第12章 御霊と聖書
1)霊的な聖書解釈を求めて
 1986年から1991年にかけては、私なりの聖書解釈の方法が形成された時期に当たる。その頃、アメリカの雑誌『タイムズ』で、アメリカで盛んになったテレビ伝道の特集を読む機会があった。オーラル・ロバーツたちに代表されるペンテコステ的な聖霊運動が、マスメディアを通して、ついにアメリカのキリスト教を変革する力を帯びてきたことをその記事は伝えていた。私は、ペンテコステ運動が、アメリカのキリスト教界でその正当性を認められてきたと判断した。
 私は同時に、自分の信仰の立場が、テレビのようなマスメディアを通しておこなわれる伝道方式とちょうど対極に位置することをはっきりと意識した。そして自分なりのミニ集会の視点から、こういうアメリカの、またやがては日本にも上陸するであろう、大衆聖霊伝道の現象を見つめていく必要を感じた。その頃、ハーヴェイ・コックスの『世俗都市の宗教』を読んで、改めて「ファンダメンタリズム」の特性について考えた。アメリカで盛んにおこなわれている御霊の大衆伝道とドイツの文献批評に基づく聖書神学のふたつを日本という場において融合させることができないだろうか。そこから、新たなより普遍的な福音的霊性を産み出すことができないだろうか。私はそんなことを考えるようになった。
 私の研究は、必ずしも一貫したものではなかったが、それでも根底には、上に述べたような問題意識が潜んでいた。それ以後、様々な分野の論文や著作に目を通したが、今思い返して、特に印象に残ったものの中から名をあげるとすれば、およそ次のようになるであろうか。
 英文学の研究で、私はルネサンスからギリシア思想へと領域を広げていった。ガスリーの『ギリシャ哲学』からプラトンの『ティマエウス』、プロティノスの『エネアデス』、フィチーノの『恋いの形而上学』や彼の「プラトンの『饗宴』への訳注」などを読み始めた。これらをスペンサーの『アモレッティと祝婚歌』や『プロサレイミオン』へと結びつけるためであり、そうすることで、プラトンからネオプラトニズムを経てルネサンス・ネオプラトニズムへ、さらにイギリスのルネサンスへつながる系譜をたどるためであった。
 文化人類学の分野では、インドネシアのセイラム島に伝わるハイヌウェレ神話を扱っている論文『殺された女神』やケレーニイの『神話学入門』から始めて、これをギリシア神話のデメーテールやペルセポネー神話と結びつけることを考えた。次第に豊穣神話と祭儀、女神の死にまつわる神話に潜む宗教的文化的な背景が見えてきた。猪野史子氏の「瓜子姫とハイヌウェレ神話」を読み、犠牲・処女・豊穣祭儀の三者の結び付きが日本でも行われていたことを知ったのもこの頃である。
 さらに、ノイマンの『グレート・マザー』や『アモールとプシュケー』、ユングの『元型論』や『ヨブへの答え』、また『ユングと聖書』などによって、人類学的な神話論が心理学へとつながり、それが文学的表象へとつながっているのを知った。エリアーデの『神話と夢想と秘義』やルネ・ジラールの『世の初めより隠されていたこと』などの一連の作品は、悪の根源にあるライバル意識としての模倣、暴力、競争の三角形、共同体の儀礼などについて教えてくれた。こうして天皇制と大嘗祭に含まれる秘義までもが次第に視野に入ってきた。私は図像・表象・シンボルとこれらの解釈が、霊的な聖書解釈に大きく関わってくるのを知った。
 一方、京都大学では、学生とミルの『自由論』を読み、甲南女子大の大学院ではミルトンの『楽園喪失』を読んでいた。ミルトンの壮大な宇宙観が、彼の『楽園喪失』も『楽園回復』を含めて、聖書的な御霊の働きへと収斂していくのを覚えた。自分の研究の対象が次第に重なり合ってくるにつれて、聖書神学と英文学との境界が消えていった。
 聖書神学の分野では、マーティン・ノートの『イスラエル史』やフォン・ラートの『旧約聖書神学』から始めて、ブルトマンの『共観福音書伝承史』や「ケーリュグマと神話」をまず読み、様式史に続いてノーマン・ペリンの『編集史とは何か』を読んだ。それからコンツエルマンの『時の中心』、荒井献の『新約聖書とグノーシス』へと進み、これらを霊的に関連づけようと試みた。こうして十字架の祭儀神学の全貌がだんだん明らかになってきた。聖書の歴史的文献批評は、一見すると従来の伝統的な聖書解釈、いわゆる「信仰に基づく字義どおりの」聖書解釈に対して破壊的な機能しか持たないように見えていた。しかし、文献批評は、聖書のテキスト形成の過程を解明することによって、御霊がどのようにして聖書の筆者たちを導いていったかというその過程を逆にたどる手がかりを与えてくれることが分かったのである。これは私にとって重大な「発見」であった。私は、その御霊による導きの過程を「造神話化」と呼ぶことにした。この語は、文学論などで使われている "mythopoeic process" "myth-making process"という語からとったものである。聖霊の働きが「造神話化」の過程としてようやく見えてきたのである。
