み言葉とみ霊
はじめに
置田先生から、本日の礼拝でメッセージをとりつぐようにと依頼があったときに、私でもよければお話いたしますが、いったいどのようなことをお話すればいいのでしょうかとおうかがいしますと、現在教会の交わりの形成ということを願っているのですが、そのための大事な要素として「聖書を読む」ことがあると考えています、というご返事でした。そこで、今日はその線に沿ってお話してみたいと思います。
先生が「聖書を読む」ことを大事にしたいのは、どういうおつもりなのか? 私はそれ以上お尋ねしませんでしたが、私も自分の体験を振り返ってみますと、私なりに先生の言おうとしている意味が、納得できるところがあります。私は、フィンランドの先生方の集会に通うようになってから、いろいろな国の先生方のメッセージを聞きました。だいたい英語のメッセージが多く、時々日本語のメッセージもありました。ノルウェーやスウェーデンやアメリカからの先生方、アッセンブリーからお出でになった日本人の先生の話も聞きました。レア先生のお父さんで、当時フィンランドのペンテコステ派の総理であったマンニネン先生のお話も聞きました。特にカルナ先生たちに連れられてオズボーン先生の癒しの伝道集会に出席した、と言うよりは参加したのが今でも強い印象として残っています。
み霊に満たされた説教を聞いた時など、私はとても恵まれて、足が地に着かないというような、霊的な興奮状態になりました。でもそれからしばらくすると、いろいろな仕事だとか、様々な雑念が出てきて、だんだんそういう霊的な恵みが薄らいでいくのです。するとまた、別の立派な先生が来られて、素晴らしいパワーのあるメッセージを語ってくださる。また興奮して大いに恵まれる。しばらくするとまたダウンする。アップ アンド ダウン、アップ アンド ダウンをなんべんも繰り返す。まあ、こういうことですね。若い頃はよくそんなことをやっていたと思うんです。パワーのある先生の集会でみ霊の満たしのガソリンを入れてもらって、それでしばらく走るとだんだん切れてくる。そうするとまたガソリンを入れてもらう。こんな具合でした。
聖書を読みだしてから
それが、あちこちの先生の集会ではなくて、自分で自分の中の恵みをしっかりと保ち続けたい。あるいはみ霊の満たしを自分で体験できるようになりたい。こういう気持ちになったのは、今から振り返ってみますと「自分で」聖書を読むようになってからだと思います。とにかく自分でお言葉を読む。これが、私をして、それなりに一歩一歩とみ霊の恵みに与っていくことができるようにさせたのです。
でも、聖書を読むのはけっこう難しいですね。人によっては聖書を始めから終わりまで、通読なさる方がおられるようです。それは大変立派なことだと思います。イギリスの聖公会(国教会)なんかに行きますと、日曜の礼拝毎に、新約と旧約から抜粋したのを朗読します。こうして、一年間で一通り「創世記」から「ヨハネ黙示録」までの主なところを読むようになっています。ところが私が最初の頃やった方法は、そうではありませんでした。学校へ行ったり、いろいろとやることがあるものだから、つい決まったときに聖書を読むのをおろそかにしてしまう。細切れの時間では、なかなかまとまって聖書をきちんと通読する時間がないのです。ほんとうは採らなくてはいけないんですけれどもね。もっとも後では、聖書を通読するようになりましたけれど。
その時働くお言葉
そういうときに私はどうしたかと言いますと、同じ箇所を毎日読むんです。たとえば「詩編」ですね。ああこれはいい詩編だと思ったら、今日読んだから明日は読まなくてもいいんだと思わないで、次の日も同じ詩編を読む。先に進みたいと思うときには進んでもいいけれども、今日3篇を読んだから明日は4篇を読まなければならないというルールはないわけで、また3篇を読む。極端な場合は、1ヶ月くらい、だから30回くらい、同じ詩を毎日読んだ経験があります。ところが、毎日読んでいても、なにかそこから来るんですね。与えられるんです。これはすごく大事な発見でした。
