聖霊刷新全国大会で思ったこと
コイノニア会 私市元宏 

  私が聖霊刷新協議会のことを知ったのは『リバイバル新聞』を通じてである。会の代表である手束正昭牧師は、かつて私の著書『聖霊に導かれて聖書を読む』への書評を『キリスト新聞』に寄稿してくださったことがある。そんなことがきっかけとなって、この全国大会に参加を申し込んだ。第2回全国大会では、一般信徒の出席も認められるということで、私も部外者のひとりとして、幾つかある参加者のランクのうちで、最下位の資格で参加させていただいた。
 高砂にある茶色のレンガ造りとも思われる落ち着いた雰囲気の会堂に着くと、畳の間の控え室に通された。そこで待っていると、若い牧師さんたちが幾人か入ってこられた。牧師さんと言うよりは、大学のクラブの先輩たちといった雰囲気で、闊達で元気いっぱいの話し方をされる人たちであった。

  夕食は全員そろって小さな会堂で行われ、食事のかたわら牧師さんたちの自己紹介を兼ねた話や信者さんたちの感話が、時折湧き起こる楽しい笑いに挟まれながら進行した。異言を伴う聖霊体験が与えられてずいぶん久しく経っている私は、これまでもさまざまな聖霊大会に出席する機会に恵まれてきた。そんな私であるが、とりわけペンテコステ的な聖霊集会や大会に出るときには、今でも、それなりの心構えというか、いささか誇張して言えば「覚悟」が要る。聖書のお言葉に即して力強くメッセージが語られ、これに伴う神癒が行われる。こういうみ霊のご臨在に接すると、人はある種の緊張を覚える。聖書からの直截なメッセージは、霊的に訴えるものが強いだけに、個人的にも「悔い改め」への「み霊の迫り」が働くから、それなりの緊張感は避けられない。しかし、緊張感はそれだけに留まらない。そこには常に、ある種の知的あるいは文化的な危機感とでも言うべきものが流れるのを覚えるからである。
 そんなわけで、私はこの日の大会にもいささか「覚悟して」参加した。ところが、その日の牧師さんたちの話は、いつもの聖霊集会で抱くような緊張感を感じさせないのである。真剣さが足りないとか、霊的に欠けるところがあるというのではない。第一み霊が働かないところに、こういう明るいすがすがしい笑いは湧かない。ユーモアを交えて、しばしば笑いに包まれながら話す牧師さんたちの話を聞いていると、その人たちが、聖霊の働きを深く体験しておられることが伝わってくる。それなのにある種の安らぎを覚えさせるのは、それらの牧師さんたちが、霊的な体験の背後に、知的にも文化的にも、そしてたぶん社会的にも広い許容性を具えておられるからに違いない。
 私はそれまで、聖霊刷新大会というのは、異言や癒しを体験した人たちの集まるペンテコステ的な集会とそれほど変わらないと思っていた。しかし、私がそこで見たのは、まぎれもなく「日本キリスト教団」の人たちの交わりであった。しかもそこでは、み霊の働きが自由に語られ、人々が笑いのうちに霊的な交わりと賛美を楽しんでいて、なんとものびやかな雰囲気が漂っている。一方では、今にも崩れそうな教会堂とわずかの信者をかかえた教会堂に、定年を過ぎた老牧師夫妻が住みついて、懸命にその建て直しを図っているという話もあって、教団の置かれている厳しい現実が顔をのぞかせている。私は初めて、自分が今まで体験したことのない種類の「聖霊集会」に出ていることに気がついた。そして教団のそういう厳しい現実をも交えて、まぎれもなく日本キリスト教団の牧師さんたちや信徒たちの集まりでありながら、きわめて自然にそうなっているというその姿に不思議な感動を覚えた。
 翌日の礼拝で、手束牧師は、日本キリスト教団と台湾の長老教会との交わりについて語られた。ペンテコステの聖霊集会では、メッセージの話題が、教団と特定の国の教会との関係に及ぶことはめったにない。ミッション・バラバの人の証しや琴の演奏やタンバリンを手に踊る「ミリアムたち」の姿など珍しい催しを見たり聞いたりしながらも、前日からの私の印象は少しも変わらなかった。
  礼拝も終わりに近く、手束牧師の熱い祈りの後で、一同が起立して賛美を歌い始めた。会場に響き渡るその歌声を聞いているうちに、昨日以来この集会に出てからずっと考えていたこと、いったい今ここで何が起こっているのか? ということが初めて見えてきた。それはまさに、明治以来の歩みを続けてきた日本のプロテスタントの教会が、ようやく聖霊の働きに目覚めてその歩みを始めたことを高らかに宣言する歌声であった。いわば日本のキリスト教の本流が、その長い紆余曲折の歴史を経た後で、それが内蔵する文化的伝統と膨大な神学的蓄積を擁しつつ、ようやくみ霊の流れに乗り始めたのだ。歌声はそのことを高らかに響かせていた。とうとう「日本のプロテスタント」が動き出した。私はそのことを実感した。
  ちなみに私の所属する集会は、無教会の流れを汲む、いわば「無教会聖霊派」とでも言うべき集会で、したがって会堂はなく、わずかの人数から成る交わりにすぎない。それでも洗礼と聖餐は執り行っている。たまたまお昼の食事で一緒になった姫路から来られた牧師さんとそのことを話していると、「それは立派な教会ですよ」と言われた。その一言に私は改めて「教会」という言葉の意味を噛みしめた。考えてみれば、キリストの教会そのものが、聖霊の降臨によって誕生したのだから、み霊の働く場こそまさに「教会」そのものであって、み霊のご臨在するところに「無」教会などということはおよそありえない。それは会堂さえ建っていればそれが教会だと言えないのと同じくらいの真実である。私は、このごくあたりまえのことに改めて気付かされた。おそらくこれも、この聖霊刷新大会が期せずして証ししている大事な真実なのだろう。そう思いながら私は帰路に就いた。

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