 自分の考えている「造神話化」が神学的な土俵でも十分に通用するという確信が次第に深まってきた。ドイツの非神話化論、アメリカの聖霊派の神学、小池神学、これらに加えてノースロップ・フライの『偉大な表象体系』〔私訳〕を通じて聖書の言語的特徴とその解釈について大きな示唆を受けた。御霊の働きが言語の象徴性や比喩性とどうかかわるかをフライのものは教えてくれた。聖書に向けられた歴史的文献批評、図像の解釈、文学批評、非神話化、造神話化などについて考えるうちに、今自分は聖書解釈の最も大事な問題に直面しているのではないかとふと思ったりした。御霊と聖書神学、表象と霊的解釈との結びつきは、自分の聖書解釈の方法が、カトリックのそれと意外に近いのを覚えて不思議に思ったりもした。
 霊的象徴の世界と愛光無心の境地、これらが次第につながってきた。そしてとうとう、御霊の聖書解釈では、アメリカもドイツもわたしたちの模範ではないところまで来てしまった。もはや英文学も聖書神学もない。真っ直ぐに自分に与えられた道を歩むことだけがあった。私は、『光露』で「聖書を読む人のために」を連載し始めた。後の『聖霊に導かれて聖書を読む』である。
(2)風前の灯火
 私は、なによりも福音をまだ知らない人たちに、この御霊の愛と赦しを証ししたいと思っていた。しかもそれを、聖書のお言葉に基づきながら、普遍の真理として語りたい。こう願っていた。私の望みは新しい型で、異言、預言を伴う御霊の賜物を伝えることであり、集会のひとりひとりが、それぞれに主の御霊を証しする人に育つことであった。
 ところが、この願いとは裏腹に、聖書解釈の方法論に没頭している間に、集会に参加する人数が少なくなってきた。自分に開かれてきた聖書と聖霊の世界、これをどのようにすれば聴く人たちに伝えることができるだろうか。その道が逆に見えにくくなっていたのである。自分に与えられている御霊のすべてを含めながらしかも穏やかに語りたい。そう思うのだが、実際に語り出すと、言葉がうまく出ずに、声を張り上げたり大声で語りすぎたりするのであった。私は、自分に開けてくる御霊の霊境と語る相手の人たちとの間に横たわる溝の前で、ただ立ちつくしていた。だが不思議にも、自分の歩むべき方向にもう迷いはなくなった。あるがままの自分になんとなく自信が持てるようになってきた。神のみ子による大肯定。背中にその暖かさを感じたからである。
 主の御霊の御臨在を証しできればそれでよい。学問的知識を誇ることをせず、伝道の成果にこだわることもせず、集まってくる集会の兄弟や姉妹たちにあるがままの自分を御霊の証人として語る。自らに潜む罪を御霊によって照破され、愛光無心の境地に活きる。ただこれだけのことである。しかしその「ただこれだけ」がなかなか難しかった。
 み霊のバプテスマに与った者は、その後で、ひとりの個人として、どのような霊的成長の歩みをたどるべきなのだろうか? この点をしっかり見届けたい。これが自分に与えられた課題なのだと私は考えるようになった。不思議な優しい愛の御霊が働く。この頃、「按手」ということを示された。試みに自分の手を自分の頭に置くと激しく御霊が働く。だが、気負わず、逆らわず、御霊に楽に委ねる。これが事の成就する秘訣だと想った。ここで、どうしても加えておかなけれならないことがある。それは、妻久子の祈りである。ともすれば、自我を爆発させる自己発揚に陥りがちが私を抑えてくれたのは、妻久子である。彼女の祈りは、集会のみんなを深く包む不思議な導きとなった。日曜の朝ごとの二人の祈りは、夫婦が霊的に一つになる大事な一時(ひととき)であった。
 その頃の復活節で、聖餐と洗礼について集会の人たちに語り、洗礼と聖餐とはひとつながりのものであり、それが大切なことを納得してもらった。床の間には茶花が活けられていて、お言葉の掛け軸がかけられている。聖餐式のパンとワインのお皿と数個のグラス。座敷机を囲んで5、6人が集まる。あるのは聖書のお言葉と各自の証し、祈りと賛美。小さくて簡素の極致。
