小事を大事に
(1)
  私たちは、大きな集会や霊的に燃えた集会に出席すると、そこで語られるメッセージや証言などがいかにも勇ましく、大胆に信じて思い切った行動を起こすことで、大きなことを成し遂げたと語られるのを聞く。そんなメッセージや証しを聞いていると、それらしい神の業を何一つしていない自分が、いかにも不甲斐なく、自分の信仰がいかに足りないかを思い知らされることになる。しかし、私がそういう大集会に出るのを止めて、いわば自分ひとりでこつこつと、「いかにも不甲斐なく、いかにも足りない」信仰の道を日常生活の中で歩んでいるうちに、そういう「乏しい」信仰や祈りでも、それなりに御霊は働いてくださって、自分なりに結構大切な御霊の業に与ることができた。以下に述べるのは、そういう私個人の体験談である。 
  私は、御霊の導きというものは、基本的には個人的なものであると思っている。ここで「個人的」と言うのは、英語で言うなら「インディヴィデュアル」のほうではなくて「パーソナル」にあたるほうである。だからそれには、「その人だけ」という意味と同時に「人格的」という意味も含まれている。聖霊は神の霊であり、しかもイエス・キリストのみ名によって臨むから、全人格的な存在として、すなわちひとりの「お方」として私たちに接する。先の章で述べたように、聖書のお言葉を読み、主のみ顔を仰ぎ、主のみ声を聞き取ろうとするなかで、だんだんとそういう個人的・人格的な御霊の交わりに、私自信も引き入れられるのを覚えるようになっていった。では、御霊が個人的(パーソナル)に働くというのは、具体的にどういうことを意味するのだろうか?
(2)
  私の場合、個人的な御霊の働きは、まず「ささいなこと」から始まった。つまり、日常のごく小さなことについて、主の御霊の導きを祈り求め始めたのである。私たちは、普段の生活の中で、ちょっとしたことでいろいろな選択をしたり判断を下したりしなければならない。そんなときに、「自分で判断して」決めないで、祈ることで御霊の導きを求める。ただそれだけのことである。
  ここで断っておきたいのは、「ごくささいなこと」と言っても、こと信仰に関する限り、小さなことであっても大きなことであっても、信仰によって祈り求める姿勢そのものは本質的に変わらないことである。病気の癒しの場合、大病の癒しを祈り求めるのに心を傾けて祈ることが必要なのは、誰でも納得するだろう。しかし、小さな頭痛なら、適度に小さな祈りで癒されると考えるのは間違いである。どんなに軽い病気でも、神様からの癒しは、心を尽くした祈りによって与えられることに変わりはない。主に祈り求める信仰それ自体は、ことが大きくても小さくても基本的に変わらないのである。このことは、たとえ小さな罪でも、心から悔い改めないならば、神の赦しは与えられないだろうし、逆に大きな罪であっても、心から悔い改めるなら、主はその人に赦しをお与えになるのと同じである。
  小事を主に委ねることができない人は、大事を委ねることができると思ってはならない。やってみればすぐわかることであるが、日常のちょとしたことや対人関係でも、これを主にお委ねするのは案外難しいものである。自分の考えや判断だけに頼らず、主にお委ねしようとすると、「はたして大丈夫だろうか?」という疑念や不安が心にわき上がるのを抑えることができない。そんな時私たちは、自分というものが、いかに不信仰な存在であったかを改めて発見する。「自分の考えに頼らない」ことから来る疑念の中で、御霊の助けによってあえて主に委ねる、これが結構勇気の要ることで、そのことが、信仰の歩みの大事な1歩だということを悟ること、これが「小さなこと」から始める理由である。
  なぜなら、たとえ小さくても、そういう選択をするためには、あなたは祈らなければならなくなるだろうし、祈れば主は必ず、あなたの祈りに応じて、導いてくださるからである。大きなことばかりを聞かされて、自分はいかにも信仰が足りないと思いこんでいるクリスチャンは、一度そういう「大それたこと」を忘れて、小さな信仰しかない自分の小さなことに目を向けてみることをお勧めする。