特に私は「ヨハネによる福音書」を「読んだ」と言うよりは今でも「読んでいる」と言ったほうがいいと思いますけれども、このヨハネ伝を読んでいると非常に恵まれるんです。同じ所を何度も何度も読み返していくうちに、お祈りと同じで、毎朝お祈りする度に霊的に恵まれますね、あれと同じで、お言葉が毎日新しくひびいてくるのです。深いみ霊の働きとなって迫ってくる。聖書一冊あれば、自分はこれによって生きていくことができるんだ。こういうところまで読み込むんですね。そこで「ヨハネによる福音書」の注解を書きだしたのです。ところがいろんな注解書を調べて注解を書いても、深いみ霊の迫りはなかなか表現できません。逆に自分で注解を判断するようになる。ああ、この注解者は霊的に深く見ている。この注解者は霊的な読みが足りない。そんなことが見えてくるんです。お言葉とみ霊と自分自身、この三位一体がある程度出来上がれば、自分なりに自立した信仰を保つことができるようになります。もっともこれにはかなり時間がかかりました。
ビリー・グレハムという人が京都へ来たときに、彼はメッセージの最後にヨハネ福音書を3回読みなさいと言いました。こうして聖書を読むたびごとに新しい発見深い語りかけを感じることができるようになってきました。このことは聖書が聖霊の働きを通じて私たちに語りかける時には、その「時」によって違うということです。昨日お言葉を通じて与えられた時と今日与えられた時と「時」が違えばみ霊の働きも違う。こういうことです。つまりみ霊はその時その時で働くんです。ここで言う「時」というは、ですから時間のことではないんですね。時間のことをギリシア語で「クロノス」いいますが、ここで言う「時」は聖書で独特の意味があって、ギリシア語で「カイロス」といいます。「その時その場」という意味の「とき」です。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と主様がおっしゃったのもこの「時」です。このように聖霊のお言葉は時を通じて働くのです。これが第1に大事なことです。
その人に働くお言葉
次に第二点です。実は妻の久子の体験なんですけれども、久子が昔ペルタリ先生から聖霊の賜について聞いていた時に、ペルタリ先生が久子に「愛を追い求めなさい」という聖書のお言葉を彼女に与えてくれました。これは第一コリントの手紙14章の1節〜15節までですね。それから二人で駅のほうへ行きますと、そこで待ち合わせをしていたレア先生と会いました。するとレア先生は久子に実は私は電車の中であるお言葉を与えられていたが、それが自分に与えられているのではなく、だれか別の人に与えられているという気がしていた。そして今あなたに出会ったときに、これはあなたに与えられていたお言葉だということが分かったといって、聖書の言葉を与えてくれたのです。なんとそれが「第1コリントの手紙」14章1節から15節までだったのです。ですから今でも久子はこの「愛を追い求めなさい」というお言葉が特に自分に与えられたと深く信じています。
このことは、聖書の言葉がみ霊の働きを通じて語るときには、その人個人、その人だけに語ることを示しています。その人だけ、その人個人というのは英語でパーソナルといいます。このパーソナルという言葉には、「人格的」という意味もあります。つまり聖霊の働きはお言葉を通じてその人だけに語るのですが、同時にそれは「全人格的」に語りかけるということなんです。聖霊ご自身、ここで私は「ご自身」といいましたが、み霊は「人格」です。
あなたの体のあるところ
ですから聖書の神は人格の神です。これをペルソナの神といいます。三位一体のペルソナの神様です。聖霊は人格であって、その人格であるお方が、あなたに全人格的にお語りになる。これがみ霊の事態です。こうして聖霊は「時」を通じて働く、それから聖霊はあなた「個人」に働く、これが今お話ししたことです。時を通じて働く、個人を通じて働くです。実はこれは一つにつながっているのです。時とは「その時とその場」のことです。私は今この場所で話をしています。皆さんはそれぞれの場所に座っておられます。これが「今の時」の姿です。ではその「とき」はどこにありますか? それはあなたの「体」が存在しているその場です。あなたの体のあるところ、そこが今のあなたの時なんです。あなたの体のあるところ、そこが、神様から与えられた「あなたのとき」であり、「今」であり、み霊の働く場なんです。あなたの体を離れてどこにも「今」はありません。これを失えばみ霊の働く場も時もないのです。
もし私が今、このメッセージを語り終えたら次に何をしようか? などと考えているとすれば、私はせっかく与えられた大事な自分の時を逃してしまいますね。同じように、もしも皆さんがが、この集会が終わったらさて何をしようか? などと考えていたら、皆さんは神様から与えられている大事なみ霊の働きの場・時を逃してしまうのです。自分の体がそこにありながら、何か他のことを考えている人は、まったく「別のところ」にいる人です。こういう人は大事な自分の時を逃してしまうのです。彼には過去はあっても今はない。未来に対する「思いわずらい」はあっても「今の時」がないのです。彼は自分の人生を活かすことができない。なぜなら人生は「今の時」で成り立っているからです。「あなたたちは思いわずらうな」とイエス様がおっしゃったのはこの意味です。どうぞ皆さん、あなたの「からだ」が存在している「今の時」を大事にしてください。
