(2)イエス様の誕生:ルカ福音書2章より
               コイノニア京都集会(2020年11月28日)
 
 イエス様誕生の出来事をルカはどのように語っているのか? この点を以下にまとめてみました。
(1)起こった出来事が、あまりにもみずぼらしく、社会の片隅にも及ばないほど、人の目に隠された出来事だということです。「宿屋」とありますが、パウロが辿ったローマ軍団のための交通路とは異なって、パレスチナの片田舎では、そもそも旅人は、「旅人をもてなす」風習に従って、どこかの家に泊めてもらうのが習わしですから、ガリラヤから、はるばる身重の妻を伴って、おそらく徒歩で(?)幾日もかけて旅してきた貧乏夫婦を泊めてくれる家がなく、わずかに、家畜小屋の片隅を借りることが精一杯だったのでしょう。だから、生まれた赤子を抱える三人家族の姿には、「神の栄光」も「救い主誕生のしるし」も見えてはいなかったのです。
(2)この出来事が、救い主の誕生であることを告げ知らせる啓示を受けたのは、ベツレヘムの野で、夜に羊の見張りをしていた、無知で単純な羊飼いたちでした。一人の天使が突然現われて、「あなたたちのいるベツレヘムに救い主が生まれた」と告げると、彼らの居る場所で、天が明るくなり「天に栄光、地に平和」と天使たちの讃える声が聞こえてきたのです。「これが」、ヨセフ夫婦の間に生まれた赤子の出来事を栄光で照らしたのです。だから、イエス様の誕生は、数名の羊飼いたちが騒ぎ立てることで初めて「栄光を帯びる」出来事になりました。
(3)この出来事は、創世記35章19〜21節/ミカ4章6〜10/同5章1〜4節/詩編87篇4〜6節「この者はそこで生まれた」/イザヤ書9章1〜6節によって、すでに預言されていました。
(4)ところが、今回の「救い主の誕生」は、伝えられていた預言とは大きく異なるところがありました。預言によれば、誕生の場所は、「ユダの地ベツレヘム」とあり、ヨセフが「ダビデの家系」とあるように、どこまでも、イスラエルとユダヤのための「救い主」の出来事であって、外国の支配やその命令によって生じる出来事ではなかったのです。ユダヤの人々は外国による住民登録に対して反乱を起こすほど敵対していたのです(使徒5章37節)。
(5)今回は、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令に従って、シリアの総督キリニウスの命令によって行なわれた人口調査ですから、これは当時のユダヤ人たちが期待していた「救い主の誕生」とは逆に、外国の権力の支配によって、しかも、これに逆らうのではなく、服従することによって初めて可能になった出来事です。「救い主」は予期に反して、イスラエルの支配の下ではなく、イスラエルを支配する「外国の権力に服従する」ことで生じたのです。
(6)出来事の二面性
 マタイ福音書もルカ福音書も「救い主誕生」をユダヤ人だけでなく全世界の民の出来事としている点で共通します。しかし、注意して読むと、ルカ福音書は、マタイ福音書と大きく異なります。両者は(1)の点ででは共通しますが、(3)〜(4)では真逆になります。マタイ福音書では、救い主の誕生をいち早く知るのは、イスラエルの外にある東方の「偉い賢者」たちです(ベツレヘムの羊飼いと比較!)。しかも彼らは、この出来事への啓示を、こともあろうに、真っ先にユダヤの支配者ヘロデに伝えます(羊飼いたちの周囲の人々と比較)。そこで、ヘロデは、部隊を送ってベツレヘムの嬰児殺しを命じます(天使の合唱と対照)。ルカ福音書の貧しい人々への「喜びと平和」に対して、マタイ福音書では、ユダヤの権力による「殺戮と悲鳴」が生じます。マタイ福音書には、モーセの誕生にまつわる出エジプト記1章15〜22節の伝承が反映しているのでしょう。これで見ると、イエス様誕生の出来事には、二面性があることが分かります。日本で言えば、16世紀の後半から17世紀の前半にかけて、「東方」ならぬ「西方」から、賢者たち(フランシスコ・ザビエルたち)がはるばる訪れて、信長や高山右近や九州では大友宗麟などの大名たちに、キリスト教の布教を願い出て、それら大名の庇護の本で「キリシタン信仰」が広まりました。しかし、およそ50年以後に、秀吉のキリシタン禁令に始まり、家康の時以来、厳しいキリシタン弾圧と虐殺がおこなわれました。これに対して、現在のコイノニア会の場合は、戦後の日本で、アメリカという「外国からの影響下に」ありながら、少人数のささやかな交わりとして、民間の普通の人たちの間で、「救い主誕生」が語られてきました。お陰で、天の栄光と地での平和に恵まれています。
