五章 政教分離について
 
■欧米の政教分離
【イギリス】
 イギリスの国旗(Union Jack)に象徴されるイギリス連合王国の教会は、イングランド教会(the Church of England)とスコットランド教会(the Church of Scotland)(と北アイルランドでは、両教会にカトリック教会も加わる)が主流です。イングランドの教会会議法(一九六六年)によれば、教会と国家との間には、緊密な関係が維持されています。*1イギリス国王は、内閣の首相の助言によってイングランド教会の各管区の主教を任命する権利を有しますから、イングランド教会は、国家(議会)から、特権と言うより、むしろ制限を受けているとも言えます。とは言え、法の定める「宗教の自由」によって、教会が、その自律性を損なう扱いを受けることはありません。*2また、イングランド教会以外の様々なキリスト教諸派(例えばクエーカーや聖霊派など)の諸教会が、その運営において、国家から制限を受けることはありません。*3 学校教育については、イギリスの各地域の公立学校では、授業の一環として、(イングランド教会による)キリスト教的な儀礼に参加することを義務づけています。*4
【ドイツ】
 ドイツでは、カトリックと福音主義教会(ルター派や改革派など)が、ほぼ半分ずつの割合です。ドイツの国家制度と宗教法制は、基本的な点で、ヴァイマル憲法(一九一九年)を受け継いでいます。*5 ヴァイマル憲法では、教会は、教会のために教会税を徴収する権利を有していました。教会と税とのこの関係は、形を変えて今も続いています。ただし、ドイツは、日本と異なり、宗教活動と宗教教育は、原則として各州(ラント)の管轄に属しています。いわゆる「国教会」は存在しませんが、キリスト教会と連邦国家及び各州(ラント)との間には、「一定の協力関係」が憲法によって保障されています。その「協力関係」の内実は、より積極的なものから限定的なものまで、州によって差があるようです。*6 したがって、ドイツの制度は、厳密には「政教分離」とは言えません。ただし、(個人の)信仰・良心の自由は、憲法によって保障されています。
 (キリスト教的な)宗教教育においては、州によって多少の違いがあるものの、州ごとの規定に準じて、公立学校での、(キリスト教の)宗教の授業が認められています。*7 とりわけ、注目すべきは、州(ラント)立の大学での神学部の設置と教会との関係です。*8 教会は、州(ラント)立の大学に神学部を設置することが認められていますから、聖書解釈や聖書の歴史的研究などを通じて、教会を指導する神学者を養成することができます。*9 神学部の設置は、各州(ラント)の憲法典にも明確な規定がない場合があり、その実態は州によって異なります(これの設置を認めない州もある)。*10 また、大学の神学部における「信仰と学問の自由」は、認められていますが、教会の教義との関係で、問題も生じています。*11
【アメリカ】
 一七世紀のイングランドのピューリタン革命は、ほんらい、カトリックの教会制度から独立したイグランド教会をさらに「浄化する」(purify)ことを目指すものでした。「ピューリタン」(清教徒)と呼ばれる人たちは、この目的を果たすために、国家の制度から宗教制度を分離しました。ここで大切なのは、ピューリタンが目指したことは、単なる宗教制度の国家権力からの分離独立ではなく、国家や教会の制度に束縛されない「個人の信仰の自由」を確立することにあったことです。ピューリタンのこの信仰が、アメリカ大陸に渡って、アメリカの政教制度を形成する基盤となります。
 移民の国アメリカでは、現在、七割以上がキリスト教を宗教としていて、宗派の規模は、カトリック、(南部)バプティスト、メソジストの順番です。*12 ほかに、ユダヤ教、イスラム教、仏教を含むアジア系など様々な少数派が存在します。「(個人の)信仰の自由」は権利章典によって保障されており、「政教分離」は連邦憲法修正一条(一七九一年)に規定されています。*13