雲の柱
今度は、私が聖書を信じるようになった最初の頃の体験をお話します。私はある聖会に出ていました。そこに年輩の洗濯屋さんのご主人がいました。午後の集会の時に、その店の若い店員さんらしい人が来ました。そのご主人が「来れないと思ったのに、よく来れたね」と言いますと、その店員さんが、「ええ、急に雲の柱が動いたものですから」と何気なく言ったのです。ここにおられる方には、この「雲の柱」の説明は要らないと思うのですが、これは「出エジプト記」13章にでてくる話で、主なる神が「昼は雲の柱、夜は火の柱となって」モーセに率いられたイスラエルの民を導いた、とあるところから来ています。
神様の雲の柱が、突然集会に出なさいと導いた。だから集会に来ることができた。こういう意味で店員さんは言ったのですね。でも、この店員さんは、「急に雲の柱が動いたから」と、まるでマーケットで買い物をしたとか、喫茶店でコーヒーを飲んだというような、ごく自然な調子でそう言ったのです。私はその時、クリスチャンというのは、不思議な話し方をするものだと思ったのを今でも覚えています。もしそこに子どもがいて、彼の言うことを聞いたとすれば、この人は火事でも見たのだろうか? それとも外国から飛行機で雲の上を飛んできたのだろうか? こう思うかもしれません。彼の言うことを「文字通りに」受け取れば、そういう意味にとれるからです。
この店員さんは、聖書をそのまま信じています。信じているだけでなく、聖書のお言葉の中で、実際に「生活している」のです。ひょっとするとこの店員さんには、雲の柱がほんとうに「見えた」かもしれません。彼は毎日自分に起こることを聖書のお言葉で解釈しているのです。この意味で、この人は、聖書をそのまま、すなわち「言葉どおりに」信じています。ところがです。これを傍で聞いている人が(子どもの場合のように)、これを「言葉どおりに」とると妙なことになるのです。なんだ、聖書なんて嘘でないか。科学的に見ればナンセンスだ。こういうことになるんです。彼のほうも聖書を「お言葉どおりに」信じています。しかし、彼はそのお言葉を「霊的に解釈している」のです。これが、聖書のお言葉、「言葉どおりの」聖書のお言葉を「霊的に」知っている人と知らない人との間に起こる食い違いです。
霊的に解釈している人は、み霊の世界で語っているのです。み霊は必ず「その時その人に」語りますから、み霊の世界を知らない人には全く理解できません。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(Tコリント 2:14)とパウロが言っているのはこの意味なんです。
聖書のお言葉で生活する
「出エジプト記」のお言葉は、はるか昔に起こったイスラエルの民の体験を語っています。しかしそれは新聞記事と同じ意味で、「文字通りの」言葉で語るのではありません。もしも新聞のように、起こった出来事をそのまま書いてあれば、その出来事は二度とは起こりません。全く同じことが、二度起こることはないからです。だから、新聞は読み捨てです。昨日の新聞は、今日の旧聞です。同じ新聞は二度出ませんから、それは過去のものになります。しかし、「出エジプト記」の体験は、霊的な言葉です。すなわち「聖霊によって解釈され」て「聖霊のお言葉」で語られています。ですから、その言葉は、決して古くなりません。3000年後の日本でも通用するのです。
この店員さんは、はるか昔のパレスチナでの出来事を現在の自分と結びつけて聖書を読んでいます。それだけではありません。彼は、これからもきっと、「雲の柱」が動いて彼を導いてくれることを知っています。つまり、彼は、自分の過去と現在と未来とを、聖書のお言葉でひとつに結んで生きているのです。その彼の背後には、数千年の人類の歴史があります。これがクリスチャンの聖書の読み方です。聖書はみ霊の言葉です。これを読む人は、み霊にあって生きることを学びます。み霊はイエス様のみ霊です。このみ霊とこのお言葉、どうか皆さん、これがひとつになって、自分のものとなるように、祈り求めていってください。