公に語るまで
(1)
 1981年に私は不思議な夢を見た。祭壇の前に穀物を植えた木の箱が置いてあって、その前でひとりの人が自分の手首を切って血を流していた。彼は自分を少し傷つけすぎているようであった。穀物の箱とは豊穣を信じる「偶像の国」日本のことであり、手首を切る人とは、この自分の国を批判する者のことである。ただ彼はあまりにも厳しくその批判をおこなっているという意味だろう。神のため主のためには、バアル崇拝と戦うことが必要であろう。しかし、あまりに厳しすぎてはいけない。こういうことだと私は悟った。だがこの時点では、まだその夢の持つ意味をそれ以上深く考えることはしなかった。
 私には家庭と授業と研究と健康が与えられていた。そのどれにも問題がないわけではなかったが、とにかく愛と喜びと平安に満たされた日々を送ることができた。様々な欲を捨て去って、楽な心で主を喜ぶ。そういう私を御霊の主も喜んでいてくださることが、私にもだんだんわかってきた。これはとても大事な発見で、私は主の導きを深く感謝した。
 私は、聖書のお言葉をじっくりと語りながら、それを通じて御霊に満たされる集会を探り求めていた。だが、集会でこういう主の恵みをなんとか伝えたいと思っても、なかなかうまく伝わらないのである。日本人が聖霊に満たされて語るときの「語りのスタイル」がまだ確立していない。私はそう感じた。仏教での説法には、独特の語りのスタイルがある。落語や演歌が派生したその元となる語り方である。欧米の説教にも独特のスタイルがあって、鋭い風刺を効かせながら、たたみかけるように相手を説得するレトリックがある。語り方の違いは、日本語と英語とでは、そもそも発声の仕方が根本的に違うのだから当然であろう。「霊的に深く、知的に高く、聞く人に低く、真理に広く根ざして」語りたい。こんな願いをこめながら、メッセージの語り方を探っていた。
(2)
 1985年の夏、どういうわけかこの頃から、日本の民族主義の台頭に心が向き始めるようになった。特にこの年の8月、原爆と終戦の記念がめぐってくると、この国が再び核戦争の惨劇へと向かうのではないかという不安がよぎった。この国のとるべき唯一の平和への道とはなんだろう? 核の廃絶こそ、人類の夜明けを迎える人類の日出(ひいず)る国日本のとるべき道である。そんなことを思ううちに、自分の関心が日本の社会へ向けられていくのを覚えた。長距離通勤の車中は長かったから、私は新聞や雑誌や週刊誌を読み始めた。
 御霊の導きとはパーソナル(個人的・私的)なものであって、うかつにこれを他人にあてはめてはならない。そう考えていた私が、社会や国家にかかわる問題について発言するようになったそもそものきっかけは、日々の新聞を読んだり、自分が目撃する社会的な現象や世相を見ているうちに、それらの事の成り行きを「自分なりに予測」し始めたからである。ある事柄について、これは今にこうなるのではないか? あるいは、これはこういう点に原因があるのではないか? などと、自分なりの予測を立てたり推察することを私は意識的におこなった。こういう予測や推察を試みているうちに、私が予想したとおりの経過をたどったり、私の考えていたとおりのことが、新聞や雑誌などで、その道の専門家によって語られるのに気がつくようになった。これは将来こうなるのではないか? と私が考えていたことが、何年も後になって、その道の専門家が、その問題について、新しい発見であるかのように発言しているのを聞くことさえあった。
(3)
 このことに気づいてから、私は、社会や世相に注意しながら、自分の見解や洞察を「意図的に」試みることにした。はたして自分の判断が、識者の意見と一致するかどうかをチェックし始めたのである。その結果、新聞や雑誌で取り上げられている意見や解説を読みながら、「これは私が以前から考えていたこととぴったり一致する」「これの原因は、私が推察していたとおりだったのか」という発見がしばしばあった。そこで私は、御霊にあって与えられた自分の見方と、識者の発言とを符合させながら、改めて日本の社会を見つめ始めた。すると少なからぬ問題で両者が一致するのである。
 社会や世相に関する自分の視点や洞察を公に発言しよう。私は次第にそう考えるようになった。その際に私は、たとえ御霊の導きで「示された」ことであっても、それだけを根拠としないで、その道の専門家なり識者なりが、公におこなっている発言と符合するかどうかをチェックするように心がけた。その際に心したのは、専門家のことであって、必ずしもクリスチャンの意見ではない。自分がキリストを信じる者であるのなら、同じキリストを信じる者同士の見方が軌を一にするのは当然であり、同じような偏見にとらわれる危険があるのもまた自然なことである。だから、なるべく無宗教な人のほうがいい。そういう人の発言と自分の洞察とが一致することのほうが、はるかに信憑性が高い。私はこう判断した。
(4)
 1987年から3年間ほど、大阪の梅田にあるホテルで、市川喜一兄、久野晉良兄と共に伝道講演会を月に一度開き、その間、『アレーテイア』と題するパンフレットを発行した。このことが、私に講演会を開く決意を促した。1990年の11月、私は、コイノニア会の方々の協力を得て、公開の講演会を始めた。その際に取り上げたテーマは、少なくともひとり、できれば複数の識者たちと自分の考えとが一致した問題であった。講演会で話を聞いた人たちは、おそらく、私が新聞や雑誌などで論じられている話題を選んで、これを参考にしながら話をしていると思ったに違いない。ところが、実際はそうでなく、私が御霊に感じて世相を見たり、社会の問題や国際問題について判断したりしたことを、ほかの識者が公の場で同じ発言した場合に、その問題をとりあげて、講演会の話題としたのである。