 イギリス型の「国教会」、ドイツ型の国家による「公認型」とは異なり、アメリカでは、国家と宗教とは「分離型」を採(と)っています。「分離」は、連邦レベルだけでなく、州においても厳しくなっていますが、ここで、とりわけ、公立学校での宗教活動をどの程度まで公共機関が援助したり、逆に抑制したりできるかをめぐって、判断が揺れています。*14 権利憲章で保障される「個人の信仰の自由」が、政教分離に抵触しないかどうかが、この場合も問題になります。*15 例えば、どの国でも、地域の助け合い活動を担うのは、その地域の草の根団体ですが、アメリカでは、とりわけ、宗教団体の活動が大きく、このため、政府の機関が、これらの諸団体を経済的に援助するときに、政教分離との兼ね合いが問題になります。*16
  アメリカの政教分離は、ほんらい、キリスト教徒が、特定の政治組織や宗教政策によって、「個人の信仰の自由」を侵(おか)されることがないための政策です。キリスト教への信仰の自由を保障された個人が、それぞれの選択に応じて議員を選出する。この過程を経ることで初めて、「議会制民主主義」として国政が成り立つからです。アメリカは、特定の宗教/宗派による「宗教国家」ではありませんが、個人の信仰の自由を活かそうとする意味において、「信仰国家」だと言えます。リンカーンの"the government of the people, by the people, for the people"が意味するのは、この事態を指しています。
■日本の「政教分離」
 翻(ひるがえ)って、日本では、「(個人の)信仰の自由」それ自体は、明治の憲法でも認められていました。日本の場合、「政教分離」は、「宗教」と「国政」との分離という意味合いが強かったと言えます。このために、明治憲法下の日本では、神社や皇室への参拝は「宗教でない」というおかしな理屈が唱えられました。敗戦後に成立した日本国憲法によって初めて、現在の「政教分離」が国(こく)是(ぜ)とされましたが、「政治を宗教から分離させる」という性格は、基本的に変わらなかったと言えます。これには、戦前の国家神道による国政への介入への反省から、政治と公立学校の教育から宗教を「排除する」傾向が強かったからです。だから、日本では、「政教分離」は、「個人の信仰の自由」を助長するというよりも、仏教・キリスト教・神道(しんとう)などの「宗教」が国政から分離することだと受け取られています。したがって、「信教の自由」とは、個人の信仰の自由よりも、「(国政からの)宗教の自由」を指すことになります。
 この事態は、日本では、ほんらい「個人」の存在意識が希薄であったことが、その理由としてあげられます。日本では、「自由な信仰の主体」であるべき「個人」が育っていなかったからです。「信教の自由」は、「宗教(を信じること)からの自由」をも意味しますから、「政教分離」は、国家機関と公立学校から、宗教を「排除する」ことを目指すものと認識されました。その結果、日本の政治機関と公立学校では、現在にいたるまで、欧米の国々とは異なって、「無宗教」の政治と「無宗教」の教育が行なわれてきたのです。
 それにもかかわらず、旧安倍政権は、神道の日本会議と日蓮宗系の創価学会を母胎とする公明党によって支えられていたのです。「個人なき宗団・宗教組織」と国政との不即不離のこの状態は、人間が、何らかの意味で「宗教する存在」である以上、避けられないからです。政治家による靖国神社参拝は、「私人」としてであって「政治家」としてではない。こういう外国では「笑い話」になることが、日本の国内では通用するのです。
 日本独自とも言うべきこういう無宗教性は、功罪を伴いますが、その「罪」の実例をあげれば、現在(二〇二二年一〇月)政界を揺るがせている「統一教会」の問題があります。政権与党の自民党議員の多くが、この宗教団体に巻き込まれているのに対して、同じ政権与党でも、日蓮宗の創価学会を母胎とする公明党には、その影響が及んでいません。ちなみに、かつてのオウム真理教の事件では、理工系の優秀な学生が多数、サリンの生成など宗団の陰謀に荷担したのを想い出します。
 日本では、憲法が定める「信教の自由」とは、個人の信仰の自由な活動を促(うなが)すためと言うよりも、「宗教組織や宗教団体」の自由のことです。その上で、国政と公立の教育制度を「宗教それ自体から切り離す」ことを国(こく)是(ぜ)としています。私は、現行の制度は、正しく善い結果をもたらしていると想います。 
