二章 個人と日本国憲法
 
■個人の人権
 「国民は、すべての基本的人権の享有(きょうゆう)を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵(おか)すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」〔第十一条〕
「すべて国民は、個人として尊重される。」〔十三条〕
「思想及び良心の自由は、これを侵(おか)してはならない。」〔第十九条〕
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」〔第二十条〕
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」
                            〔第二十一条〕
■世界人権宣言
 日本国憲法の中でも、ここで引用した「個人の人権」に関わる条項は、国連が総会において採択した「世界人権宣言」(一九四八年)と、その内容が共通することで知られています。共通する条項の番号だけをあげると次の通りです。
 憲法第十一条→人権宣言第二八条と第三〇条、憲法第十三条→人権宣言第一条と第三条と第六条と第一二条、憲法第十九条→人権宣言第一八条、憲法第二十条→人権宣言第一八条、憲法第二十一条→人権宣言第一九条と第二〇条。*1
 日本国憲法も世界人権宣言も、第二次世界大戦の悲惨な体験を繰り返さないことを意図して作られたものですが、一国の憲法と世界共通の宣言とが、とりわけ「個人の基本的人権」において共通することが、重要な意義を持つと言えます。幸い、人権宣言に盛られた「個人の人権」について、これが、政治的な意味だけでなく、人間の尊厳に関わる深い宗教的な意義を内蔵していることを分かりやすく解き明かしてくれる文書があります。以下の叙述は、主として、この文書に準拠しながら、「個人」の意義を考えたいと思います。*2
 人権宣言における「人間の尊厳」は、これをさかのぼると、旧約聖書の創世記(一章と二章)で語られている神による天地創造の物語に行き着きます。神は、天地の万象を創造するのに先立って、先ず「光」を生じさせます。これは、昼(光)と夜(闇)を分ける光ですが、神が人類に正しい価値観(神の愛)を示すための「啓示の光」でもあります。これに続いて、神は、天空と下界、陸と海、地を照らす諸天体、もろもろの動植物を作り、最後に、「神の姿に象(かたど)って」人間を創造します。*3
 創造物語に続いて、主(ヤハウェ)なる神は、人(アダム)を大地の土(アダマー)からつくり、その鼻に「命の霊を吹き込んだ」(創世記二章七節)とあります。「吹き込む」(inspire)とは「霊感を与える」ことですから、これは宗教的な出来事です。*4イスラエルの民から「主」と呼ばれるヤハウェ神は、抽象的な神概念ではなく、その名の如く「人格」(personality)を具(そな)えています。「人格」は、人それぞれに具(そな)わる人柄(ひとがら)のことですから、ここで初めて、神の霊を宿す理想の「個人」が誕生します。「個人の尊厳」と、その「自由」と、その「平等」の思想が、このようにして生まれました。「人間の尊厳」とは「個人の尊厳」のことです。*5
 人は、神に造られた者として、男女に分かれています。しかし、残念なことに、人は神の命に背いて、食べてはいけないと言われた楽園(エデン)の「知恵の実」を食べることで、男女共々、楽園(エデン)を追われる「罪人(つみびと)」になります(創世記三章)。
 その後、パレスチナのナザレに、キリスト(救い主)と称されるイエス(前四年頃〜後三〇年頃)が現われて、神の霊(聖霊)の働きを通じて、全人類が共有できる主(ヤハウェ)なる神の「まこと」の有り様を啓示します。このイエスは、人が罪を犯した結果、失われた神と人との交わりを新たに復活させることで、人にほんらい具(そな)わる「個人の尊厳」を取り戻すことを可能にしてくださいました。
 これが、新約聖書が証(あかし)するイエス・キリストです。この出来事は、ご自身も「一人の個人」として、世に来られたナザレのイエスにして初めて可能な御業(みわざ)です。だから、イエスを心から信じて、これに従う者には、だれであれ、「真理」を悟り「自由」を得る「基本的人権」が授与されます(ヨハネ福音書八章三一〜三二節)。*6以上が、世界人権宣言が言う「個人の人権」の宗教的な由来であり、これはそのまま、現在の日本国憲法の「個人の人権」思想に共通するものです。
■「個人」と民主主義
 憲法に明記された「個人の人権」について、もう一つ重要なことがあります。それは、「個人」と民主主義との密接な関係です。
 日本国憲法に掲げられている「個人の権利と自由」は、もしこれを字義どおりに受け取れば、どんなに驚くべきことか、皆さんは想像がつくでしょうか?その国の個人個人が、完全に自由に発言し、集まり、出版し、結婚し、自己の「幸福追求」を行なうことができて、しかも、その個人の行為が、ことごとく「公共の利益と福祉」にかなう。そんな国が、今の世界で想像できるでしょうか? 憲法が私たちに提示するのは、このような「理想の民主主義」の有り様です。
