縁なき者

「かつては、あなたがたも、縁なき者として心のうちに敵意を抱き、悪いおこないをしていたのに、今は、み子の死により、その肉の体にあって和解し、み前に無垢無傷(むくむきず)な者とされて捧げられている。」(コロサイ書1章21節〜23節)
                                (1)
  満3歳の時に母を亡くした私に、新しい母が与えられたのは小学校2年の時であった。継母は熱心な浄土真宗の信者で、その母から私は、毎朝仏壇の前でお経を朗唱するようにしつけられた。日本がアメリカとの戦争に突入したのは、私が小学校3年生の時であった。そして、中学(旧制)1年の時に敗戦を迎えた。国民学校(現在の小学校)から旧制中学を受験した時のことを今でもはっきりと覚えている。最後の面接の時に、試験官の中のある先生が、「君はなんのために中学を受けたのか」と訊いた。私はすかさず「天皇陛下のためです」と答えた。すると、その試験官は、「そうだ。中学の門は兵営の門に通じ、兵営の門は靖国の門に通じる」と告げた。中学を出たら軍隊に入り、戦死して靖国神社に祀られよ、という意味である。このように、小学校から中学にかけて私の受けた教育は、日本の歴史上でも最も軍国主義色の強いものであった。当時の軍国主義的な教育をそのまま受け入れた私は、中学校に入ってからは、毎朝軍人勅諭を家の外で朗唱することにしていた。
  夏休みをアルコール工場での勤労奉仕に過ごした直後、突然、ラジオを通じて「玉音放送」があるからというので、家族全員が古ぼけたラジオの前に集まった。私たちはここで、日本の敗戦を告知された。もっとも、感度の悪いラジオを通じて流れる天皇陛下のかすれた声だけでは、どのような内容なのかを理解することができなかったが、父が「負けたんだよ」と言うと母が泣き出したのを今でも覚えている。近所の人たちが、父のところへ、ほんとうに負けたんだろうかと確かめに来た。にわかに信じがたい。こんな思いが、誰の胸にもあったのだろう。
  夏休みが明けて、新学期が始まったときに、先生たちの態度には明らかに変化と戸惑いが読みとれた。「涙滂沱(ぼうだ)として滴る。」日本の敗戦をどのように受け止めたのか、その感想文を書いてくるように先生から言われて私が書いた文章のひとつがこれである。授業内容は文字通り一変した。変化はまず国史(現在の日本史)の教科書から始まった。夏休み前まで習っていた国史の教科書のほとんどどの頁からも、数カ所ずつ墨で塗りつぶす作業から新学期が始まったのである。この時私は、今まで自分の受けた教育が根底から誤りであったと教えられる体験をした。それまで正しいと教え込まれたことが、全部誤りであったと言われ、自分が信じてきたことが目の前で崩壊するというこの体験が中学1年生の子供にどのような影響を及ぼしたのか、今もって想像することが難しい。多かれ少なかれ、この出来事は、私たちの世代の原体験であり、それ以後の歩みの原風景となったと言ってもよい。もっともそこから引き出される結論は実に多様で、しばしば屈折し矛盾に満ちたものではあったが。
  これに続く数年間は、まさに激動の時代であった。ジープに乗ったアメリカ兵の姿が、私の住む北海道の片田舎の町に現れる頃には、人々はもう敗戦をそれなりに受け入れていた。日本の兵士たちが、戦場でどのように惨たらしい死に方をしていったのかを克明に描いた日本映画が、まばゆいばかりの豊かさを描き出すアメリカ映画と共に上映された。私はそのどちらも見て、そのどちらもそのままに受け入れた。若さというは不思議なものである。しかし、飛行機に爆弾を積んで死んでいった叔父のことを思う度に、誤った教えを信じるということが、どんなに恐ろしい結果を招くのか、また誤ったことを教えたり伝えたりすることが、いかに悲惨な結果をもたらすのか、このことを少年ながら身をもって知ることになったのである。
(2)