(7)救い主の特性
 終わりに、幼子から成長したイエス様に具わる「救い主の特徴」に触れておきます。それは、「知恵」(ギリシア語「ソフィア」)の霊を宿していることです(2章40節/同47節/同52節)。「知恵の御霊」こそ、イエス様の霊性です。この「知恵」は、すでに箴言8章22〜31節で預言されていた「天地創造の初めから」神と共にあった「知恵」のことです。
【注】
(1)その名は「イエス」(ルカ1章31節)とあるのは、ギリシア語の「イエスース」からで、「イエスース」は、ヘブライ語の「イホーシュア」が(申命記3章21節/シラ書46章1節参照。七十人訳ギリシア名は「イエースー」)、捕囚期以後に縮まって「イェシュワ」と発音されたことから生じました。「イホーシュア」は、「ヤハウェは救う/助ける(ヘブライ語「ヤーシャー」)」から出ています[Theological Dic. (3)289]。
(2)
〔ヘロデ大王〕
ヘロデ大王(前73年頃〜前4年)。親ローマ政策によって、ローマから「王」の称号を認められ、ユダヤ、サマリア、ガリラヤ、さらにピリポ・カイザリヤからテラコニティスとバタネヤなどガリラヤ湖東方の広範な地域にまで及ぶ支配者(在位前37年〜前4年)になりました。
〔アウグストゥス〕アウグストゥス。ローマ共和制の最後の指導者ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar)が、元老院で刺殺されると(前44年)、カエサルの姪の息子であるオクタヴィアヌス(Octavianus)(前63年頃〜後14年)は、ブルートゥスやカシウスたち暗殺者と闘い、勝利して、共に戦ったアントニウスとレピドゥスと組んで、ローマの三頭政治を行ないました(前43年から)。その後、オクタヴィアヌスは、アントニウスを倒して単独で支配者となり(前31年)、元老院から「アウグストゥス」(Augustus)(崇高なる者)の称号を受けます(前27年)。彼が、ローマ帝国最初の皇帝です(在位前31年頃〜後14年)。「アウグストゥス」の称号は、以後ローマの皇帝に対して用いられるようになります。初代皇帝アウグストゥスの後継者はティベリウス帝です(在位14年〜37年)(ルカ3章1節参照)。
〔キリニウス〕キリニウス(前50年代〜後21年)の原名は「クィリニウス」(Publius Qurinius)。古代ローマでは、貴族ではない下級の家に生まれながら、アウグストゥスの執政官としてローマ帝国の高職についた異例の人物として知られています。彼は、アウグストゥスの治世(前31年〜後14年)において最も有能で重要な官吏の一人であったと言えます。彼の経歴の概略は次の通りです〔The Anchor Bible Dictionary. Vol.5. 588--589.〕。
 前15年に、執政官に次ぐ法務官となり、翌年(前14年)、ギリシアの南のクレタ島と、その対岸のキレネ(北アフリカ沿岸)の支配を(総督として?)任されています。おそらくこの地域に重大な問題が生じたからでしょう。
 前12年には、アウグストゥスの信認を得て、当時の最高の役職である執政官(二名のみ)に任命されています。執政官は42歳以上の者に限られますから、これから逆算すると、彼は前54年頃の生まれになるでしょうか。
 前6年に、ローマ帝国の勢力圏の東に隣接するパルティアとの間に紛争が生じ、当時の帝国の属州ガラテヤ(シリアをも含む?)からカスピ海の西部のアルメニア(ローマとパルティアとの勢力が重なる地域)が脅かされます。キリニウスは、(小アジアの)パンフリアとガラテヤとアルメニアに隣接する地域一帯の支配を命じられ、6年間ほど(前6年〜前1年?)この地域を(皇帝代理の総督として?)支配し、この間に、軍隊を率いて反乱部族を鎮圧しています。
