21世紀は日本人の再生の時
第二コリント5章17節

(1)
 先日の8日に、フィンランド宣教団来日伝道50周年の記念集会に参列してきました。私が、フィンランドの宣教師さんたちの教会に通いだしたのは、1952年のことですから、考えてみれば、宣教師さんたちが中国やフィンランドから日本へ来て2年ほどしてからのことになります。その後、フィンランドの宣教師さんから離れて、川端先生、その次には小池辰雄先生の門下にはいることになります。そこから離れて嵯峨野福音集会となり、それがコイノニア会となって現在に至っています。
  フィンランドの宣教師さんたちと別れて48年と言えばずいぶん長いような気がしますが、あっと言う間だったような気もします。しかし、それからの私の信仰の歩みは、一貫して自分自身の独自の霊的な福音を探る道であったのを今思い返して改めて感じます。言い替えると、欧米的なキリスト教からどのようにして日本人の霊性にふさわしいみ霊の福音へと成長するかという問題意識に支えられてきたと言えます。「成長する」という言い方をしたのは、そういう霊性は、出来合いのものをつないだり、合わせたり、混ぜたりして出来上がるものではなく、「新たに創造される」ものだからです。この意味で、イエス・キリストのみ霊は「創造のみ霊」(Spiritus Creator)です。私の20世紀の後半は、そういうわけで、イエス・キリストの創造のみ霊に導かれた時期であったと思います。
  ところが、今回招かれて集会と記念パーティに出席して驚いたことがあります。それは、昔教えていただいたレア・カルナ夫人(カルナ先生は昨年召されました)や現在活躍中のラッセ・ヘイモネン先生を始め、皆さんが心から私たちを歓迎してくださったことです。私たちは、いわば宗団に背を向けて出ていった人ですから、それほど歓迎されなくても、過去においてお世話になったことをせめて一言でもお礼を述べて帰ることができればそれでいい、こういう気持ちで出席したのです。ところが、旧知の方はもとより、初めて会う日本人の牧師さんたちも、私たちのことをよく知っていて、とても喜んでくださいました。私たちはなんだか面はゆい気持ちでいたのですが、そのうちにだんだん分かってきたことがあります。それは、まだ若かったあの頃に、ずいぶん無礼な態度で先生方に反対して、結局別れることになったのですが、その頃、まだ若くて言いたくても言えなかったこと、つまり、私たちが離れていった本当の理由ですね、それが50年経った今、日本人の牧師さんたちが指導し始めたこの頃になって、ようやく宣教師さんたちに分かってきたのではないか。こういうことです。レア夫人もすでに70も半ばを越えて、50年間も日本でのフィンランド・ミッションの働きを見つめてこられた方です。
  21世紀になって、初めての集会が、フィンランドの宣教師さんたちとの出会いであったのは、この意味でまことに意義深いものがあります。なぜなら、昔お世話になったカルナ先生の夫人にお会いして、自分が受けた恵みのお礼を感謝をこめて述べることができただけでなく、過去の行きがかりがすっかり氷解したという気がしたからです。私は挨拶の中でこう語りました。私たちがフィンランド宣教団から学んだことはふたつ、ひとつは異言を伴うみ霊のバプテスマであり、もうひとつは真に民主的な集会のあり方であったということです。このふたつは私たちへの信仰の遺産として、いつまでも大事にしたいものです。
(2)
  ところで、21世紀は「日本人の再生」の世紀であると思います。ただしこれは、経済的な復興だとか、政治的な大国だとか、ましてや軍事国家の復興の意味ではありません。そうではなく、日本人が、日本の「国家」ではありませんよ、ほんとうの意味で日本人が、精神的、霊的に再生するという意味です。敗戦が1945年ですから、それ以後の20世紀の55年間は、日本人が、霊的に自信を喪失して、そこからどのようにして立ち直るかを探し求めた55年であったと思います。この探求は、いまだに続いています。
  しかし、21世紀の日本が目指すべきなのは、経済大国ではありません。ましてや軍事大国ではなく、産業技術立国でもありません。今や経済はアメリカに抜かれてしまい、さらにアジア諸国から追い上げられています。政治も三流です。けれども、21世紀の日本人が本当にその真価を発揮する分野は、そういう経済や技術やスポーツではなくて、精神的霊的な分野においてです。世界の国々に対して、日本人が新しい霊的な価値観を提示していくこと、これこそ、これからの日本人の使命だと思います。かつて日本は軍事大国でした。次には、敗戦を境にして日本は経済大国への道を歩みました。しかし、これからの日本は、精神的、文化的な面で世界に貢献する国民になっていくのです。
