(1)神話化と神学化
:ルカ1章の序文から
コイノニア京都集会(2020年9月26日)
「すでにいろいろな方々が、今の私たちに成就している言葉と事柄の成り行きを順序立てて物語ろうと手がけてきました。出来事を始めから目で見て、その御言葉を伝えるよう委任された方々が私たちに伝授してくださったとおりのことを、かく言う私もまた、その一部始終を初めから綿密に調べて、いと高きテオフィロス閣下、閣下に順序正しく書き送らせていただきます。閣下に告げ知らされていることが確かなことをご明察ください。」
(ルカ1章1〜4節)〔私訳〕
*「順序正しく」ルカの時代の医者が人体について語るのと同じように〔Bovon. Luke(1). Fortress(2002)18.〕。
*「告げ知らされていること」歴史的だけでなく神学的な意味でも(確かであること)〔Bovon. Luke(1). Fortress(2002)24.〕
■神話から歴史と神学へ
前回は、人類が原初に想い描いた神話(mythology)から現在の科学(science)とその技術(art)が生じてきたことを話しました。星空を観察しながら、そこに天の赤道を想い描いて、これに沿う星の並びを十二の動物にたとえることから、現在の天文学が始まったのです。そこで今回は、神話(mythology)から神学(theology)への移行をお話します。とは言え、神話から科学へと、神話から神学へと、その道筋には共通するところがあります。それは、どちらも、私たちの身の回りに生じる「出来事」に関係するからです。ただし、自然科学の場合は、人間を囲む外の物理的な出来事についてですが、今回は、「私たちに成就している言葉と事柄」ですから、これは「人間に」関する出来事のことです。「人間の出来事」なら、それは「歴史」のことではないか。そのとおりです。人は神話を「語る」のですから、神話は「物語」です。しかし、新聞記事のように、出来事を並べただけでは「年代記」(chronicle)ですから、そこに一貫した歴史性を読み取ることはできません。出来事を一貫して「物語る」ところに「歴史」が生まれます。だから、神話(mythology)から物語(story)へ、物語(story)から歴史(history)へです。このように、人類は、その神話から科学へ、神話から歴史へ、神話から神学へと、その歩みを進めてきました。
■造神話力
科学と歴史と神学、この三つは、どれも人間以外の動物にはほとんど見られない能力です。人は生まれるとすぐにいろいろなことを学び始めますが、人間の子供は、大人が思いも及ばない想像力を発揮します。だから、SFの世界やアニメの世界を想像し、空想し、時には妄想します。これは「神話を創り出す」能力で、実は、子供の将来にとってとても大事なことなのです。神話とは、出来事を表面的に伝える新聞記事とは異なって、象徴や比喩を交えて起こった出来事の「本質的な」意義を伝えようとする語り方です。人間に具わるこの「神話を創り出す」能力を「造神話力」(mythopoeic power)と言います。人類は、過去何十万年もの長い間、造神話(myth-making)の方法で、様々な体験を後の人に「告げ知らせて」(ルカの意味)きました。この造神話力によって、出来事が継承されて伝えられることを「造神話的継承」(mythopoeic continuity)と言います。ルカがここで「物語る」と言うのはこの意味なのです。
■ルカの語るイエス様の出来事
ところで、ルカがここで言うのは、単に一般的な意味で「物語る」こと「告げ知らせる」ことではありません。ルカは、「イエス様の出来事」を物語ることで、「確かなこと」を「告げ知らせよう」としているからです。科学する人は、出来事を直接人間とは関わらない物理的な出来事だと認識します。しかし、歴史は、出来事を人間の行なう業として語ります。だから、この意味で言えば、イエス様の出来事は、パレスチナで実際に起こった歴史的な出来事です。ルカが、イエス様の出来事を「順序正しく」書き送る「確かなこと」だと言うのは、歴史として、「時間の順序に従った」「確かな」出来事だからです。
しかし、ルカの言う「一部始終」の意味は、それだけではありません。なぜなら、彼は、イエス様の出来事をその「初めから」語ること、すなわちイエス様が生まれる以前のマリアへの天使のお告げ、エリザベトとマリアとの出会い、そしてクリスマスでの天使のお告げで始めています。終わりは、イエス様の復活と、エマオでの顕現と、イエス様の昇天に及びます。これは、人間が自分の力で起こした「出来事」ではありません。歴史は、人間に関わる出来事ですが、人間の思惑や力で起こされた出来事ばかりではありません。コロナのパンデミックのように、人間が思いも及ばない出来事、人間の力を超越した働きで生じる出来事も起こります。それは、人間の業や力を超えた「神が起こされた出来事」として語られます。これが、神学的(theological)な語り方です。ルカは、「イエス様の出来事」を神学的な視野からも「物語って」いるのです。それでは、「神話的」と「神学的」とはどう違うのか?こういう声が聞こえてきそうです。難しいところですが、三つの例をあげて説明します。
■神話的擬人化と神学的神格化の例
