洗礼式の言葉
04年5月30日
【聖句】
●使徒 2章38節
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、自分の罪を赦していただきなさい。そうすれば聖霊の賜物を受けます。
●ローマ 6章3−4節
あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの内へ洗礼された〔浸された〕わたしたちは、皆、その死の内へと洗礼された〔浸された〕のです。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られることでその死にあずかるのです。キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたちょうどそのように、わたしたちも新しい命にあって歩むためです。
●ガラテヤ 3章27節
キリストの内へ洗礼されたあなたがたは皆、キリストを着ているのです。
【講話】
初めにお読みした使徒言行録( 2:38)の御言葉は、ペンテコステの日に聖霊が初めて降った時に、異言や預言が語られている中で、ペトロが立ち上がって語ったメッセージです。ここでペトロは、洗礼と罪の赦しと聖霊の賜、この三つを結びつけて語っています。洗礼を受けることは、この三つが同時に起こることです。洗礼を受けると「浄められる」のではありません。「罪が赦される」のです。これと同時に「聖霊の降臨」が起きるのです。ここでの水の洗礼は御霊の洗礼を現わしています。洗礼を受ける人たちもこれを見守る人たちも、この御言葉と御霊のご臨在を受け入れましょう。
次はパウロのローマ人への手紙6章からです。わたしたちは、洗礼される(水の中へ浸される)ことで、キリストの死の内へ浸されるとあります。しかしキリストの死に浸されるのは、キリストと共に新たな生命に歩むためです。キリストの死に浸されることとキリストと共によみがえって新しく生きることとは裏表です。これは比喩(暗喩)です。比喩的なのは、霊的な出来事を伝えるからです。ではキリストの死に浸されるというのは、どういうことでしょうか? それはキリストが、神の律法を完全に守った罪のない方でありながら、わたしたちの罪のために死んでくださったということです。
ではわたしたちの罪とはなんでしょう? 神の律法を守れないことです。「律法」というのは、わたしたちのあるべき姿、わたしたちが神様の前に正しく歩む姿を指し示すものです。でも、わたしたちにはそういう神の律法が守れない。さらに言えば、守れないのに守ろうとする。守っていないのに守っているふりをする。わたしたちの心の奥に罪がある以上、わたしたちはあるべき姿で歩むことができません。それなのに、わたしたちは、自分の力で自分の内にある悪と闘う。外から受ける悪と闘う。いろんな問題と闘う。これをやろうとする限り、逆に自分が苦しくなって殺されてしまいます。
だからイエス様に自分の罪と弱さを赦していただくのです。赦していただくとどうなるのか? わたしたちは、自分の力に頼らなくなります。自分の力に頼るのではなく、イエス様の力に頼る。これがイエス様の「御名による」洗礼の意味です。神の律法を自分で守ろうとしても、わたしたちにはできません。逆に言えば、わたしたちは、「自分の力で救われよう」とする心と生き方に「死ぬ」のです。けれども「死ぬ」ために洗礼を受けるのではない。イエス様と一緒に生きる。イエス様と共に歩むためです。同時にそのことによって、今までの自分の力に頼って自分を見せびらかして、自分を誇ろうとする行為に死ぬのです。こういうことが生じるためには、イエス・キリストの御霊にある導きが先にあって、そこから逆に、今までの自分の力に頼ることを止める決心が生まれるのです。だから、自分の力と業に死ぬこと(洗礼)、自分の状態や心と関わりなく委ねるあなたに神様は働いてくださること(罪の赦し)、あなたが何をすべきか、どうすればよいかを御霊は必ず教え導いてくださること(聖霊の賜)、この三つは、先のペトロの言葉にあったとおり三位一体なのです。これが洗礼を通してイエス・キリストの死に出合うことです。そしてイエス・キリストの復活にあずかることです。今日から心を新たにして、イエス様との霊的の交わり(コイノニア)に入りましょう。