 たとえささいなことでも、自分で祈り、その結果が与えられたなら、あなたは、それまで、本で読んだり証しを聞いたりしても、「人ごと」だと感じていたことが、自分の身に実現することを知って、御霊の主がほんとうに「この自分を」導いていてくださるのだと「大発見」をするのである。これが私の言う「個人的」な体験の意味である。信仰とは、自分と主イエスとの間の人格的な信頼関係のことであり、その信頼関係をつくりだしてくれるものこそ、「御霊の働き」にほかならない。
(3)
  私が個人的な体験(霊験)をお勧めする理由はほかにもある。個人的な事柄で祈る場合には、世界の平和だとか人類の幸せだとか、あるいは日本についての漠然とした祈りではなく、きわめて小さな具体的なことを祈ることが多い。こういう場合、自分の祈りがはたしてかなえられたかどうか、その答えが比較的容易に「自分の内面で」検証できるからである。
  ただし注意してほしいのは、自分で祈りがかなえられたと確認し納得することができても、それを人に語ってわかってもらおうとすると、おそらくはなかなか納得してもらえないだろうということである。試みに、祈りによって風邪が癒されたと、神様のことを何も知らない人に話してみるがよい。彼/彼女はなかなか信じないだろうし、あなたがなにかの風邪薬を飲んだりしていようものなら、どんなにひどい風邪が、祈りによって癒されたと証ししても、それは薬が効いたせいだと言われるのはまず間違いない。祈りが聞かれたかどうかを知るのは、信仰の問題であり、信仰とは私たちとイエス様との間の「個人的な」関係だからである。
  だから、祈りで与えられた「結果」が人に信仰をもたらすのではなく、その人の信仰が「結果」をもたらしたのである。結果はあなたの信仰がかなえられたという「しるし」である。「しるし」は、その意味を悟る人のためにあるのであって、その意味が分からない人には、なにも語らない。夜間にともる空港ランプの点滅は、その意味が分かるパイロットには死活問題であっても、乗っている乗客にはなにも語らないのと同じである。
 癌が治ったと証言して、治る以前のレントゲン写真と以後の写真とをふたつ並べて見せても、信じない人は信じないし、信じる人は信じるものである。そんなことはない。見れば必ず信じると主張する人ほど、見てもまず信じないと思うほうがいい。「しるし」はなにひとつ「証明」しない。逆に証明されるとすれば、それは「しるし」を見るひとりひとりの「心の中」のほうなのである。この場合、試されているのは、神様が祈りを聞いたかどうかではない。しるしを見ている人の心のほうが試されている。御霊にある信仰を働かせて祈りがかなえられるとはそういう「霊的な次元で悟る」ことだからである。
  さらにもう一つ加えるとすれば、祈りが自分自身に関わることであれば、その結果がどうなろうとも、人に迷惑を及ぼす心配がないことである。たとえば、霊的に示されたと言って、信仰の仲間たちの有り様を「品定め」するようなことは控えるほうがいい。他人の信仰は、その人と主との間の個人的な関係である。あなたが関与しなくても主が直接その人に語ってくださる。せいぜいその人のために密かに祈ってあげる程度にとどめておくほうがいい。
(4)
 日常生活に問題はいくらでもある。朝寝をして職場に遅れそうになった。自分に合わない人と一緒に仕事をする羽目になった。人と人との板挟みになった。もっと小さなこと、通勤電車はどれにするか? でもいいのである。
 一例をあげよう。私は京都から神戸まで2時間以上かけて通勤していた。その際に、バス、私鉄、JR、スクールバス、徒歩など、通勤の方法には幾通りもの組み合わせが可能になる。だから、出校の時間により、都合によって、いろいろに組み合わせを変えることになる。さて、今朝はどの組み合わせでどう行こうか? こんなささいなことでもいいのである。