(1)私の住んでいる近くの帷子の辻に「スマート」という老舗の喫茶店があります。そこのトイレに入ると、「もう一歩。トイレの神さま喜びます」と墨で書かれた文字が眼に入ります。これはトイレを「神」として拝んでいるのではありません。トイレを人間と見て、これを「擬人化」(personify)して「喜ぶ」と言っているのです。ここでは、トイレは、擬人化(personify)されてはいますが、礼拝の対象として神格化(deify)されているのではありません。だから、「トイレの神さま」は、礼拝する「神」のことではなく、トイレの機能の擬人化(personification)なのです。これが、「神話的な擬人化」(mythological personification)です。だから、「トイレのカミ様」と言う時の「カミ」は「霊」と言うほうが適切です。「トイレの霊」は「喜ぶ」のです。日本人は、このように、あらゆるものに「霊」が宿ると信じて来ました。日本人を知らない宣教師さんが、これを見たらびっくりして、「日本人はトイレまで天の神として拝む偶像礼拝をするのか」と思うでしょう。キリスト教の神学的な視野から見れば、トイレを「神とする」とは、トイレをこのように「神格化」(deify)することだからです。神格化することは、それを礼拝することにつながりますから、彼が偶像礼拝だと思うのは当然です。トイレを「人間と見る」擬人化(神話)と、トイレを「天の神と等しくする」神格化(神学)とは、異なりますから注意してください。宣教師は、キリスト教の「神学」(theology)から発想して、トイレを神と等しいと見なす「神格化」(deification)が行なわれていると勘違いするのです。
日本人の宗教性を欧米人が誤解する、あるいは理解できないのはこのためです。実際は、日本人のほうが、人類に具わる宗教性の原初の姿である「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)に近いのです。
自然の内に働く超自然の力を人間を超えた神の働きだと見なすことを「神学的な神格化」(theological deification)と言います。これに対して、超自然あるいは自然の内に働く神を人間的に擬人化しようとする「神話的な擬人化」(mythological personification)があります。日本やギリシアやエジプトの古代の神話では、神を人に近づける「神の擬人化」が行なわれています。これには、神を人に近づけて親しみやすくする善い面と、人間を含む事物崇拝に陥る悪い面と、善悪の両面があります。ユダヤ=キリスト教では、逆に、「人が神へと神格化される」ことが、善い意味でも悪い意味でも問題になります。
(2)創世記の楽園で、神は人に「善悪を知る樹(の実)を採って食べてはいけない。これを食べると人は死ぬから」と言われました。ところが、エヴァは、蛇に唆(そそのか)されて、「神は、自分の植えた善悪を知る樹から人がその実を採って食べないように嘘をついている。」こう判断しました。彼女は、神を自分と同じ人間へと擬人化したのです。これは、神話的な擬人化の悪い面(罪)です。これに対して、人間は、知識の樹から採って食べることで、人を「神と等しい者」へと「神格化」しようとしてはいけない。人が自力で神格化を求めることは、人に死をもたらす。こう解釈する人は、この記事を「神学的に」解釈しています。彼もまた、「人が自らを神格化しようとする」罪、「人の神格化」の悪い面を読み取っているのです。神を人と同じに擬人化する神話的な解釈(mythological personification)にも、人を神へと神格化する神学的な解釈(theological deification)にも、どちらにも「罪」があります。しかし、「人を神の性質に近づけようとする」ことは、ユダヤ=キリスト教では、神の聖霊のお働きとして大事な意味を持っていますから、神話的な擬人化も神学的な神格化も、善悪の両面を具えているのが分かります。
(3)国家の政治に携(たずさ)わる特定の人間が、超自然のパワーがその人に擬人化していると信じられるなら、国民はこぞってその人物を崇拝します。これに対して、その政治家は、己を超自然の力と等しい存在に見せようとしている、こう判断する人は、そこに「神学的な神格化」を読み取って、彼を危険視します。ここでも、擬人化も神学化も、どちらも悪い例です。
■ルカの語り方
このように、同じ出来事を神話的に見るのか、神学的に見るのか、この二つの違いによって、その出来事の意味が異なってきます。ルカは、神話化と神学化のこの違いを念頭におきながら、ナザレのイエス様の出来事を、歴史的な視野からも描いています。しかし、単なる神話、あるいは単なる歴史としてではなく、神の御業としての神学的な観点からもイエス様の誕生から十字架と復活の出来事までを書き記しています。ルカは、ラザロと金持ちの話や、放蕩息子の父の話のように、神のなさることが人間に分かりやすいように、神話的な擬人化の良い面も採り入れています。同時に、マリアの讃歌や洗礼者ヨハネの父ザカリアの預言や、やもめの息子の生き返りや、七十二人の派遣など、神の聖霊が人間を「神格化」する良い面での働きも併せています。ルカは、人に親しみやすい神話化と、人に神の性質を宿らせる神学化の両方の良い面を併せて、この福音書を書いているのです。これが、「その一部始終を初めから綿密に調べて」、「閣下に告げ知らされている確かなこと」を書き送ることの意味です。
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