聖霊運動100年聖会に出席して
21世紀の「教会」の在り方について

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 9月11日にペンテコステ・聖霊運動100年祭の聖会に、久子とふたりで出席しました。実は直幸の家族も出ていたのですが、私たちとは別の席にいました。1時半からの開演なので、1時頃に大阪のロイヤル・ホテルの隣にある府立の国際会場に行きますと、すでに3000人ほどの人がびっしりと会場の外のスクウェアを埋め尽くして入場を待っていました。私たちはその終わりに近い列に並んで、5階のメインホールの3段目へ6階の入り口から入りました。3段目の座席も埋め尽くされました。これは無料ではありません。1回の集会につき1000円の入場券が要ります。
 賛美が歌われ、祈りが行われ、お琴を交えた聖歌隊の合唱があってから、韓国の有名なチョー・ヨンギ牧師が、メッセージを語りました。実はこのチョー・ヨンギ牧師について、私にはいささか関わることがあります。私は『聖霊に導かれて聖書を読む』を書く前に、これのもととなった「聖書を読む人のために」というシリーズを『光露』に連載しました。その連載の始めの頃に、チョー牧師がオーストラリアでなさったメッセージ(英語)の訳を高知ペンテコステ教会の大川修平牧師が私に送ってくれたのです。
 そのメッセージの中で、チョー牧師は、日本人は現在でも神道を信じていて、正月には8000万の人が神社参拝の出かけると語ってから、彼はこれから日本人1000万人をキリストに導くと宣言したのです。これは彼にとっても厳しい挑戦でした。もちろんそれ以外にもいろいろな日本での体験が語られていました。私は、『光露』の連載での「ファンダメンタリズム」の回で、彼のメッセージを引用し、チョー牧師は1000万の日本人を神道からキリストへ導くと語っているが、導かれた日本人は、いったいどんなクリスチャンになるのか? という疑問を提起しました。1989年のことです。
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 こういう経緯がありましたので、今回も私はチョー牧師の話をやや身構えて聞き出したのです。やはり思ったとおり、と言うべきか、彼は日本の天皇制という偶像礼拝から話を始めました。その時に彼は、あるアメリカの著名な人が、その著書で、チョー牧師が1000万の日本人をキリストへ導く運動は、この10年間で完全に失敗した、こう書いていると話したのです。しかし、神の聖霊のみ業は決して失敗しない。それはこれからも続くと彼は語りました。彼がこの10年と言うのは、私が『光露』でそのことに触れてからの10年になるわけです。しかし、その事にはそれ以上触れないで、牧師は、今までの様々な体験を通じて聖霊体験こそ真の福音の啓示であることを強く訴えました。彼のメッセージはわかりやすく、内容も深く、聖霊の働きが聞いている人にはっきりと感じられるものでした。
 天皇制の問題について、私がどう思っているかは、すでに皆さんはよくご存じなので、自分の考えをここで改めて語る必要はないと思います。しかし、チョー牧師の説教を聞いているうちに、彼が、自分自身ではなく、聖霊の導きに従って語っていることが徐々に私にも伝わってくると、なにか心に訴えてくるものがあったんですね。
 私とこの牧師とは、日本の文化や神道に対する姿勢が違っています。それなのに、み霊に導かれるままに、虚心にじっと聞いていますとね、聖霊が私に語ってくださって、今私が、日本の文化や神道や仏教について書いたり語ったりしていることが、決して間違ってはいない。あなたはその道をしっかりとどこまでも歩みなさい。それを変えてはいけない。こういう主からの示しを受けたのです。不思議なことですが、チョー牧師の説教を通して働く聖霊のメッセージが、それを聞いている私に、み霊はそういう風に語るのです。これは不思議だ。そう思いましたね。同時にこの人は、すばらしいみ霊の人だということも分かるのですね。
