イエス様の試練
(2021年4月24日)
■イエス様の出来事
今回は、ルカ4章1〜12節の「イエス様への試練」についてです〔Francoi Bovon. Luke (1). Hermeneia Series. Fortress Press(2002)139--147〕。今回のイエス様の出来事は、イエス様語録(Q)に出ていますから、最初期のキリスト教徒によって語り伝えられたものです。ギリシア語の「ペイラゾー」は、「誘惑する」「試めす」「試練を与える」の意味ですが、ここでは、「受け身形」の動詞ですから、イエス様が、悪魔に「誘惑される」ことで、父なる神から「試される=試練を受ける」ことを指します。三番目の神殿での誘惑/試練だけでなく、パンの奇跡も、国家との関わりも、簡単に割り切ることができない容易に「答えの出ない」難問です。
イエス様は、洗礼を受けて、聖霊に満たされ、ヨルダン河から現在のエリコの西側に広がる「荒れ野」で試練を受けました。試練は、三つあって、最初は、「飢えた」時に、石をパンに変える奇跡を行なわせようとするものです。次は、現実の国家権力とその栄華を得るために悪魔を礼拝させようとするものです。次は、エルサレム神殿の塔から身を投じて、それでも神は保護してくださることを証しする奇跡を行なわせようとするものです。イエス様が聖書を信じていることを知っている悪魔は、聖書を引用して、言葉巧みにイエス様を誘惑します。この悪魔の誘惑の言葉に対して、イエス様は、三度とも、申命記(8章3節/6章13節/6章16節)から引用してお答えになっています。
■三つの誘惑
最初は、「飢え」という人間の身体の最も根本に関わる誘惑ですが、これは、「断食」の修業を破るという破戒とは異なります。次は、イエス様が、この世の国とどのように関わるのか?という課題です。イエス様は、現実の国家を肯定するのか? 否定するのか? そのどちらをも選ぶことをを可能にする誘惑です。3度目は、「神を試す」という神学的にも難しい問題に関わる誘惑です。
イエス様語録とマルコ=マタイ福音書、これらとルカ福音書とでは、国家の栄華と神殿での試練の順序が逆になっています。これは、おそらくルカによる編集でしょう。今回の出来事は、イスラエルの民が、40年にわたって荒れ野を旅して、その過程で、飢えてパンを求め、マナを与えられた出来事と(出エジプト16章)、国王を礼拝しなかった3人の主の僕に与えられた試練と(ダニエル書3章)、そして、イエス様の頃には、災い逃れのお札の文句になっていた詩編91篇(10〜12節)の「神の護り」の聖句を反映しています。
お稲荷さんのお札をいただいて、これを身につけていれば、コロナにかからない。こう信じて、マスクを外して大騒ぎをする。日本人の中に、そこまでお稲荷さんを信じて得意になる人はいないと思いますが、アメリカではどうでしょう? 有名なカリスマ伝道者が祈りを込めた聖書の御言葉を書いたお札(お守り)を身につけて、これで自分はコロナから神によって守られていると得意になって、マスクを外して集会をやる。こんなアメリカ人がいるかどうか分かりませんが、悪魔が聖書を利用して、これに乗せられて神を試すよう誘惑されるとは、これに近いです。
かつてのイスラエルの民は、荒れ野での40年の旅の途中で、しばしば、誘惑に負けて、困難の中で「神を試す」という過ちを犯したり、罪を犯して罰を受けることになりました。しかし、イエス様は、そのようなイスラエルの民とは異なっています。イエス様は、イスラエルが待ち望んだ「神の御子でありメシア(救い主)」だからです。だから、イエス様は、悪魔の「あらゆる試みや誘惑」に出逢われても、それに乗せられることがなく、逆に、悪魔とその働きを退散させるのです。
とりわけ、エルサレム神殿で、「神の保護を試す」ように仕向ける悪魔の誘惑は、イエス様が、エルサレムで受けるであろう受難について、「神のみ護りを試す」よう仕向ける悪魔の誘惑です。ルカは、この「誘惑の試練」をこのように解釈して、これを最後にまわしたのでしょう。このように見ると、イエス様の宣教活動の始めの試練は、十字架を前にしたイエス様のゲツセマネでの祈りと対応しているのが分かります。イエス様は、終始一貫して、十字架と御復活の父の御心に従ったのです。
■試練の働き
ルカ4章の荒れ野の試練について、ボヴォンの注解を読んだちょうどその日の午後に、「クオ・ワディス」の映画をBS3で見ました。ローマのコロセウムにクリスチャンたちが集められて、ライオンの餌食にされようとするその直前に、クリスチャンたちは、暴君ネロに向かって叫びます。「あなたの世は、一時で滅びる。しかし、私たちのキリストの国は永遠に滅びない」と。迫害の殉教の中から、現在のキリスト教国家が生まれました。ヴァティカンの丘でペトロが逆さまに十字架されたことから、今のヴァティカンが生まれました。この映画は、このことを語っています。
日本でも、キリシタンへの弾圧による殉教と、その後の潜伏キリシタンたちの驚くべき忍耐と智慧の信仰の歴史があります。また、先の戦争と原爆で死んでいった幾百万の兵士と民間人の死があります。これらの殉教者と、戦争の犠牲となった人たちの叫びが、今の日本を宗教的に支えてくれていると思わずにおれません。
「試練」とは、私たちにとって、主様に対する自分の信仰がどこまでほんものかが、「試される」ことです。イエス様こそ、自分の罪の一切を引き受けて、赦してくださるお方であると信じること、さらには、自分のいたらなさ、罪深さを逆転させてくださるお方であると信じること、この「まことの」礼拝が、試練によって試され、鍛えられるのです。 さらに、言えば、今の日本が、神がお
遣わしになったイエス様の十字架の贖いによって、過去の罪が赦され贖われて、新しい希望を抱いて歩むべき時がきていると信じるのです。
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