私の異言体験
(1)
北欧の宣教師さんたちは、聖書を字義どおりに信じるいわゆる「ファンダメンタリズム」に立ちつつも、異言を伴う聖霊体験を重視する人たちであった。したがって、私たちも異言について聖書からいろいろ教えられた。ただその割には、一緒に祈る時に先生方が異言で祈るのを聞いた覚えがない。その頃、アッセンブリー教団の大きな集会に出席したが、そこでは、異言体験それ自体を求める「聖霊待望祈祷会」が持たれていた。
受洗した年の11月頃、たまたま書店でバルトの『ロマ書』上下2巻(吉村善夫訳)を見つけて、これを熱心に読んだ。ペンテコステとバルトの『ロマ書』というのは、今から思えば妙な組み合わせであったが、その頃の私にそんな区別のあろうはずもなく、聖書を学ぶというただそれだけの理由で読んでいた。
私は宣教師さんから異言の話を聞きながら、自分にも同じ体験が与えられると励まされるほどに、むしろ逆に、先生の語る異言の体験が何か無限に遠いところにあるような気持ちを抱き始め、その時の先生の顔が、自分とは別世界の人の顔のように映ったのを覚えている。
翌1953年の1月3日、同じミッションのヘイモネン先生に連れられて、教会の幾人かと生駒山にある聖書学院の新年集会に出席した。その頃は、デイヴィッド・クート師が学院長で、クート師の巧みな日本語による力強い説教を聞いた後で、学院の佐藤兄と一緒に裏山へ行って祈った。聖霊のバプテスマを求めて祈るのであるが、いっこうに聖霊の降る気配がなく、逆に胸が苦しくなってきた。とうとう全身の力が抜けてしまいそうになったその時に、口がこわばってものが言えなくなり、舌がラ、ラ、ラ、と言うばかりで、倒れて起きあがることもできなくなった。異言というのは、いざ自分に臨むとなかなか素直に従うのが難しいものだ。そんなやや苦しい思いを抱いて学院に戻った。
その2時間ほど後で祈祷会が持たれ、再び祈ると激しいショックがまた襲ってきた。今度はあきらめないでそのままがんばりとおすと、口から「ことば?」のようなものが出てきたのある。別の兄弟が私のそばに来て励ましてくれたが、私は腹の底がかき回されるようなショックに襲われて、自分でも何かわからない言葉を夢中になって語っていたのを覚えている。後で聞くと、私が語り終えたのは午後5時のことで、4時40分ごろから、はっきりとした異言が出たとその兄弟が告げてくれた。こうして私の異言の原体験が終わった。
(2)
御霊の体験を受けた後でまず感じたことは、何か不思議な力が自分自身の中からではなくて外から来ることであった。次に、聖霊のバプテスマを受けた後では、私の聖書に対する見方が変わったことである。それまでは遠い過去の言葉か、おとぎ話でも読むような気持ちで読んでいた聖書の言葉が、急に自分自身と結びつく現実の力を帯びてきたのである。しかし同時にその霊験が、なにかに「取り憑かれる」という事態とは、全く別の状態であることにも気がついていた。むしろ私自身が、自分に与えられた聖霊の働きに、それまで以上に努力して、意図的に従うことが求められているとさえ感じた。聖霊体験の前に、宣教師さんの教えを聞いて、聖書の言葉を読みこれに従おうと意図的に努力していたその同じ姿勢は、体験の後でも基本的に変わることがなかった。むしろ、自分自身の内に働く御霊であるが故に、いっそう強くその努力が求められているという意識を強くするのであった。いわゆる喜びと感謝に満たされた御霊の体験と言うよりは、むしろそのような御霊の働きに従おうとしてなお従い得ない自分自身のいたらなさをいっそう深く自覚してもがき苦しむ、そういう気持ちに陥ることさえしばしばあった。
宣教師の方々からは、しばしば感謝せよ賛美せよと言われたが、私の内では感謝や賛美よりも、むしろ聖霊の働きに徹することがいまだできないという悩みによって苦しむことのほうが多かった。ただし、聖書を読みたい、キリスト教についてもっと深く知りたいという飢え渇きだけはさらに強くなっていった。その頃私はパスカルの『パンセ』を読み始めた。夏休みに、北海道へ帰る車中で、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み終えたのもこの頃である。また内村鑑三の『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』を読んで、なるほど「異教徒」がクリスチャンになるのには、激しい悩みの体験を受けざるべからずとあるのはまことにその通りだと実感したのである。聖霊体験とは、異教国の日本人にとっては、アメリカやヨーロッパのクリスチャンたちが証しするようなスウィートな体験では決してない。むしろかなりハードな体験なのだな、こう思った。