 たとえば、「私人と個人」の場合がそうである。これは私が、自分なりに御霊にあって示されていたことであった。そこで、これを話題として取り上げようと思い、この問題について参考にする本がないかを探してみた。すると、なんと多くの識者たちが、これに関する発言をおこなっていたのだろうかと、私は改めて驚いた。言うまでもなく、中には私の考え方と対立するものもある。私は確信を深め、講演会でこれを取り上げることにした。
 このようにして、私は、御霊が個人的な問題についてその人に「示し」を与えるだけでなく、時には、社会、政治、経済、国際、教育などの公の問題についても語るように働きかけたり示したりしてくださることを知ったのである。御霊はあらゆる面で人を導き、その視野を広げてくださる。
 ただし、公の問題で公に発言する場合には、それなりの責任が伴う。自分に与えられた「御霊の示し」を、そのまま鵜呑みにしてはいけない。それがはたしてほんとうかどうかを、ほかの人たちの意見(この場合、その発言者がクリスチャンでないほうが望ましい)と符合させながら、それが「事実」に基づくのか、はたして正しいのかをチェックする心がけが必要であろう。だから私は、いわゆる「予言者」ではない。まして占い師ではない。この講演会は、年に1度の割合で10年ほど続いたが、その結果が『これからの日本とキリスト教』(2001年)と題する本となって出版された。この本は、『ハーザー』の書評欄で高く評価されたが、驚いたのは、これを読んだ『キリスト新聞』の編集長の方から、新聞の新年号(2002年)に「年頭の言葉」を書いてほしいという依頼を受けたことであった。
(5)
 外国から来た霊能の宣教師たちが、しばしば日本のことについて預言するのを私は知っている。この場合の「預言」は、現在と将来との二種類の事柄に関連している。預言ではしばしば現在と未来とが重なり合う場合がある。だから、「預言」は必ずしも「予言」ではない。外国から来た人の預言を私たちが判断する場合には、まず彼らが、日本の「現在の」事柄についてどう判断し、どんな預言をするかを注意して聞くことである。なぜなら、日本の現在については、彼らよりも私たちのほうが、はるかに正確に知っているからである。日本の現在について正確な判断を下すことができない人が、日本の将来を正しく預言できるはずがないのである。サマリアの女は、イエスが自分の過去を知り抜いていることを発見したとき、初めてイエスに向かって「あなたは預言者だ」と言ったのである。
 だから、たとえば彼らが、日本の仏教や神道について語ったり批判したりしても、注意して、はたして彼らの言うことがほんとうにそうかどうかを「自分で」判断するのを忘れてはならない。仏典を研究したことがないどころか、お寺を訪問したことさえないような人が、長い伝統を持つ日本の仏教についてどうして正しい判断ができるだろうか? これに反して、彼らが、自分の国のキリスト教について預言するのであれば、これは耳をそばだてて聞く価値がある。その信憑性は極めて高いからである。日本のクリスチャンにとって、それは得難い大事な御霊の知恵と知識になる。ところが、日本人の前で、自分の国のキリスト教について預言したり批判したりした宣教師を私はまだ知らない。残念である。
(6)
  預言の霊は預言者に従う。だから、神の聖霊によって語る場合でも、その預言は「その人の霊」と分かちがたく結びついている。聖霊は、その人が生まれ育った性質や霊性を無視して働くことはない。御霊は、人を通じて、個人的に働くからである。たとえ霊能者といえども人間である。だから語られたことを鵜呑みにしてはいけない。あなたが自分で判断し、自分で納得しなければ、受け入れてはならない。聖霊の世界で最も大切なこと、それは「霊的な民主主義」である。「民主主義」という言葉は、政治的に用いられるけれども、もしも霊的なことで民主主義の原理が働かないのであれば、民主主義はどの分野でも成立しない。これは日本にとどまらず、アメリカでもイギリスでも、どの国でも民族でも変わりがない。ある国がほんとうに民主主義を活かしているかどうかは、その国でおこなわれる霊的・宗教的な有り様を検討してみればわかる。ひとりひとりが、自分で判断し、自分で納得しているか? これがその民の霊的なレベルを測る尺度である。そうでなければ、どんなに組織として教団として発展したとしても、教祖様が変わっただけで、現在の日本に数多く存在している「ただの宗教団体」のひとつにすぎない。「信仰の自由」こそ、その民を活かし、その国を高める根である。神の聖霊は、その根を通じて人を育て花を咲かせ実を結ぶ。あなたは、国や教会や会社や家族の「手段」ではない。国家や会社や教会のほうが、あなたを育てる手段なのである。イエス・キリストの御霊を宿すということは、そういう「人格」を具えることを意味するのを忘れてはいけない。
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