あるキリスト教徒の「油撒(ま)き事件」について
■はじめに
 今朝の新聞(『朝日新聞』2015年6月1日号)で、アメリカ在住のキリスト教徒が、各地の神社や仏閣に油を撒(ま)いていたという記事を読んで、ショックを受けると同時に、「いよいよ、来るべきものが来たか」という気持ちになった。聞けばこの人は、「お清め」と称する日本国内(東京と大阪)のキリスト教系の宗教団体の幹部であると言う(インターネット上での噂では、この人は韓国系の人のようであるが、そういうことはこの際、問題の本質ではない)。筆者(私市)が10年ほど前に出した『ガラテヤ書簡とローマ書簡から見た使徒パウロの継承思想』(コイノニア刊行会2006年)の最終章で、わたしが危惧していたのはまさにこのことである。神社・仏閣に対して敵意を抱くクリスチャンがいるのは、わたしもよく知っている。それならその人は、インターネットなどを通じていくらでも自分の意見を述べることができるではないか。当然それに対する反論も覚悟の上であるが。「正しい」と信じるならデモ行為を堂々とすることもできるではないか。当然それに対して、わたしのように、反対意見を表明する人が出て来るけれども。彼は、「正しい」と思うことをなぜ警察に見つかるまで「隠れてこそこそ」やったのか? そういうやり方で「お清め」と称して神社や仏閣にキリスト教の聖霊を象徴する油を撒く行為は、キリスト教徒による霊的なテロ行為にほかならない。おそらくそこには、以下に述べるような聖書の原理主義的な解釈がある。今、日本人キリスト教徒は、他宗教へのこういう霊的なテロ行為を絶対に許してはならない。被害に遭われた仏教や神道の方々に深く陳謝する。それとともに、ここで改めて、わたしの著作の最終章(14章)「律法崇拝の偶像性」で述べたことを、若干加筆しながら引用して、今回の事件への筆者の見解とさせていただきたい。  
■聖書崇拝と偶像礼拝
 一部のユダヤ人キリスト教徒に見られる律法主義は、律法遵守と言うよりも律法そのものを絶対視することによる律法崇拝に近いと述べた。このような「律法」の偶像化は、パウロが指摘しているように、聖書の文言を字義どおりに解釈し、書かれた文字そのままにこれを厳守しようとする聖書解釈と深く結び付いている。だが、聖書の文言のこのような絶対化と字義どおりの聖書解釈は、そのまま現在の聖書解釈にもつながるところがあるのではないだろうか? これがわたしの提起したい問題である。
 宗教改革以来のプロテスタント諸派が、聖書主義を貫いてきたのはそれなりの理由がある。けだし聖書は、イエス・キリストの福音を証しする書として、今もなおキリスト者の信仰を導くほとんど唯一の導きの書であることに変わりはない。しかし、最初期の律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちのように、聖書の文言それ自体を絶対視して、これを信奉するならば、わたしたちもまた聖書主義から最悪の聖書崇拝(Bibliolatry)へ陥る危険を犯すことにはならないだろうか。歯痛の治療の目的で患部に聖書を当てて祈祷するという呪術的な意味で言う「聖書崇拝」のことではない。聖書の言葉それ自体をその書かれてあるとおりに信奉することは、聖書の文言を絶対化することによって、その言葉を偶像化することにつながりかねないと言うのである。富であれ、権力であれ、収穫物であれ、相対的なものを崇拝し、崇拝することで絶対化するところに「偶像」が生まれる。聖書の文言と言えども例外ではないであろう。
 相対性とは、あるものとあるものとが、相互に対立し合う場において、双方に共通する性格のことである。偶像礼拝は、相対的な偶像を絶対化することによって、他の相対的な偶像を否定する傾向を帯びる。聖書の文言を絶対視する者もまた、自己の信条に対立する思想や文化や宗教を攻撃する傾向に走りやすい。だから、キリスト教系を含むあらゆる種類の複数の「偶像的相対宗教」が、互いに「自己の絶対性」を主張し合い競い合うところには、必ず烈しい争いが発生する。現代はまさにそういう時代である。