私が「サタンの働き」ということを意識するようになっていったのもこの頃である。御霊を体験しながらいろいろなものを読んでいるうちに、私は、いわゆるキリスト教が、カトリックは別にして、プロテスタントでさえ単一なものではなく、バルト主義、ファンダメンタリズム、ペンテコステ的な聖霊派、そして無教会主義と、実にいろいろな教派や信仰のあり方が存在することに気が付いてきた。とにかく聖書を読もう、この思いだけが私を強くとらえた。こうして私は本格的にギリシア語の勉強を始めた。同時に無教会の藤井武全集を読み始めた。
(3)
私が異言を伴う聖霊体験をした頃は、こういう体験を人に語ると、ほとんどの人は、軽蔑しないまでもいぶかしげな顔つきになって、なにか奇妙な「霊」にでも取り憑かれたのではないか、あるいは少しおかしくなったのではないかとでも言いたげな様子をみせた。現在でも、この事情は、少なくとも一般の人たちに語る場合は、あまり変わっていないのではないか。たいていの人は、特に知的な人は、そういう「摩訶不思議(まかふしぎ)」な体験は、自分とは無縁な出来事だと、敬して近寄ろうとしない。聖書やキリスト教に無縁な人たちだけではない。クリスチャンでさえも、こういう態度をとる人が少なくない。そういう状況の中にいると、自分の体験が、特殊なこと、なにやら不思議なこと、特別の「奇跡」のように感じられるものである。異言の体験者は、だれでもこういう経験をお持ちではないだろうか。
ところがもう一方では、私の異言体験を聞いて、「なんだ、その程度のことか」と思う人たちも大勢いると私は考えている。ペンテコステ系の人たち、あるいは聖霊運動にたずさわっている人たちから見れば、私の体験などは、初歩のまた初歩、英語で言えば中学一年の一学期のレベルくらいにしか思われないであろう。聖霊体験を語った本は、アメリカを中心にいろいろでているが、これらの事例を読んでみると、とても信じられないような出来事がいくらでも書かれている。そういう奇跡的な出来事を日常に体験している人から見れば、異言を語ることなど朝コーヒーを飲むのと同じくらいありふれた「ごく普通の」出来事なのである。こうなると、自分の体験などは「まだまだ低レベルだ」と思うようになる。「異常」と「低レベル」とのこの奇妙なアンバランスは、多かれ少なかれ、日本人のごく普通の生活をしている異言体験者に共通するのではないかと思う。
この事情は、異言に限らず、聖霊体験とこれに類する病気の癒しなどの場合でも同様である。一例をあげると、私は、自分の勤めている大学の学生3人を連れて、ベニー・ヒン師の神戸大会に出席した。数千人が集まった会場では、合唱あり、説教あり、賛美ありで、最後にヒン師が、全員に祈りに加わるよう求めた。師はこの時に、特に病気の人たちに呼びかけて、それぞれが自分の患部に手を当てて祈るよう求めていた。祈り終えてから、癒しを体験した人たちは、講壇のほうへ出てくるように指示すると、大勢の人たちが出てきた。師は、そのひとりひとりに、どこがどのように癒されたのかを尋ね、はたして本当かどうかを実際にやって見せるよう求めた。耳の聞こえなかった人には、その聞こえなかった耳の側で指を鳴らしたり、歩けなかった人には、実際に歩いたり走ったりさせた。言うまでもなく大勢の観衆の目の前でおこなったのである。
私はそういう癒しを見ても特別の驚きも感慨も覚えなかった。過去に幾度もそのような集会を経験していたし、自分自身、説教者の通訳をした経験があったから、その日も当然そのような祈りが行われ、神癒が起きることを予想していたからである。誤解を恐れずに言えば、「今日は癒された人の数が、いつもより少し少ないな」と感じた集会の先生方もおられたのではないだろうか? ペンテコステの先生たちにとって、病気の癒しは、それほど日常的な出来事で、今更驚いたり不思議がったりするほどのことではないのだから。
集会から戻って、私はその学生たちに集会の感想を尋ねた。私が癒しのことに触れると、学生の一人が「あれはもちろんヤラセですよね」とさも当然だという様子で言ったのである。私は一瞬絶句した。数千人の会衆の見ている前で、何十人かの人を雇って、治りもしていない病気を治ったように見せかける、そんなことが外国から来たばかりの宣教師にできるのか? という疑問は彼女に湧かなかったようである。しかし彼女の発言は、目の前で起こっている出来事が、彼女にとっていかに信じがたいことであったかを私に悟らせた。その学生の一言が、不思議に慣れてしまっていた私に、改めて癒しの不思議を思い起こさせてくれたのある。
これは病気癒しの例であるが、異言の場合でも、これと似た体験をすることが多い。自分の異言体験に対して、全く正反対の見方なり反応なりが与えられる。この奇妙なギャップ、あるいは落差は、日本で異言を体験した人が、日常の中で絶えず感じさせられる経験である。異言を「摩訶不思議な」特別の出来事だと思うこと。逆にこれを「レベルの低い」賜物だと見なすこと。実は、このどちらの態度も誤っている。少なくともそれらの見方には、大事なものが見落とされている。このことが、私に分かるまでには、かなりの時間を要したのである。