  ただし、現在の日本は、政治的には国家主導(地方分権などと言われますがまだまだ国家中心です)、精神的にはやや内向き、経済的には不況ムードにあって、精神的に世界をリードすると言うにはほど遠い状態です。国際化、民主化、IT革命などというかけ声と現実に行われていることとの間には、まだ大きなギャップがあります。こういう乖離(かいり)は当分続きそうです。昭和の初め(1925年)に日本の行く先がおかしくなりだしてから、敗戦へと行き着くまで20年かかりました。今は変化のスピードが速いでしょうが、それでも今世紀の始めの14/15年くらいまで、日本はこういう状態から抜け出せないでしょう。しかし、その後は、確実に新しい日本へと脱皮が行われます。それはもう始まっていますが、まだ顕在化していないだけです。
  キリスト教は徐々にですが、日本に広まります。しかしそれは、多様な形で現れるでしょう。現在は、アメリカの影響による大きなうねりの中で、キリスト教諸宗派の一致が唱えられ、そういう運動が行われています。しかし、日本人のキリスト教が、一度外国による指導から離れて、ほんとうに日本に根付くキリスト教が求められる段階になると、必ず分裂が生じます。これは避けられません。外国からのキリスト教の影響のもとでは、いくらかけごえをかけても、日本人を心から動かす霊的な福音は生まれてきません。人の心を本当に動かすためには、本質的に新しい創造が必要なのです。
(3)
  私は真の意味での日本人の霊的復興は、イエス・キリストのみ霊から生まれると信じています。神様はみ子をこの世にお遣わしになりました(ヨハネ福音書3の16)。「この世に」ですよ。「教会に」ではありません。ましてや「キリスト教国に」ではありません。「この世に」です。「教会」や「キリスト教の民」とは異なるところへです。確かこういう「この世」の解釈は、ボンヘッファーという人がナチスへの抵抗の中で到達した解釈ではなかったかと思います。「この世」ですから、これに日本人が含まれているのは間違いありません。
  国民レベルだけではなく、個人個人の場合でも同じです。自分がいい人間にならなければ救われない、こう考える人がとても多いです。初めて福音を聞く人はほとんど全員そう考えていると言ってもいいです。でも、これほど大きな間違いはないのです。いい人間なら救われる必要なんかないのです。ダメだからイエス様に救っていただく。「私が来たのは健康な人のためではない。病気の人のためです」とイエス様は言われました。だから、神様はイエス様を通じてこの私を愛してくださっている。イエス様は私を決してお見捨てにならない。こう「信じる」こと、これが本当の信仰なんです。「信じる」というのは、頭で理屈をこねて納得することではないです。神様は私を決して見捨てたりなさらない、これを信じることが信仰の意味です。神様を疑うとはこのことを疑うこと、神様を信じるとはこのことを信じることなんです。これこそ神様がイエス様の十字架の贖いを通じて私たちに示してくださるみ霊の愛です。イエス様から降るこの罪の赦しを戴くこと、これが「キリストと結ばれる」という意味です。そうすると自分の内面が変わり始めます。イエス様を通して働くこういうみ霊の愛を信じるところから、「新しい創造」が始まるのです。神様は疑うために存在しておられるのではありません。神様は信じるために存在しておられるのです。どうかこのことをしっかりと心に刻んでください。
  確かに日本人は、過去にいろいろな間違いや犯罪、罪を犯しました。けれども神様は必ず「この世を」救ってくださる。この日本人を赦して救ってくださっているのだ。こう確信するところから新しい日本人が生まれるのです。幸いなことに、私たちの信じる聖書の神様は、人を偏り見ない。民族や人種を偏り見ない。肌は何色、人種は何人、そんなことはいっさい問題にならない。イエス・キリストを通して顕れた神の愛を信じるかどうか? これだけです。日本人は必ず救われます。再生します。間違いありません。どうかこの確信を捨てないでください。言うまでもなく、皆さんひとりひとりが日本人です。だから、皆さんが自分は救われるんだと信じること、そこから始めてください。21世紀の日本はそこから始まるのです。
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