キリスト教の歴史において言えば、福音を否定する律法主義を始めとして、これに対する反動としてのキリスト教会による反ユダヤ主義、グノーシスなどの「異端」に対する教会の側からの行き過ぎた弾圧、イスラム世界への侵略的な十字軍遠征、植民地政策に伴う南米や北米での原住民の殺戮とこれに続く奴隷の輸入と酷使などがあげられよう。これらは、「異端」「反キリスト」「異教徒」「野蛮人」「不信仰者」などの差別的な分類によって正当化されていた。2015年の現在の反イスラムと反キリストの衝突が、欧米と中近東を含む一体において進行しているのも、これら過去からの「悪しき」延長に過ぎない。わたしの見方では、このような数々の「悪い実」は、聖書の文言それ自体を無批判的に信奉するところに起因する。だからわたしたちは、聖書崇拝という偶像礼拝の変種が発生する危険性に対して警戒を怠ってはならないのである。
 聖書崇拝は、聖書の文言それ自体も人間の言葉であって、当然これに伴う相対性を免れえないことを忘れるところに起因している。だから聖書の言葉を絶対視する人たちは、いつの間にか、人間の言葉に支配される奴隷となり、パウロが恐れたとおり、「文字は殺し、霊は活かす」という、その「文字」の虜(とりこ)に陥るのである。聖書の言葉は、無限の神を指し示す有限の人間の言葉であり、この意味で「しるし」である。「しるし」にとらわれて「しるし」それ自体を追い求める者は、「しるし」の奴隷となり、「しるし」それ自体を偶像化するにいたる。物質的な賜であれ、病の癒しであれ、霊的な賜であれ、「しるし」それ自体を求めてこれらを信奉するならば、神が与える祝福を「神そのものを礼拝することの代わりに」拝むというかつてのユダヤの民が犯した過ちに陥ることになる。かつてのユダヤの民は、「しるし」を求めて神を求めず、与えられた物を求めて与える方を忘れた。彼らは、相対的な「しるし」を絶対的なものと取り違えるという誤りを犯したのである。相対の言葉を絶対化して他の相対を非難するという禍が、このようにして生じることになった。それゆえに、わたしたち「人間」が、「神」の言葉である聖書を解釈する際には、その大きな可能性と同時に大きな危険性をもはらむことを知っておく必要がある。
■悪霊的文化論について 
 聖書崇拝についてこのように言うのは、それなりの理由がある。現在我が国において盛んに伝えられているキリスト教の間で、仏教や神道を初め、様々な「異教」が、本来悪霊から出ているという主張が真面目に取りざたされているからである。とりあえずここで、ピーター・ワグナー著の『都市の要塞を砕け:霊的地図作成と祈りの戦略』から引用させていただきたい。
 
   他の一冊『霊の闘いの祈り』(邦訳。マルコーシュ・パブリケーション)でも、妻のドリスが実際に悪霊を寝室で目撃したことについてお分かちしました。その後キャシー・シャーラーとジョージ・エッカーが我が家に乗り込んできて、その悪霊を追い出してくれました。キャシーとジョージは我が家の他のどの部屋よりも、居間で多くの悪霊を発見しました。二人は私たちの家を去る時に、一つの悪霊以外は皆追い出すことができたと感じたのです。この最後の悪霊は、石でできたピューマの像についていると、二人は見分けました。このピューマの像は、私たちがボリビアで宣教師として働いていたときに買い求めたもので、インディアンの中でもクエチュア族のものでした。しかしそれでも、目に見えない次元をうごめく存在が、明らかに目に見える世界のこの物体についていたのです。〔ワグナー前掲書89頁〕
 
 お断わりしておくが、わたしがこの著書から引用するのは、この本が極端な偏見に満ちた本だからではない。逆に、この種の本としては、きわめて「穏健」であり、おそらくこの本は、アメリカの聖霊派や福音主義的な教会だけでなく、現在、日本の聖霊運動の指導者たちを始めとして、日本の霊的な諸宗団や福音主義的な諸教会で一つの規範とされていると思うからである。
 この本の著者はここで、自分の家に住んでいた「悪霊」を追い出した話しをしている。彼は、それまで「気がつかなった」いろいろな悪霊が、家具や装飾品の形で自分の家に住み着いていたことを「見分けて」、これを「追い出した」のである。その結果「決断を下すのは容易なことでした。ピューマは破壊されなければなりませんでした。私たちはその像を外に出すと、粉々に破壊し、ゴミ捨て場に捨てた」〔ワグナー前掲書89頁〕のである。著者はこれに続いて、さらに徹底した悪霊追放を自分の家で実行している。