 後2年に、キリニウスは、皇帝アウグストゥスの命令によって、皇帝の養子であったガイウス・カエサルの助言役を務めました。ガイウス・カエサルは、シリア州を含む東方地域の執政官代行(?)となりましたから(前2年)、キリニウスもカエサルの助言役として、この地域の支配に携わったと思われます〔Joseph Fitzmyer. The Gospel According to Luke. I--IX. p.402〕。
 後6年のことです。それまで、パレスチナを支配したヘロデ大王の死後(前4年)、三分割された大王の領地の「ユダヤ地域」の支配を任されていたのが、大王の息子であるアルケラオスです。しかし彼は、その失政によって、ローマ帝国から領地(ユダヤ)を取り上げられ(後6年)、その結果、「アルケラオスの領地はローマ直属のシリア州に編入され、ローマの執政官代行のキュリニオスが、シリアにおける人々の財産を査定し、アルケラオスの邸宅売却のために、カイサルによって派遣された」〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』17巻(355):秦剛平訳『ユダヤ古代誌』(5)ちくま学芸文庫362頁〕と記されています。
 後6年(あるいは後7年?)に、キリニウスは、シリア州とこれに含まれるユダヤ地域の人口調査を行ないました。これについては、「カイサル(初代皇帝アウグストゥス)により、民族の統治者・財産査定者として派遣されたローマの元老院議員キュリニオスがシリアに着任した(後6/7年)。彼はすべての行政官職を経験した後、ついに執政官にまで栄達した人物であるが、他の面でもきわめてすぐれたものをもっていた」〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻(1):秦剛平訳『ユダヤ古代誌』(6)13頁〕とあります。だから、彼が、ローマ帝国の直轄州であったシリア州に属するユダヤ地域に派遣されて、「財務査定官」として、人口調査を行なったのは確かです(後6年〜7年)。ただし、キリニウスが、どのような内容の職務を行なっていたのかは、明確でありません。また、彼が、はたして「二度にわたる(シリア)総督としての任務についた」〔荒井献、他編『旧約新約聖書大事典』教文館(1989年)406頁〕かどうかが問題になります。
 人口調査は、どこの国の場合も同じですが、古代イスラエルにおいても、共同体を防衛する兵役のため成年男子を調査する目的と、共同体を運営する税との二つの目的で行なわれました(出エジプト30章11節/民数記1章3節/同26章1〜2節/サムエル記下24章1〜10節)。とりわけ、サムエル記下にあるダビデ王の人口調査は、統一国家としての王権を発動して、民を圧迫するものでしたから民の反抗を受けることになり、「王の罪」と見なされています。
 古代ローマにおける人口調査も、ほんらいは、ローマ市民からの住民税を確保するためにローマ市民に課せられたものです。しかし、皇帝アウグストゥスの時代には、皇帝直轄の属州にも同様の目的で人口調査が行なわれ、次いで、ローマの元老院に属する帝国内の諸州にも人口調査が行なわれるようになります。属州の場合でも、それぞれの州の所轄の役所(しばしば皇帝の名を帯びた「社(やしろ)」のような「納税所」)に、個人が出向いて、財産を報告しなければなりませんでした。しかし、実状は、必ずしも一定でなく、施行の方法は州によって異なっていたようです。
 ユダヤ地域における人口調査は、前7年頃と後7年に、二度行なわれたことが知られています。しかし、テルトゥリアヌスの証言によれば、ローマによるユダヤ地域での最初の人口調査は、シリア総督サトゥルニヌスの時代の前9年〜前6年の間の何時かに行なわれたとも考えられます〔荒井献、他編『旧約新約聖書大事典』教文館(1989年)634頁〕。
 後6〜7年のシリア州の人口調査は、キリニウスによって行なわれたのは確かです。この調査は、ユダヤの住民の反感をかうことになり、「このころ、ガリラヤ人と呼ばれたユダーーこの者は恐るべき知者で、(シリア総督)キュリニオスの時代に、すでに(ヤハウェをイスラエルの)神と仰いでいながら(ローマの人口調査に従って)ローマに仕えると言ってユダヤ人をなじった者である。・・・・・マサダに行き、ヘロデの武器庫に押し入り、同郷(ガリラヤ)の仲間やほかの反徒たちを武装させ、彼らを護衛兵に用いて、王者のようにエルサレムにもどり、反乱の首領となった」〔ヨセフス『ユダヤ戦記』2巻17章(8):秦剛平訳『ユダヤ戦記』(2)49頁〕と記されています。