 彼は私と同じ視点からは、日本人と日本人の宗教観を見ていないはずです。ただ彼は聖霊に導かれて語っているのです。そのみ霊が働いて、私の心に訴えて、私が今自分に与えられている信仰は間違っていないと告げてくださる。これはなんと不思議な体験でしょう。でもその時、私はハッとしたのです。聖霊に導かれて語るとはこういうことなんだ。自分勝手な思いこみを捨てて、ただひたすらみ霊に従って語るなら、み霊ご自身がそれぞれの聞く人に、語る本人さえ気がつかない全く違った示しをひとりひとりに示してくださるのだ。ちょっと考えると正反対のことをみ霊は語っているように思うけれども、じっと聞いているうちにみ霊はその人にはその人なりに、不思議なつながりの中で、正反対とも思えることさえもお語りになるんだ。み霊というものは、語る人も聞く人も思いもよらない方法で語るんだ。人間的なこざかしい猿知恵を働かせて語っていてはこうはならないんですね。聖霊に満たされてその導きに従って語ることが、聞いているひとりひとりに一番大事なことを啓示していって、その人の深いところに届くということが、このようにして起こるのです。聖霊は、語られる言葉を「通訳して」、あなたに通じる言葉で語るのです。ですから、聞いている人が何を悟ったのかは、語る本人の知らないことかもしれません。それでいいんです。こういうことを感じたのです。
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 この聖会でもう一つ教えられたことがあります。それは「教会」ということです。これはチョー牧師だけでなく、その聖会全体が、いかに牧師と一体となって教会の成長に努めなければならないかを人々に訴えるものでした。夜の集会では、大川従道牧師が語りましたが、彼は実に軽妙で上手な語り口で、人々を話に引き入れていきます。ユーモアを交えて語りながら、しかも、いつの間にかみ霊の世界に聞く人を引き入れていくのです。そこでも教会をいかにして成長させるのかが、大切なポイントとなっていました。
 実はこの夜の集会では、ベニー・ヒン師が語る予定だったのです。ですから、チケットも全部そのつもりで発行されていて、私たちも含めて、来た人は皆そのつもりで来ていたのです。ところが、15号と16号とのダブル台風で、彼の一行を乗せた専用の小型ジェット機が来ることができなくなったのです。先生たちは来たかったようですが、パイロットがどうしてもうんと言わなかったようです。そこで、大会委員長の村上牧師が、突然大川牧師に電話して、ぜひヨハネ福音書14章の11節〜18節からメッセージを語ってほしいと依頼したということです。そういうわけで、大川牧師は突然の代役だったわけです。
 そういう困難の中で、彼も、教会をいかに聖霊に満たされたものにしていくかについて語りました。大川牧師は、大事なこととして、指導者が信者を裁かないこと。信者も指導者を裁かないこと。そして信者同士も裁き合わないこと。これが、その教会が聖霊に満たされて成長する秘訣であると語りました。互いに赦し合い執り成し合って祈ることが大事だと語りました。この大川先生のメッセージは深く人々を感動させて、その後での祈りはすごいことになりました。彼はその後で、病気の人たちのためにも祈りましたが、私たちは遅くなったので帰りました。
 けれども大川牧師の話を聞いているうちに、「教会」ということが、私に今までとは違ったイメージで見えてきたのです。もちろん牧師さんたちが「教会」と言うときには、会堂があり牧師がいる一般の教会を指しています。牧師のために祈る。献金をする。なんと大川牧師の教会では、3億円もの献金をした人がいるそうです。しかし私には、チョー牧師が言った言葉、「教会は聖霊の衣である」、教会がなければ聖霊は見えない存在になる、という言葉でした。この言葉が不思議な響きを持って私に語りかけてきたのですね。
 この間、高砂の集会に出たときに、一緒に食事をした姫路から来た牧師さんに、私は、私たちの教会は無教会的で、ビルの部屋を借りて、人数もわずかで、牧師もいない。ただ、洗礼と聖餐はまもっていますという話をしたんですね。すると、その牧師さんが、「それは立派な教会ですね」と言ったのです。ああ、そうなんだ。教会堂はなくても教会はあるんだ。このことが改めてその時認識されました。考えてみれば、大阪府が建てた国際会議場でね、そこでこの聖霊聖会が開かれていて、すばらしいみ霊の働きが起こっているわけですから、教会堂とみ霊の働きとは関係がないわけです。教会堂と教会とは別であることをまさにこの集会が証明しているのです。