 これはこの本に書かれているほんの一例である。この著者がインディアンのクエチュア族とその文化をどのような目で見ているのか、これで容易に察しがつくと思う。わたしには、ピューマが美しいと感じた時の著者のほうがはるかに人間的であり、「霊的にも正しい」と思われる。少なくともこれだけは確かである。インディアンに福音を伝える宣教師としてなら、ピューマを買ったときの彼のほうが、これを粉々に砕いたときの著者よりもはるかにふさわしい。このような悪霊追放を行なう目的で、著者が宣教師として再びクエチュア族を訪れることがないように、わたしはイエスのみ名によって祈りたい。アメリカのインディアンたちが、過去に、自分たちの霊性を完全に破壊されるという残酷な仕打ちを受けてきたこと、また現在でもその事態が変わっていないことを改めて知らされる思いがする。
 アフガニスタンでイスラム教のタリバンたちがバーミアン洞窟の仏像を破壊したことをわたしたちは知っている。もしもこのようなタリバンの宣教師たちが、イスラム教を伝える目的で日本に来たとすれば、どんなことが起こるだろうか? ところが、現在の日本で、まさにこのことが、現実に起こっているのである! イスラム教のことではない。キリストの御霊を伝えるキリストの福音伝道のことである。現在少なからぬ宣教師たちが、日本において、この著者がアメリカで行なったことを日本でも行なおうとしている。この本の副題にあるように、この人たちは、悪霊の「霊的地図を作成」して、この国から悪霊を「地域ごと」追い出そうと真面目に考えているのである。著者は、韓国の伝統文化が、日本の支配や朝鮮戦争のために破壊されたことが、現在のキリスト教の発展の原因となったと述べてから次のように書いている。
 
   これと比較して、日本の文化は何の妨害も受けずに、3000年もの間継続してきました。ですから、日本文化を織物にたとえるなら、異教的なものがその縦糸、横糸となって織り込まれているのです。つまり日本を支配している悪霊は、日本の文化を利用して、今まで好き勝手なことをしてきました。そして自分の縄張りで、形式的でない本当のキリスト教が現われるのを許す気はないのです。〔ワグナー前掲書99頁〕。
 
 日本人をアメリカ嫌いにして、キリスト教に対する憎悪をかき立てようと思えばこれほどうってつけの文章はない。しかも、さきほどお断わりしたように、この本は、この種の異教悪霊文化論の中では、最も穏健で知的な考察に裏打ちされている(わたしの手元にはこれよりもさらにひどいものが複数ある)。著者は、異教の「偶像礼拝的な悪霊」と同時に、アメリカ国内における同様の異教的悪霊の臭いをもかぎつけて、これを絶滅しようとすることを忘れない。
 この著者は、現在行なわれているキリスト教の祭りや慣習の中で、かつて異教であったものが混入していないものなど何一つないことをご存じないのだろうか。端午の節句やお雛祭りを異教的だと考えるならば、同様にクリスマスもハロウイーンも異教的だと考えるべきである。クリスマスは聖なる祭りでお盆や正月は悪霊的であるとか、復活節は聖なる祭りで、彼岸や花祭りは悪霊的だとか、感謝祭やハロウイーンは正しいが、お雛祭りや端午の節句は悪霊的だとか、教会への献金は神に喜ばれるが、お寺や神社へのお布施やお賽銭は悪霊に捧げるというような、相対同士を比較対照する誤りは、アメリカの核実験と軍備は正しく、ソ連の核実験と軍備は正しくないというかつての詭弁と同じレベルの驚くべき欺瞞にすぎない。
■人類の文化は「悪霊」の業ではない
