見なしています。しかし、ここでの「時」の章が語るのは、単なる肯定でもなく否定でもありません。著者は、現在に視点を置いて、生起する出来事とそれの時に「神のみ手」を観ているのです。すべて生起する出来事が、神のみ手に握られていることを悟ることで、人間に見極めがつかなくても、信頼して歩むことができると考えるのです。
 コヘレトを伝統的なヘブライの信仰に対する懐疑であると見る人たちは、おそらく著者の内に深い霊的な洞察が秘められていることを見抜くことのできない人たちです。この著者がいかに深くみ霊の洞察を秘めているかを察知できたなら、この文書のうちに、伝統的な信仰への懐疑どころか、真性のヘブライ的な<み霊の導き>、ヤハウェの神の<時を創る>業を観ることができるでしょう。「時を創造する神」「神の創られた時を生きる人間」とは、なんらかの体系的な哲学や歴史観に基づく律法に準拠しないで、現在の時を生きる人です。こういう生き方が、「神様にある永遠を信じる」ことと矛盾なく、この著者の内に統一されているのは、彼がこのような霊的な視点に支えられているからなのです。
 戻る