はじめに
 私がこの本を書こうと思い立ったのは、ホームページに寄せられた、一読者からの要請がきっかけとなっている。わたし自身の今までの霊的な体験を教えてほしい、一口に言えばそんな意味の要請であった。自分の霊的な体験について述べたことはそれまでにも幾度かあった。しかし、それをまとめることはしてこなかった。そんなわけで、自分に与えられた体験を系統的にまとめてみようという思いが湧いてきたのである。
  御霊の働きとひと口に言っても、人により事情によりさまざまな形態があろう。第一そんな大それたテーマについて、何ほどか語るだけの値打ちのある体験をしてきたのだろうかという自省と疑念があったし、はたしてうまく人に伝わるように語ることができるのだろうかという不安もあった。ただ、ごく普通の一市民として日常生活の中で営んできた御霊の歩みということであれば、自分の体験に即して語ることができるだろう。それが、これまたごく普通の人間として、働きながら御霊の歩みを生活している人たちにとってなら、なにほどか参考になるかもしれない。そう私は思った。こういう思いによって始めたものであれば、その語り方も自叙伝風な形をとらざるを得ないだろう。ただしこれは、いわゆる「自叙伝」ではない。なぜなら自分の身に与えられた御霊の働きを語ることと、自分の自伝を語ることとは全く違うことだからである。
 私がまず考えたのは、語りの文体のことであった。それまで私は、ホームページにおいても信仰に関する著作の場合でも、できるだけ話し言葉で語ることにしていた。しかし今度の場合は、話し言葉ではなく、あえて書き言葉を選ぶことにした。自分自身に与えられた御霊の歩みを自分なりに反省し反芻しながら語る以上は、御霊の体験を与えてくださった神のみ前で、主にあって自分自身と向き合わなければならない。そこには自ずと信仰的、あるいは霊的な視点からの洞察が加わることになる。こういう語りの姿勢は、自叙伝的な語りとは本質的に異なってくる。
  例えばルカの場合を考えてみよう。ルカ福音書と使徒言行録において、彼は決してイエスの言行そのままを描こうとしたのでもなければ、使徒たちの言行を「記録」しようとしたのでもない。彼は自分に与えられた聖霊の導きに従って、自分に与えられた資料と伝承とを用いて、イエスの地上での歩みと、これに続く使徒たちの歩みを、御霊の働きに忠実に従いつつ物語っている。ここで彼が意図しているのは、自覚された自分自身が、なにを知っていてなにを語ろうと望んでいるのか、ということではない。聖霊にある語りとは、主観と客観との境界が消えて、両方ともがその意味を失い、自分が自分ではなく、御霊が「自分」であるという領域にまで語る本人が踏み込むことを意味する。これが、イエスと使徒たちの歩みを伝えようとしたときのルカの根本的な姿勢である。いわば御霊にあるルカ文学とでも言うべき性質のものである。
 もう一つ大事なことは、ルカが自分の資料を用いて御霊の歩みを語ろうとしたときに、彼はただ過去を再現しようとしたのではないことである。彼は、過去を振り返って聖霊の働きを見つめ直し、御霊の働きを語り伝えようとしている。だから彼は過去にさかのぼる。しかし彼は、現在自分に与えられているその時とその場から決して離れることはない。彼の御霊にある語りの起点は、どこまでも今自分がいるその場なのである。
  御霊にあって語るというこの点に関する限り、ルカであろうとヨハネであろうと、ほかの誰であろうと、本質的に変わるところがないというのが私の信仰である。だから私自身の御霊にある語りの視点もまたそこにある。どんなに大きな体験でも、どんなにささやかな体験でも、御霊にある働きに質的な違いはない。御霊の働きによって癌が癒される場合でも、頭痛が癒される場合でも、御霊の働きは本質的に変わらない。またそこに働く信仰には質的に何の違いもない。事の大小の差はあっても、御霊の命を生きるという、この一点においては、小さいことも大きなことも、主のみ前では変わることがない。
  私が聖霊のバプテスマに与ったのは、1953年のことであった。その当時、異言を伴う聖霊のバプテスマは、アメリカにおいてさえも現在のような正当性を与えられてはいなかった。まして日本では、比較的少数の人々の間でしか、異言の賜は知られていなかったと思う。だから当時の私には、聖霊の働きとはなにか? 御霊のバプテスマとはなにか? ということを深く考えたり反省したりする余裕がなかった。おそらくこれは、私ひとりではなかったであろう。聖霊のバプテスマについて考察されたり、それがある程度学問的な研究の対象として取り上げられるようになったのは、アメリカでも1980年代に入ってからである。私が受けた聖霊体験は、20世紀のリバイバル運動の中でもそういう時期にあたっていた。
 1953年は、年号で言えば昭和28年にあたる。私が入信して洗礼を受けたのは昭和27年である。真珠湾攻撃によって日米の戦争が始まったのが昭和16年であり、敗戦を迎えたのは昭和20年である。だから昭和27、28年といえば、戦後の日本が、ようやくその荒廃の中から立ち上がろうとしていた時期であった。このような時期に日本という場で与えられた聖霊体験と、自分の御霊の歩みとを切り離すことができない。そのような状況の下で私に御霊体験が与えられたこと自体が、今にして思えば、決定的な意味を帯びていたことを知る。私がこれから語ろうとする御霊の働きとこれを見つめる視点とは、こういう背景と切り離すことができない。なぜなら私はそこから出発したからである。これから語ることは、一人の小さな主にある僕が、聖霊の満たしを受けた歩みの記録であるが、しかしその歩みを見る視点は、今述べたような時と場から生まれたものであって、それ以上でもそれ以下でもないことを知っておいてほしいのである。