■政教分離と政教関与
 欧米の場合に見るように、政教分離と政教関与との関係は、複雑で一様ではありません。この両者の狭間には、「個人の信仰の自由」という人権問題が潜んでいることも見逃せません。「政教分離」は、人が「宗教する存在」であることを思えば、これの実際面での有用にも限界があることが見えてきます。確かなのは、国の政治が、何らかの信念や思想を抱く人たちに動かされていることです。当然のこととして、思想や信念には、人の宗教が不可避的に関わっています。
 政治的な「権力」即「魔力」ではありませんが、国家の権力が「魔性を帯びる」のはよく知られています。その魔性に宗教的な信念が絡んでいる場合も少なくありません。しかし、権力をその魔性から遠ざけようとする試みこそ「民主主義」の働きであり、国の民主化を促(うなが)す思想ですから、民主主義を支える宗教的な信仰の働きの意義もそこにあります。民主主義は、権力の魔性化を防ぐ「最善とは言えないまでも唯一の手段」"Not the best, but the only way"だからです。
 「民主主義」(デモクラシー)が、「民衆主義」(デモクレイジー)に陥りやすいのも確かです。だから、キリスト教会は、権力に「近づかない」のが最善だという理屈も分かります。だからと言って、「政教分離」を理由に、キリスト教会もその信仰も、国政に「かかわらない」ことが、ほんとうに「正しい」のでしょうか?これが今問われています。国家の権力「からの自由」が保障されているのなら、その「自由」は、国家の権力に「関わる自由」も保障しなければなりません(そうでなければ自由でない)。
 戦後の日本のキリスト教界は、このような「政教分離」に則(のつと)って、政治と国家の行政に「関わらない」ことを旨(むね)として、教会の運営を行なっています。ここへ来て初めて「(個人の)信仰の自由」と、「キリスト教」と、「(武力の行使を含む)政治権力」との有り様が、信教と国家との関わり方として問われてきます。だから、今の日本で問われるべきは、キリスト教が、国政と関わるべきか、関わるべきでないか? ということよりも、むしろ、キリスト教が、国と政治に関わるとすれば、「どのような仕方で」関わるほうが適切なのか?ということではないでしょうか。 
 ここで、あえて私見を言わせていただくなら、現在の日本の政党の中には、神道系の宗教団体とつながりの深い派閥や仏教系の宗団を母胎とする政党が存在しています。これに鑑(かんが)みて、キリスト教系の諸宗団が一致して推薦できる政治家が、日本にも育ってほしいと念願するものです。*17

*1 欧米の政教分離については、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカの教会と国家の関係を詳細に調査した下記の文書があります。以下で、欧米のこの問題に関する部分は、これに準じています。
『海外の宗教事情に関する調査報告書』文化庁(平成二〇年)。
イギリス 原田一明・上田健介。
ドイツ  初宿正典・片桐直人。
アメリカ 駒村佳吾・岡田順太・横大道聰・小谷順子。
 『海外の宗教事情に関する調査報告書』七頁を参照。
*2前掲書九頁。
*3前掲書一一頁。
*4前掲書四二頁。
*5前掲書五三頁。
*6前掲書五一〜五二頁。
*7前掲書五七頁。
*8初宿正典(しやけまさのり)「ドイツの現行憲法秩序における国立大学神学部の地位」 曽我部真裕・赤坂幸一編『憲法改革の理念と展開』(下巻)信山社(二〇一二年)。
*9初宿前掲書二〇八〜二一〇頁。
*10初宿前掲書二一〇頁・二一二〜二一五頁。
*11初宿前掲書二二三〜二二五頁。
*12『海外の宗教事情に関する調査報告書』一八五頁。
*13前掲書一八六〜一八七頁。
*14前掲書一八七頁。
*15前掲書一八九〜一九〇頁。
*16前掲書二二四頁。
*17この文書は、二〇二二年四月一三日に、京都大学の信友たちの研究会で発表したものに基づいています。
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