その後、さらに、「(マサダの)要塞を占拠したシカリオイは、エレアザロスという大きな感化力をもつ男を指導者にしていた。彼は、キュリニオスが財務査定官としてユダヤに派遣されたとき、(人口調査による)財産登録には応じないようユダヤ人を説得して回ったユダの子孫である。・・・・・シカリオイは、ローマの(人口調査の)要求に従おうとした者たちを襲い、彼らの財産を奪い、家畜を縛り上げ、家に火を放って回った」〔ヨセフス『ユダヤ戦記』7巻8章(252〜254):秦剛平訳『ユダヤ戦記』(3)240〜41頁〕と記されています。
〔イエス誕生の時期〕 ルカ福音書には、洗礼者ヨハネ誕生のお告げが、(前4年に亡くなった)「ユダヤの王ヘロデ(大王)の時代」(ルカ1章5節)とあり、これは、マタイ2章1節の「イエスはヘロデ大王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれた」とあるのと一致します。ちなみに、ヘロデ大王の死んだ年、前4年の3月13日〜14日に月食が起こったことが報告されています〔前掲書『ユダヤ古代誌』17巻6章(167):前掲書(5)306頁〕。また、大王が、その死に際して、多くの者たちを虐殺したことも記されています〔秦訳前掲書17巻6章(178)〕。マタイ福音書にある「メシア誕生の星」については省筆します。だから、現在では、イエスの誕生は「前4年頃」のことだとされています。より正確に言えば。イエスの生涯は、「前6年/前4年〜後30年/33年」になりましょう〔前掲書『旧約新約聖書大事典』882頁〕。
 しかし、これだと、ルカ2章2節にある「キリニウスがシリア州の総督であった時に行なわれた最初の人口調査」(後6〜7年)と、イエスの誕生(前4年)とが一致しません。先に述べたように、シリア総督サトゥルニヌスの時代の前9年〜前6年の間にも、人口調査が行なわれたというテルトゥリアヌスの証言があります。キリニウスは、前6年頃から、小アジアのパンフリアとガラテヤとアルメニアに隣接する地域一帯を支配していましたから、彼には、シリア州での人口調査を行なう権限が与えられていた可能性があります〔The Anchor Bible Dictionary. Vol.5. 588.〕。もしも、ヘロデの時代(の前6年/前4年頃)に、人口調査が、キリニウスによって行なわれたとすれば、彼は、紀元前と紀元後に、二度人口調査を行なっていたことになりますから、ルカ福音書の記事にある「ヘロデの時代」に近くなります。キリニウスによるこの「二度の」人口調査説は、ルカ福音書の時期的な矛盾への解決として注目されてきました。この説を補強するものとして、アウグストゥスの時代の元老院の記録に(Titulus Tibrutinust と呼ばれる断片)、その名前は特定されていませんが、ある官吏が、「<再び>シリアとフェニキア州で、アウグストゥスの法務官として、その権限を施行した」という記録が残されていることもあります。しかし、この記録も、「再び」(ラテン語"iterum")とあるのは、むしろ「一つ<以上の>州での権限を」の意味に解釈すべきだという説があり、現在では、キリニウスによる「二度の人口調査」説は、疑問視されています〔The Anchor Bible Dictionary. Vol.5. 588.〕。
 現在では、むしろ、ヘロデ大王の死後の騒乱もあって、この頃の歴史的な出来事の年代が混乱して伝わっていたのではないか、という見方が出ています。だから、ルカには、大王の死んだ年と、アルケラオスがユダヤの領地を剥奪された年とが同年のこととして伝わっていた可能性があります〔François Bovon. Luke 1.84.〕。キリニウスによる「二度の人口調査」説は、現在も全く否定されているわけではありませんが、ルカは、聖霊降臨における異言の記事に見るように、幾つかの出来事を一つにまとめる場合があります。イエスの誕生の出来事についても、ルカは、イエスがヘロデ大王の時に生まれたことと、ローマ帝国の権力によって施行された人口調査の出来事とを重ね合わせているというのが、現在の学問的な見解です。
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