  私が初めて教会に足を運んだのは、1952年3月9日で、京都大学の2回生の時であった。大学の食堂で夕食をすませて下宿へ帰る途中、キリスト教を知ろうとしても案外機会がないものだなどと思いながら歩いていた。うすら寒い吉田山の麓のとある空地を通りかかった折、一人の外人の老婦人宣教師が、一枚のトラクトを手渡してくれた。トラクトの内容は忘れてしまったが、いくらかしょぼしょぼとした淡い澄んだ目と、早春の冷たい風に吹かれていた銀髪とを今でも覚えている。するとそのとき「キリスト教伝道集会」と書いた赤い十字架を記した張り紙が目にとまった。ポスターに誘われるままにその集会に立ち寄った。それは、北欧のペンテコステ系の宣教師さんたちによる集会であった。これを契機に、無料で英会話が学べるという実益も兼ねて! 北白川にある教会に通うようになり、その年の6月8日に、宣教師の導きで近くの川で浸礼によるバプテスマ(洗礼)を受けた。ある意味で、この出合いが、私の一生を定めてしまった。
  今にして思うと、その頃の日本は、敗戦の虚脱状態からようやく気をとり直して、復興への歩みを始めようとしている時であった。受験勉強と英会話に中学と高校を過してきた私には、その頃の日本が直面していた深い精神的苦悩も、十分には認識できなかった。だが、自分が最も親しかった六つ歳上の叔父が、まだ若くして(19歳)、台湾沖で、アメリカ軍の砲火を浴びて炎上する飛行機と共に死んでいったのを、目撃者の戦友が見たという話を心の底に押し込んだまゝ、英会話に熱中していたのも、国全体の精神的空洞を何とかして自分なりに埋めようともがいていたからかもしれない。一人の宣教師を通して与えられた一枚のトラクトは、ほんのゆきがかりの偶然とも言える事件であつたが、そこには、起るべくして起った運命的な出合いを感じさせるものがある。ともあれ、私とイエスとの出会いは、このようにして始まった。
  それ以来、ずいぶん種々の人から教えを受けて今日にいたっているが、そのひとりひとりを通じて導かれて来たのを思い返し、このように教え導いてくれたひとりひとりを思い浮べ、その顔のひとつひとつにキリストの面影を見るほどに、私をこれまで歩ましめた何かわからぬものの力をひしひしと覚えずにはおれない。
  あの老婦人宣教師が、私に一枚のトラクトを渡すためには、彼女を送り出してくれた遠い異国の名も知らぬ教会の人々がいたはずである。そして、キリストが、私に、あのように強く語りかけることができるためには、私自身の中に、死んでいった叔父のことや、あの戦いで生命を奪われていった無数の人々のうめきがなければならなかつた。こう考えると、今の私は、私であって私ではない。一人の魂が、この国でこの時に、キリストと出会うためには、その背後に、重く苦しい歴史の積み重なりがあったのを今にして想う。
(3)
  私が、アメリカやイギリスのことをはじめて意識し始めたのは、「鬼畜米英」という標語の中であった。ちょうど現在の交通安全の標語のように、短冊の形をした青い紙に白抜きでこう書いてあるのが、町のあちこちに貼ってあつた。「将兵をローラーでひいた鬼を撃て」というのもあった。戦争に負けて、こういう標語がすっかり姿を消した後でも、毎日のようにこれを見ながら学校へ通っていた私の心の中には、この言葉がじっとりとよどんでいた。「イエス・キリスト」という名前は、そういうわけで、私には、ある日突然その貼紙が裏返しになっていて、その上に書いてある文字のように感じられた。 
  敗北感、劣等意態、青年らしい憧れ、そんな気持の入り混じった状態で、自信に満ちて語る宣教師の□からでる「ジーサス」という言葉を私は聞いていた。「ジーサス」に対する、私の憧れと賛美の裏には、暗く冷たい憎悪の目もまた光っていた。その憎悪は、宣教師に向けられることもあつたし、よりしばしば自分自身に向けられることもあった。こういうわけで、この名が、私の心の中に入って来るまでには、しばしばいばらの冠をかぶせられて、嘲笑されたり、なぐられたりしなければならなかつた。それでも、この名は、じつと私の迫害に耐えて、徐々に、深く心の中にしみ込んで来たのである。
