年頭に想う
『キリスト新聞』2002年1月1日号掲載
これはイスラエルの捕囚期の終わりに近く、ペルシア王キュロスが忽然と台頭した時、捕らわれていた諸国民の解放を期待して第二イザヤが謳(うた)った言葉である。彼は、選民の救いが異教の王によってもたらされる事態に驚くと同時に、神を知る者も知らぬ者をも含めて、全世界が主のみ手に握られているのを悟った。この第二イザヤの言葉は、選民中心の伝統的なイスラエルの神観が、人類全体の「幸いと災い」を造り出す世界の主へと変貌したことを意味している。人類に遍く「救い」が生まれ、その「救い」が「世界の正義」〔「恵み」とあるのを「正義」と読む〕を芽生えさせるためには、イスラエルの神観それ自体が革新を迫られて、福音への新たな「創造」が行われたことを証ししている(イザヤ・40の9)。
同時多発テロ事件は、21世紀型の戦争を予告するだけでなく、聖地エルサレムをめぐるイスラエルとアラブとの闘争と連動しながら、パレスチナ以東のアフガニスタン、パキスタン、インドネシア、フィリピンへと波紋を広げている。いわゆる「テロ組織」とはイスラム原理主義過激派への別名であり、彼らは、欧米「キリスト教圏」に呪いを放ち続けることで、十字軍時代の宗教戦争を再現させようと目論んでいるかのようである。事態は一応終息へ向かっているように見えるが、かつての聖地をめぐる戦いが、エルサレム以西を舞台として行われたとすれば、今度の事件は、その戦いが、エルサレム以東のアジアを舞台とする危険を孕んでいるのではないかと危惧する。
とすれば、アメリカ主導の「グローバリズム」は、これからここアジアにおいて、その正当性を厳しく問われることになろう。もしも私たちの国が、欧米を中心とする「グローバリズム」の一翼を担うつもりなら、欧米「キリスト教圏」が提示する価値観を、その底流を成す宗教性にまで立ち入って吟味し直すべき時が来ているのを洞察しなければならないだろう。筆者の見るところ、キリストの福音は、もはや「修正」や「改革」ではなく、これの「再創造」が迫られる段階に来ている。聖霊の働きが、罪の贖いをもたらし、贖いが甦りと新たな創造へと結びつくのであれば、今私たちに注がれている御霊は、なによりも「創造の」御霊であることを知るべきではないだろうか。
「異教」を征圧することで「神の国」を招来しようとする非寛容な宗教イデオロギーとそこから派生する「偏狭な」終末信仰、これから、イザヤ書が告知するような人類の絶対平和のヴィジョンを志向する「真の」終末信仰へと切り替わるためには、宗教的な寛容の精神が不可欠であろう。この困難な課題に真っ正面から取り組む覚悟のないキリスト教は、少なくとも多元的なアジアではその実効性を持たない。幸い我が国には、この課題に取り組むだけの神学的蓄積があり、また豊かな聖霊体験を具えた指導者たちもおられる。アジア世界の一員として、日本の教会が一致協力して果たすべき使命は重い。
私見によれば、おそらくこの事態は、ポスト・ホワイト、すなわち「脱白人」のキリスト教的な価値観が新たに創造されなければならないことを示している。20世紀のキリスト教世界に大きな足跡を残したマザー・テレサもキング牧師も、その牧師を支えたガンジーの非暴力抵抗の理念も、「キリスト教」価値観の再創造こそ、教会がこれから志向すべき可能性であると告げている。 アジアの極西で誕生し、その後西へ向かったキリスト教は、今ユーラシア大陸の極東で新たな誕生を迎えて東に向かおうとしているのかもしれない。
国内に目を転じると、いわゆる「戦後民主主義」が、日本の侵略戦争という負の遺産に耐えきれずに破綻していると批判する人たちがいて、「信仰の自由」を核とする個人の自由と人権や絶対平和の思想がすでに有効性を喪失しているかのように喧伝している。しかし、「戦後」とは「日本の」戦後のことだけでなく、同時に20世紀の「世界の」戦後でもあった。したがって問われているのは20世紀後半の「世界の戦後民主主義」でもあることに改めて気付く必要があろう。現在世界を覆っている混迷の中から「信仰の自由」や「個人の人権」や「絶対平和」思想を見るとき、それらが色あせて見えるどころか、私たちは、これらの思想を一層深めて新たな息吹を吹き込むことこそが、21世紀の人類に残された唯一の選択肢であるという確信を深くする。「国家」が「国権の発動たる戦力」を行使することで「武力による威嚇」を行うやり方では、もはや問題解決につながらない。アメリカが爆弾と共に食糧をばらまくという喜劇を演じざるを得ないのは、まさにそういうことではないのか。
十字架の贖いには、罪赦された者を否定から肯定へと立ち直らせる力がある。言い換えれば、悔い改めて罪赦されるとは「過去を変える」ことを可能にする。だからこの十字架の福音だけが、もはや過去の過誤と罪に拘泥する必要なしとして、民族主義の復興を主張する人たちに対する唯一の積極的な答えとなろう。現在の混沌は創造の孵化場であり、御霊は創造を育む親鳥である。ヨハネ福音書のはじめのふたつの章は、十字架のみ言と聖霊が、創造の7日間と対応することを示している。だからこそ私たちは、もう過去の罪に怯えたり恐れたりすることなく、御霊にあって罪赦されて歩もう。このためにもう一度贖いと創造の十字架に戻ろう。