 人それぞれが、自己勝手な権利と自由を主張するなら、国は混乱に陥って収拾がつかなくなります。「正しい個人」とは、共同体を形成するための個人のことですから、個人は、自己勝手な振舞いをする私人とはっきり区別されなければなりません。日本では、まだ、個人と私人との区別が明確に意識されていないために、公(おおやけ)のための「個人」と、私事(わたくしごと)の「私人」とを取り違える場合が少なくないようです。
 個人は私人と異なります。私人が自分勝手な振舞いをすれば、国も社会も成り立ちません。しかし、個人がその個性を発揮すれば、国と社会を形成する力になります。例えば、棟方志功(むなかたしこう)のような津軽育ちの個人が描く個性豊かな画像は、世界に共通する普遍的な価値を帯びています。野球やサッカーの選手たちが、「私心」を捨てて、その「個性」を発揮すれば、そのチームは、強い力を発揮します。
 民主主義は、浮動するいわゆる「大衆」から生じるもの(ポピュリズム)ではありません。真(まこと)の民主主義は、(宗教的な)良心に目覚めた個人による共同体が造り出すものです。そこには、「すべての人が、個人として、よく生きるための命を授かっている」という信念がなければなりません。この意味で、民主主義は、国の民が抱く個人としての自覚に根拠を持っています。その自覚は、宗教的な真理に根ざすものであり、この意味での個人は、民主主義の基礎です。
■ピューリタンと個人
 日本国憲法が言う信仰の自由、言論の自由、結婚と離婚の自由など、議会制民主主義の根幹となる「個人の自由」は、近代では、一七世紀のイングランドのピューリタン(清教徒)とその神学に由来します。このために、日本国憲法の「個人」を宗教的な視野から、とりわけキリスト教からたどると、そのモデルとなる宗教的な原型が見えてきます。それは、すでに指摘したナザレのイエスという個人です。ナザレのイエスというひとりの人(個人)を通じて、神ご自身が人類に語られた。これが、キリスト教神学の核となる出来事であり、ピューリタン神学もこれを継承しています。イギリスを代表するピューリタン詩人ミルトンは、その短編の叙事詩『楽園の回復』において、自分個人の有り様をこういうナザレのイエスの姿に重ねて謳(うた)っています。*7このように見るならば、日本国憲法が言う個人の背後には、ナザレのイエスという宗教的な特定の個人が、その理想像として潜んでいるのが見えてきます。
 国家とは、国法を破る者を処罰し、国家の法に背かないように国民を監視し束縛するための制度だという見方があります。これに対して、憲法に定められた「個人の自由」とは、政府の権力を制限し、権力者による暴政を防ぐ働きをするという解釈もあります
 民の一人ひとりが、自ら進んで公共の利益のために働き、国家の平和と繁栄を願って自分に与えられた使命に向かって内面的に動かされ、その才能を自己の個性として発揮する。これが、憲法が求めている「個人の自由」の真の意図です。法治国家は宗教団体でないという理屈はよく分かりますが、国家が、その究極の価値観において、いい意味でも悪い意味でも、何らかの宗教性を具(そな)えていることを見逃さないでください。
 イエスは、「一人の個人」でありながら、単なる見本としての「モデル」ではありません。イエスは、十字架の苦難を経て、人間の弱さと罪深さを深く体験することで、人間の犯すあらゆる罪に打ち克(か)って、人間に具(そな)わる罪を赦してこれに克(か)つ力を与えられて、神の御子として復活されました。これは、イエス個人に宿る神の霊(聖霊)が、イエスを知る「すべての人に」も宿ることができるためです。イエスという個人の霊性が、これを受け容れるすべての人に宿ることで初めて、すべての人が、神から授かった「個性」を発揮することができる道が開かれました。こういう個性が発揮されることで、人と人とが交わりを保つまことの共同体が形成される道が開かれたのです。
 今の憲法は、国家の法律に縛られて嫌々ながら仕事をするような「国民」ではなく、私利私欲を離れて、「公共の利益のために」自ら進んで自己に与えられた使命を全うしようと務める。そのような民になるよう励まし促(うなが)しています。この憲法は、国民一人ひとりに、そういう自由を発揮する個人になるよう求めています。こんな役人を持つ国の民は何と幸せでしょう。これは実に「驚くべき」憲法です。イエス・キリストの聖霊が働くところに、このような個人の自由が発揮されます。これこそ、日本国憲法の「個人の自由」が指し示している意義です。

*1『世界人権宣言と日本国憲法』前田朗(ネット版から)。
*2奥田昌道『「人間の尊厳」の根底にあるもの』一九九五年五月九日鈴鹿国際大学での特別講義。奥田昌道先生講筵(5)京都キリスト召団(一九九六年)。
奥田氏は、元最高裁判所判事です。
*3奥田前掲書八〜二〇頁。
*4奥田前掲書三三頁。
*5奥田前掲書三六〜三七頁。
*6奥田前掲書五二〜五三頁。
*7John Milton(1608--1674). Paradise Regained.(1671)
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