  こうして、伝える側の選民意識と伝えられる側の劣等意義との間にめぐらされた敵意という垣根を越えて、この名は、民から民へと、十字架されては、結局これに打勝って、歴史の中を歩んで来たのではなかったろうか。イエスの福音は、何時の時代にも、有縁の者から無縁の者へと流れてゆく。だが、その度に、この敵意といういばらの垣根をくぐり抜けてゆかねばならなかつた。よかれ悪しかれ、歴史というものが、このような糸で織られてゆく以上、私もまた、誰が何と言おうとこれだけはどうにもならないという、何かそんなものに押し出されていたのを感じるのである。
(4)
  私が入信して、第一にぶっかったのは「罪」という言葉であった。当時私は大学生で、ご多分にもれず、世界情勢だとか破防法(破壊防止法案)だとか、キェルケゴールやサルトルの「実存」だとかの主義主張が渦巻く中で、志士を気取って、頭の中に自分が安住できる言葉で砂の家を建ててはこわし、こわしてはまた建てて、得意になつたり沈んだりしながら、真理とは何か真実とはどこにあるのかなどと語り合ったり思い悩んだりしていた。私にとって、問題はしごく単純であった。これほど真剣に求めているのだから、いつか必ず真理に出合うに違いない。それに出合った時、それは自分のものになるはずであった。そういう確信めいた希望を抱いて、自分の「真剣さ」に半ば感激していたのである。
  このような私に、確信に満ちて語られる聖書の言葉は、まさしく天啓のようであった。入れかわり語る宣教師たちの言葉を、わかったようなわからないような気持で、それでいて何かしら感激して聞いた後で、四畳半の下宿に帰り、明かりをつけて、ポケット版の聖書を広げ、ヨハネ伝の最初の一節を読んだ時の不思議な感動を今でも忘れることができない。 
  聖書こそまさしく求めていた真理を伝える書であるという確信が、それ以後私には動かしがたいものとなっていった。私にこのような確信を抱かせたのは、はじめて私に聖書を教えてくれたこれら宣教師の人たちが、いわゆるファンダメンタリストで、聖書の一言一句をそのまま神の言葉、神の直接の啓示によって書かれたものであると堅く信じ、かつその信仰を、北欧人特有の素朴な生活態度で実践している人々だったからであろう。豪華な車を乗りまわし、ぜいたくな生活をしていた勝利者気分の宣教師にみられるところは、彼等には少しもなかった。少くとも、この人たちは、キリストや聖書について長々と論じたり、またそういうやり方で私たちを説得しようとはしなかった。彼等は、単純卒直に、聖書をそのまま語ってくれた。もしも彼等が、「智恵や知識の言葉」でまくし立てるの聞いたら、私の中にある様々の概念や言葉が、猛然とかみついていったであろう。こういう人たちに聖書の手引をしてもらったことを、私は今でも幸せであったと思っている。
  この聖書を与えられて、私は、いわば一つのより所を掴んだ。この岩の上に自分の城を築くべく私は勇み立った。ついに真理は自分のものになった、という気持がこみ上げて来た。私は、この岩の上に、私自身が住まう自分なりの「キリスト教」という城を建てさえすればよいのだ。岩の上に建つ家は決して倒れることがない、というマタイ伝の言葉は、私のこの確信と勇気を一層強めてくれた。私は、それまでに聞き噛った言葉や、新らしく習い覚えた用語を総動員して、嬉々として自分の城の構築に没頭した。
  しかし、聖書の言葉とは裏腹に、岩の上に建っているはずの私の家は、風が吹く度に倒れた。その度にやっきになって、あっちを補強したりこっちを修理したりしたが、ようやく出来上ったと思ったとたんに、ぐらつき出してこわれてしまうのであつた。そんなことをくり返しているうちに、私の聖書は、だんだんと一つの姿、イエスの姿を私にあらわしてくるようになった。それまで、漠然と頭の中で、キリスト教の始祖としてしか考えていなかったキリスト・イエスの姿が、不思議な輝きを帯びた存在として、私の読む聖書の上にほのかに映じてくるのを感じ始めた。私は、「信じる」という、これまで幾度聞いてもわからなかった言葉の意味が、ある手ごたえをもって胸に迫るのを感じ始めた。このイエスの姿は、私のこしらえた「思想大系」が崩れ去っても、雲間からもれる月光のように変らなかつた。