  ある時、バスから降りて電車に乗ろうと駅へ向かっていた。すると、「急ぎなさい」という声が耳元で聞こえた。だが私は「気の迷いだろう」とその声に耳を傾けることをしなかった。いつものペースで歩いて階段を下りると、なんとわずか数秒のことで特急に乗り損なったのである。数日後に、再び同じ声がした。私は再びその声を無視した。すると同じように乗り損なった。その時はじめて、先に聞こえた声が、御霊の声であったことに気がついたのである。3度目に声が聞こえたときには、もう迷わなかった。私は大急ぎで階段を下りて、特急に間に合ったのある。
  これはほんの一例である。こういう小さなことからはじめて、御霊の導きを知り、従うことを学び、またそうするように自分を訓練すること、これがとても大事だということを知っていただきたい。言うまでもなく、間違いや自分の「思いこみ」の場合も多い。特に始めのうちは、10のうち7、8回はそういう場合があるというのが私の体験である。また、うっかりすると「御霊を試す」ことにもなりかねないという恐れもある。しかし、「偽物があるのなら本物があるはずだ」というパスカルの言葉もある。私がやったことは、御霊の導きと自分の思いこみとを区別するためであって、決して「御霊を試す」ためではない。その結果私は、自分の判断がいかに頼りなく当てにならないかを学んで、祈りをいっそう深めることになった。
  こういう体験を積み重ねていくうちに、なにか大きな問題にぶつかったときに、あなたはきっと、その大問題を主に委ねて、その結果主の導きを知ることができるようになる。人は多くの場合、なにか大きな難問題にぶつかって初めて主に真剣に祈り求めるものだ。しかし、そういう難問題に対処する心構えは、一朝一夕に生まれるはずもない。小さな積み重ねが大事を助ける。小事こそ大事なのだ。そういうとき他人の意見や、先輩に助言を求めるのはいいことだが、あなたが自分で祈って与えられる御霊の導きのほうが、はるかに大きな意味を持つ。このような訓練を積むならば、あなたは次第に、「自分の未来をある程度予知できる」という大きな御霊の働きを知るようになるからである。自分の行為がはたして正しかったのか? 自分の判断でよかったのか? こういう迷いや悩みに襲われたときに、自分なりの「小さな霊験」を積み重ねてきたことが、どんなに力と慰めと励ましを与えてくれることか。これだけでも、主イエスを信じる価値が十分にあると思うほどである。
  若い人が信仰を求める時に、人生いかに生きるべきか? 神の存在はどのようにして理解できるのか? など、とかく「大きな」問題を持ち出す傾向がある。しかし、そのような疑問や意見にいくら答えても、おそらくそれによって、彼自身が信仰に導かれることはまずない。なぜなら彼には、自分と神との関係を築くために、現在できること、今すぐにやることがあるからである。自分自身の「外側に」いて、一般論をいくら論じても、個人的な信仰にはつながらない。自分にできる小さな第一歩があることを知ること、その上でそのことを「実行する」こと。これが信じることの始めだからである。
 信仰とは実行の別名であり、実行は信じなければできるものではない。たとえ半信半疑でも、言われたとおりにしている間は、その人は言われた言葉を信じているのである。逆に、「はい」と言っておきながら、それを実行しないのは、言ってくれた人への礼儀のつもりだろうが、神様にはそんな礼儀は通用しない。神様でなくても、ちょっと経験のある人なら、あなたの「はい」になんの意味もないことをちゃんと見抜いている。だからあなたは、その人から2度と信用されない。なんのことはない。自分の不誠実をわざわざ告白しているようなものである。礼儀正しい不誠実よりも要領が悪い誠実のほうが、はるかに人生で得(徳?)をする。これがわからないことを「未熟」と言う。近頃はこういう「未熟な」若い人たちが多いから、注意するほうがいい。神様を「軽く」考えて侮ってはいけない。
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