 私たちのこの交わりは「教会」なんだ。今まで無教会だと思ってやって来たのだけれども、これは教会であり、しかもこの教会では、ひとりひとりが、それぞれに主様との交わりを求めて祈る。こうしてひとりひとりが、自分に与えられた聖霊の導きによって成長していく。これは私が皆さんに何度も何度も語ったコイノニアの精神です。でもこれは主様がご臨在しておられる立派な「教会」なんだ。教会であれば、互いに祈り合い、互いに執り成し合って、その中にみ霊の働きが顕れ、成長することが起こるはずです。このことを今日は皆さんに訴えたいのです。み霊に満たされるなら、教会は成長する。それはひとりひとりの霊性が成長することですが、そういう成長から、人数も増えていく。増えていくというのは、ただ数が増えるだけではない。私はひとつの交わりの人数はそんなに多くないほうがいいと思っています。10名、多くても20名くらいがいいかもしれません。
 しかし、こういうミニ教会がどんどんと増えていくことを私は祈っています。とにかく大事なのは、教会のメンバーたちが、その他大勢のひとりとしてではなく、教会を形成する大事な個人となることです。さらに、主にあって恵まれ救われていくうちに、自分たちと異なる宗派や宗教に対して寛容になることを身につけることです。宗派や宗団「から」自由であるということは、宗派や宗団に「参加する」のも自由であることです。「から」の自由と「それに参加する」自由、この両方があって、初めて信仰の自由が活きてくるのですね。たとえどのような組織でも、それが会社であれヴォランティアであれ、教会であれ市民運動であれ、どんな場合でも個人の信仰者としての自覚を保ち続けること、これが私たちコイノニア会の精神です。洗礼と聖餐を守る私たちのこういう形態の「教会」、これはいわば新しいタイプの教会ですよ。聖霊に導かれた知性、すなわち霊知。霊的な愛から生まれる寛容。そして皆さんそれぞれが霊的に成長すること。この三つです。この三つに基づく教会。こういう理想の教会を私は祈り求めます。たとえ小さいミニ教会でも、いや小さいからこそこれが可能になるのです。こういうミニ教会が無数にこの国に生まれる時に、ほんとうの意味の福音が、この国に根づくときです。その時に初めて、この国の民が、イエス様の聖霊に燃えて来るという事態が起こってくる。こう思います。
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  ベニー・ヒンが来れなくなったと言うので、大川牧師が言い訳をしていましたが、実は私にはこれがすばらしいことだと思えたんです。なぜなら、もはや外国から来た指導者に頼らなくても、日本人の指導者が、立派に成長しているし、また3000人もの聖霊体験者たちが集まって祈ったら、もうあなたがたは十分にやっていける。神様はみ霊を通じて日本のクリスチャンにそう語っておられたのです。夜の集会は、そのことのしるしだ、こう私は判断したのです。今度の出来事は、まさにそのことの証しなんです。べニー・ヒンが来れなくてよかった。こういうことが、はっきりとあの場の人たちに示されたと私は思いました。
 ああいう聖霊の集会が、これからもどんどんと発展していくと思います。何千、何万規模の集会はすでに始まっています。でも、こういう聖霊派の活動と今私が皆さんに語っているミニ教会。このふたつの間には、かなりの違いがありますよ。み霊は同じでも、その有り様はかなり違います。数は5人でも10人でも15人でもいい。20人もいれば十分です。霊的個性と霊的知性と霊的な寛容を具えたミニ教会。聖霊の働くこういう教会が数多く生まれてくることを私は今祈り求めます。それは、大規模の集会がイベントとして広がるほどに、これと相互補完的な意味で、ミニが重要になるからです。日本の聖霊運動はこれから自力で発展するでしょう。ところがもうその次の段階の教会が始まっている。私はこう思っています。この交わりは、「ネクスト」の教会です。21世紀において、次に来る段階の教会です。聖霊は、こういう交わりを広げる次の段階をもうスタートさせておられるのです。今私はそういうヴィジョンを抱いて皆さんに語っています。どうぞこれからの集会、コイノニアの教会のこれを覚えて祈ってください。 
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