  こうしてイエスを知るようになっても、心の中は依然として快晴とはいえなかつた。聖書を通して知り、祈りをこめて見るそのみ姿は、私にはこよなく尊くうるわしく見えた。知らず知らずのうちに、私はそこに、人間の理想像、というよりは自分自身の理想像を重ねるようになっていた。イエスは不思議な鏡であった。この顔に映して見ると、私自身の姿も私の周囲もうるわしく輝くのであった。時には現実がそんなに美くしいのであろうかとふり返って見るほどであった。だが、この新らしい己を見て、この「キリストにある自分」を追い求めるほどに、私はだんだんといらだちを覚えてくるのを感じた。そこに映じる己が、現実とあまりにも違いすぎるからである。こんなはずはないと、私はあわてざるをえなかつた。かつての私には、理想や真理とは、見出せばすぐ手に入れることができるものであつた。真理が目前にありながら、それが自分のものにはならない、あるいはそれに自分が与ることができないなどということは、全く予想しない事態であつた。
  「そんなはずはない」という私の自信とプライドは、このようなギャップをなかなか認めようとはしなかつた。私は、それこそ全身の力をふりしぼって見たが、何度やってみても、否、やればやるほど、イエスにあらわれた理想像と、私の現実との間の溝は、埋まるどころかますますはっきりと覆い難くその亀裂を露呈してくるのであった。暗い重苦しい沈黙が、鉛のように私の心の底に沈んでいった。結局、私のイエスは、現実には存在しえない架空の夢にすぎないのだろうか、という疑念にさいなまれながら、講義への往き帰りなどよく吉田山をさまよつた。
(5)
  私の下宿は、真如堂から黒谷の北門に通じている、いくらか建てこんではいたが静かな通りにあって、窓からは吉田山の南端がよく見える所にあり、そこから神楽坂のにぎやかな商店街へと降りて行くようになっていた。夜更けて人通りがなくなると、時折やき芋の笛が通り過ぎたり、かん高い下駄の音に混じって、美しい京ことばが聞こえて来るような所であったが、そんな音を開きながらも、私の目は、パウロの叫びを、改めて自身自身のものと感じつつ追っていた。

 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。(ロマ書7章)

  私は、次第に、福音の最も根本的な問題の一つ、「罪」の問題に目覚めさせられていったのである。この「罪」という一言をたぐるにつれ、「霊」、「肉」、「キリストの御霊」というような言葉が、次々と目前にあらわれで来た。あの現実離れした鏡の仕掛けがだんだんとおぼろげながらその中身を見せはじめた。なぜこの醜いはずの自分が、キリストにあって、あんなに美しく見えるのだろう。何よりも、どうすればこのイエスのみ姿を自分のものにすることが出来るのだろう。この思いにつき上げられて、私は、一歩一歩と十字架のイエスの下に連れてゆかれて、そのうるわしさの裏に潜む、深くおごそかな神秘へと引き寄せられていったのである。
  私は、イエスのうちに自分の理想の姿を見たのと同じように、その裏側に、私自身の現実の姿が、深くおそろしい自分の姿が、十字架されて潜んでいるのを認めるようになった。それは、自分自身が、思わず、ノーと言わずにおれないような醜さをもって、私に迫るものであった。そして、この十字架されたイエスの中に、実在の自分のあるがままのぎりぎりの醜さと罪深さとを見つめる時に、その時にのみ、その上に現映するのが、あの不思議な美しさだったのである。それは、現実離れの空想が生み出したものではなく、自己の奥にひそむ罪業のぎりぎりの己を十字架されたイエスと重ねて、自分自身が、そのような姿にさせられた時に霊現する、新らしい己の姿だった。なぜ、かくもうるわしい蓮が、罪の泥沼に咲くのかはさだかではないが、確かにそれは、何かそのようなものである。己の奥深い現実に目覚めてゆく時にのみ開けてくる、それは復活の白百合だった。
 敵意を抱いた一人の傲慢な人間が、キリストのみもとにひかれてゆき、その十字架の死を通して、あるがままの人間存在の根源おいて、すなわち「肉の体」において、神からの新らしい霊衣をまとうということが、このようにして起っていった。
戻る