 しかしながら、真の問題点は、キリスト教にも日本文化同様に「どの程度」異教的な要素が混入しているのかを指摘することではないであろう。問題の本質は、そもそも自分たちの宗教以外の宗教を「異教」と呼び、そうすることによってその宗教を基盤とする文化全体を「異教文化」として悪霊呼ばわりするそのこと自体にある。ワグナー氏は自宅にピューマの彫刻を飾っていた。このことは、彼が、自分の信じているキリスト教の信仰がピューマに象徴される文化とこれを担う人たちからなんら攻撃や非難を受けたことがないことを証ししている。もしも彼が、現地でキリスト教への非難や攻撃を受けていたとすれば、彼はそもそもそのようなものをわざわざ土産に買わなかったであろうし、ましてやそれを自宅の居間に飾ったりしなかったであろう。
 ところが、ある人たちが訪問してきて、今まで問題を感じさせなかったピューマの背後に「異教的な悪霊」を感じ取ったのである。その結果、ピューマは粉々にされる運命になった。だから、攻撃を仕掛けたのは、ピューマのほうではない。これを悪霊として攻撃したのは、氏の家を訪れたクリスチャンのほうだったのである。「異教文化」のほうは、キリスト教を悪霊呼ばわりすることも批判することも一切しなかった。これに対して、ピューマを「異教文化」と見なして、これに一方的な攻撃を仕掛けたのはクリスチャンのほうなのである。このことをここで確認しておきたい。
 わたしの知り合いのクリスチャンの女性が、かつてある寺で竜の天井画を見物した。それからしばらく経ってから、彼女もこの種の本を読む機会があった。すると彼女は、自分が訪れたのは悪霊の絵であったと感じさせられて、恐れを抱き、寺を訪れたことを「悔い改めた」のである。天井画はピューマのように砕くことができなかったが、彼女にもワグナー氏と同様のことが起こったことが分かる。ここに共通しているのは、<ピューマ/天井画→異教→悪霊>という結びつきである。どちらの場合も、「異教」のほうからの非難や攻撃は一切なかった。にもかかわらず、一方的に攻撃したのはキリスト教の側であり、氏も彼女も、異教の人たちからではなく、同じクリスチャンたちによって恐れを抱かされたのである。なぜそのクリスチャンたちは、そのようなことをするのか? なぜクリスチャンたちは、そんなに異教と悪霊を怖がるのか?  それは、彼らの聖書の言葉にその原因がある。「『造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕える』ことほど、神を怒らせるものはありません。(ローマ1章25節参照)」〔ワグナー前掲書71頁〕というのがその理由である。
 相手が自分たちを攻撃してくる気配もその恐れも一切ないことを知っているのであれば、<ピューマ/天井画→異教→悪霊>という短絡的な結びつきではなく、その彫刻や絵画の背後にある文化的な背景には、どのような考え方や歴史や霊性が潜んでいるのかを観察したり学んだりするだけの余裕をなぜこれらのクリスチャンたちは持つことができないのであろうか? どうやら問題は、聖書の「偶像礼拝禁止」の文言をそのまま字義どおりに受けとめて、かつこれに動かされて「浄化」と「粛正」を実行しようとしていることにある。ここで改めて、聖書解釈の問題が浮かび上がってくることになる。
■宗教的相対性と聖書解釈
 このような異教文化悪霊論は、旧約の聖絶から新約の悪霊観にいたるまで、偶像礼拝と悪霊に関わる聖書の文言を文字通りに受けとめて、これを忠実に、歴史的、文献学的な批判を加えることをせずに、行なおうとするところから生じている。このような聖書解釈に対して、わたしたちは、こういう短絡的な思考ではなく、まず聖書で攻撃されている「偶像」とは、そもそもなんなのか? その社会的、文化的、宗教的背景を探ることから始めなければならない。その上で、そのような「偶像」がかつて内蔵していた意味を現代に置き換えて、そこに含まれる霊的な意味とこれが指し示す「人類の未来の歴史的方向」を洞察すること、このことが要求されてくるのである。過去への学問的な考察と未来への霊的な洞察、知恵の御霊に支えられた英知とこれに基づく学問的な努力が必要なのはこの理由による。自分たちが知らない文化が生み出した彫刻や絵画の背後に、いったいどのような価値観が存在するのか? どのような宗教的霊性が、その文化を形成しているのか? 過去の人類のどのような思想と知恵がその作品に潜んでいるのか? なぜそのようなクリスチャンたちは、こういうことを霊的な英知と愛によって理解しようと努力しないのか? 