 ところが不思議にも、この時に新しいご夫妻が交わりに加わった。それでもふと、集会の在り方に自信がもてなくなり、どこか間違っているのではと不安に襲われた。その年のクリスマス集会は、2、3名であった。御霊の働きが失われているという想いに悩んだ。閉会して出直すほかない。こう思い始めたときに、さらに新たに学生たちが加わった。風前の灯火は、風が吹くと息を吹き返した。大切なのは、その時その時を主の御霊に委ねて生きることである。明日のことを思い煩わない。自我に死ぬ時に愛光春風の境地が開ける。知識や理論ではどうにもならない。大事なのは現実に働く不思議な御霊の力。これがなければ集会は成り立たない。何も要らない。無になる。ただ主の御霊にある喜びを証しする。それ以外はなんにも要らない。真の伝道の姿とはこういうもの。このことを悟った。
 この頃、日本の皇室の後ろに十字架の陰を見るというヴィジョンが与えられた。その2か月ほど後の1989年1月、昭和天皇崩御。昭和から平成へと年号が変わった。アメリカでは、テレビ伝道がますます盛んにおこなわれるようになっていた。日本は土地バブルの絶頂。すでに凋落の兆しが見えても誰も気にしなかった。日本資本がマンハッタンのビルを買い占めているとアメリカの新聞が報じていた。
 そんな折りに、昔信仰を語り合い、今は立派な牧師、伝道者として活躍しているある牧師と出会い、神戸時代の人たちの福音伝道における目覚ましい活躍ぶりを知った。アメリカでの聖霊大集会が、いよいよ日本でも始まったのだ。旧知の信友のひとりも福音の仕事に専身することになった。大学の優秀な同僚が突然亡くなった。あれやこれやで、自分の内面が厳しく問われる事態になった。しかし、私には英文学者としての使命も与えられている。また世の職業に就く者として、プロの伝道者には見えない現実が見えている。あるがままの生活の中で御霊の導きを証ししよう。この確信は揺るがなかった。「伝道する」とは何か? キリスト者とは何か? この疑問を究極まで問い詰めたところに開ける世界は、生活を御霊の祈りとなすことであった。謙虚になって自分の体験を語ろう。この生き方の大切さを語ろう。これしか私の生きる道はない。こう私は思った。
                 【補遺】
■私の霊体体験
 わたしが御霊にある人間の有り様を祈り求め始めたのは、宣教師さんたちと分かれて、30歳を過ぎて自宅で夫婦二人で家庭集会を始めた頃からである。その頃小池達雄先生との出会いを通じて「無心」ということを学ぶようになって、ますます御霊の世界を祈り求めるようになった。傍(はた)からは、まるで瞑想しているように見えたであろう。その後、祈りを重ねていくうちに、主の御霊の御臨在が、主を信じる一人一人に授与される「霊の姿」を「霊の体」として覚知するようになってきた。70歳の定年を過ぎた頃のことである。こうして、わたしは、コイノニアの一人一人について、御霊の御臨在を祈り求めるようになり、御霊に導かれるままにこの祈りを続けるうちに、「霊の体」について深く思い巡らすようになった。
 2012年の9月、ふとした機会で受けた第二日赤病院の人間ドックで、超音波によって膀胱に腫瘍が発見され、続いて、右腎臓と膀胱をつなぐ尿管の両端に癌の腫瘍が発見され、生まれて初めて入院することになった。その頃コイノニア会の例会で、共観福音書講話の一環として、ペトロのメシア告白の後の「エリヤの到来」や「少年から悪霊を追い出す救い」でイエス様が「山を動かすほどの信仰」について語ったのを覚えている。
 2012年10月6日の未明、京都第二赤十字病院のB棟602号室で、前日から痛み出していた右脇腹に激痛を覚えてナースを呼んだ。たまたま、泌尿科の松ケ角(まつがすみ)医師が当直だったので、すぐ超音波で膀胱と腎臓を調べてもらことができ、その結果、右腎臓に水が溜まりすぎて、腎臓の腫瘍の跡から水(血の混じった?)が外へ漏れているのではないかと言われた。膀胱から尿の管をとりつけてもらうと、しばらくして痛みがやわらぎ、朝目を覚ましたときには痛みはすっかり取れていた。個室ではないものの、隣人が手術中なので、一人でベッドの上で仰向けになり、しばし祈ると、御栄光が顕われ、体中の病の霊力が抜けて行くのを覚えて、気持ちも体も腎臓も軽くなった。この時にはっきりと、御霊の働きが肉体を助ける働きをしていることを知って、霊体が肉体を生かして用いてくださることを確認し、確信できた。(2012年10月7日)
 *「霊体と肉体」については→聖書講話→パウロ補遺→霊体と肉体を参照。                     
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