  だから、私が自分の異言体験を書こうと思ったのは、自分の異言体験が豊富であるからとか異言について系統的に調べたからではない。20世紀の前半に起こった世界的なリバイバルの中で、異言がいつ頃どのような経過で生じたのかについては、アメリカですでに幾冊かの本がでている。私の手元にあるのは『異言を語る人』(ジョン・L・シェリル著、「生ける水の川」翻訳委員会訳、生ける水の川、1975年)もそのひとつである。現在異言に関して「学問的な」著作と呼べるもので、私の手元にあるのは、ハーヴァード大学の宗教学の教授であるハーヴェイ・コックスによって著されたものである(Harvey Cox: Fire from Heaven: The Rise of Pentecostal Spirituality and the Reshaping of Religion in the Twenty-First Century. Addison-Wesley Publishing Co.,1995.「天からの火――ペンテコステ的霊性の台頭と21世紀の宗教再編成」〔仮題〕。これの日本語訳はまだ出ていない)。しかしこれは、体系的な「異言論」と言うよりは、広範囲に及ぶ実際のフィールド・ワークに基づくものである。これ以外に私の手元にある異言を扱った学問的なものに、G・タイセン著、渡辺康麿訳『パウロ神学の心理的側面』(教文館、1990年)第四章「グロッソラリア――無意識の言語」がある。ただし、現在では、このほかに、ドイツ語や英語のものがいろいろ出ている。
  異言体験そのものについて語る本は数が多い。最近では、現在のアメリカの聖霊運動を代表するベニー・ヒン(Benny Hinn)師の『聖霊さま、おはようございます!』(武井博訳・マルコーシュ・パブリケーション、1994年)や『聖霊さま、歓迎します!』(マルコーシュ翻訳委員会訳、マルコーシュ・パブリケーション、1995年)がある。もっとも、ヒン師の本は、異言と言うよりは聖霊体験全般に及んでいる。私が今でも大切にしている本は、ロバート・フロスト著『聖霊の現われ』(「生ける水の川」翻訳委員会訳、1965年。 Robert C. Frost, Aglow with The Spirit. N.J., Logos International Plainfield, 1965.)である。著者は、あの詩人のロバート・フロストではなく、カリフォルニア大学の生物学の教授であった。新書版くらいの小さな本であるが、そこには異言に関する貴重な考察がなされていて、今でも私はこの本を異言体験の教科書にしている。
  異言体験そのものについては、日本でも、『リバイバル新聞』やその他の雑誌でいろいろ報じられている。しかしその割には、異言に関するまとまった本はまだでていないようである。私のあげた本を見て、聖霊運動に詳しい方は、「なんだこんなに少ない本しか持っていないのか」と思われるかもしれない。しかし、日本人の書いた聖霊体験や異言に関する本は意外なほど少ないというのが私の実感である。私が異言について書いてみようと思ったのは、一つにはこういう事情があるからからかもしれない。
 他人の異言体験や聖霊体験を聞くときでも、自分自身のそれを語るときでもそうであるが、その人が実際に自分の内面で知り得たこと示されたことを語りながら、同時に誰かほかの人から与えられた知識や考察をこれに交えて話されると、はたしでどこまでが、その人本来の霊的な体験であり、御霊がその人自身に与えた知恵なのかが、聞いているほうで分からなくなってくることがある。説教壇の上から人々に語るときには、自分以外の人たちから得た知識や学問的な考察が役立つこともあろう。しかし、自分の聖霊体験を語るときには、他人のそれを鵜呑みにして、軽々しく自分に当てはめてはいけない。むしろ、そういう「予備知識」はないほうが良いとさえ言える。
  わたし自身も経験したことであるが、誰かにその人の信仰なり霊的な体験なりを証ししてほしいと頼むと、その人自身の内面的な体験を語る代わりに、自分が人から聞いたり学んだりしたことを語り出す人がいる。極端な場合には、前もって準備した知識を披露する人さえある。こういう人たちは、信仰や聖霊体験とは、知識として学んだり、本を読んだりしただけでは得られるものでないことに気がつかないか、あるいは、自分に与えられたせっかくの御霊の体験が、あまり価値がないと思い込んで、それだけでは値打ちがないから、自分で勉強して聖霊の働きを「補強」してより立派に見せなければならいと思っているかのどちらかである。これでは、せっかくその人を通して御霊が「働こう」としても、当の本人が自分に宿る御霊を信じていないか、自分のほうが御霊ご自身より賢いと思いこんで、自分なりの御霊体験を排除しているわけだから、御霊はその人を通じて「働く」ことができない。だから、私が自分の聖霊体験を語る場合も、聖霊に「関する」知識に、とりわけ自分とは全く異なる状況で語られている外国の知識や体験談にあまりとらわれる必要がないと思っている。
  なによりも、私をしてこういう本を書こうと思い立たせたのは、45年余にわたる私たち夫婦の異言体験から得た恵みをできるだけ多くの人たちと分かち合いたい。すでに異言体験をされている人たちとの交わりはもとより、そうでない信仰者たちとも、さらには聖書やキリスト教についてなにも知らない人たちとも、この恵みを分かち合いたいという願いからである。異言については今なおいろいろな反対論があり、それも誤解に基づくものが少なくない。ただし、インターネットで見た限りでは、異言に対する批判や非難は、意外にも日本よりアメリカでのほうが強いようである。そういう反対論の「火に油を注ぐ」結果になるのか? それとも理解を深めることができるのか? いささか不安がないとは言えないが、とにかくやってみよう、こう思った次第である。

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