 日本人が仏像を拝んだり、神社参拝をすることと、欧米の人たちが十字架を担ぎまわったり、聖母像を拝んだりすることとは内容的には全く変わらない。しかも日本人は、そしておそらくは欧米の人たちも、そのような宗教的な行為を絶対化しているわけではない。むしろ、現代においての絶対化とは、経済であり金融であり、マスメディアを巻き込んだ情報戦争であり、自己の価値観やイデオロギーを他の民族や国家のそれよりも優先させようとする宗教イデオロギーなのである。平たく言うならば、武力と知力と金である。これら三つは、古今東西、人間が常に絶対化してきたもので、この事情は現代においても少しも変わらない。
 「偶像」という聖書の言葉だけを見て、その言葉が持っていた根源の意味を探ろうともせずに、聖書の言葉を「神の言葉」として崇拝するならば、相対的な人間の言葉を絶対化する危険を犯すことになる。その結果、どのようなことが起こるのかをこの著作は証ししてくれる。偶像礼拝の奥には相対的なものの絶対化が潜んでいる。したがって、このような絶対化こそ、悪霊の巣である。聖書の言葉と言えども、これを絶対化するならば、聖書崇拝的な偶像礼拝に引き込まれる恐れがある。異教に立ち向かい、これを絶滅しようと図ることは、相対に対するに相対をもってすることにほかならない。聖書の言葉は、真の絶対性を指し示す指標であるが、「指標それ自体」は決して絶対ではない。だからこれを本体と区別しなければならない。わたしたちがなすべきことは、指標としての聖書の言葉が指し示してくれる「開かれた未来に」視野を求めることなのである。このような開けの中で、神の言葉の真理の終末的な顕現を志向することなのである。
 かつてモーセ律法の「殺すな」は、ほんらい、神の霊に生きる者は、その本性から、人を殺すようなことはしない性質を具有するという意味であって、「殺してはならない」という命令的な響きではなかったと言われる。仮に命令であったとしても、この戒めは、同じイスラエル共同体の中だけに通用する戒めであって、一度外敵との戦争ともなれば、サムソンのような英雄が賞賛されたのである。しかし、新約の時代にいたって、その解釈が変容して、やがては異教徒を殺すことが、神に喜ばれることにはならないという解釈へと進化してきた。現在では、いかなる人間でも、殺人は罪であるという意味として、広く受け容れられるようになった。聖書の言葉は、このように、何時の時代でも指標として、神の開かれた真理への絶対性へと向かう証しであり、このための変容への歩みであった。
 聖書の言葉が本来指示していたその根源的な意味へとさかのぼること。その上で今度は、現在自分たちが置かれている状況の下で、その言葉が指示する方向を正しく見極めること。現在の自分たちから、過去へさかのぼることと未来を正しく志向すること。このふたつを同時に行なうことこそ聖霊に導かれる読み方でなければならない。特に「偶像」のような重要な言葉について語る場合には、ことのほか、細心の注意を要することを肝に銘じなければならない。
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