異言と異言語
(1) 異言は「ことば」か?
  異言を最初に語るきっかけは実に多様で、これを一般化することはできない。かつて私が一緒に伝道していた宣教師さんは、寝ていて夢の中で異言を語っていて、目が覚めたら本当に異言がでていたそうである。私の場合、自分では比較的「難産」だったと思っているが、それでもかなり早い時期に異言が与えられたと言えよう。一方では、洗礼を受けてかなり長い期間を経てから異言体験をする人もいる。ただ一つ私が確信していること、それは、人によって難易あり早い遅いがあるものの、この賜物を祈り求める人には、早晩必ず与えられることである(ルカ福音書11章8言は洗礼と並んで、主を信じる者は誰にでも与えられる御霊の賜物と見なされていたと考えられる)。
  最初に異言を体験する人は、かなり強い霊的な力に突き動かされて、舌がもつれ、ル、ル、ルというように舌が振動してものが言えなくなり、それでもなお続けると、叫びのような「産声」ともとれる発声がでることがある。だが、この段階の異言を普段の祈りで続けるうちに、やがてはっきりとした音声となってでてくるようになる。
  ここで問題なのは、いったい異言は「言葉」なのかという疑問である。古代では異言は「天使の言葉」と見なされる場合もあったようで、第二コリント12章4節で、パウロが「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉」を語った人がいたと述べているのは、異言を指しているという解釈がある。これが異言を指すのかどうか確かなことは言えないが、仮に異言でもいいほどの体験を指していると思われる。だからこれは一般化できない。 また、異言は語られるその場の人には理解できなくても、世界のどこかには、その言葉が分かる人がいるに違いないと考える人たちもいたようであるが、現代では、この考えは認められていない。ただ、こういういわば「ひいきの引き倒し」が、逆に異言に対して懐疑的な見方を生じさせる場合がある。確かに異言は翻訳できない。だがそれゆえ「偽物」だということにはならない。
  なぜなら、はっきりとした異言には、(1)あきらかに「音節」がある。つまり「音」ではない。(2)さらにこれらの音節が、「抑揚」すなわちイントネーションを伴っている。(3)その上、「全く意味がない」どころか、語っている本人には(そしておそらくこれを聞いている人にも)、霊的精神的に語りかける「ひびき」を覚える。
 多くの異言もそうだと思うが、私の体験する異言の響きは、慰め、感謝、そして何よりも「祈願」と「執り成し」(英語のsupplication)の響き(echo)を伴っている。パウロが「霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成しでくださる」(ローマ8章26節)と言うとき、彼はおそらく異言のこのような「うめき」にも似たひびきを指していたのではないかと私は考えている。ヨーロッパ中世の教会音楽や合唱などを聴いているとき、あるはバッハのカンタータやオルガン曲を聴いているとき、私は、時折こういう「異言の響き」を直感して、キリスト教音楽の源流には、初代教会の異言の響きがあるのではないかと思うことがある。音楽が「言葉」であるという意味でなら、異言は確かに「言葉」である。
(2)異言を解く
 先に異言は翻訳不可能であると言ったが、「翻訳」は不可能でも「解釈」は可能だと言ったら、読者の方は驚くだろうか。パウロは「異言を解釈する力」について語っている(第一コリント12章10節)が、このような現象は「異言を解く」とも言われている。異言を解く場合には、幾つかの異なるタイプがある。
(1)自分で自分の異言を解く場合。異言を長い間語っていると、時折、異言の後ではっきりとした日本語がでてくることがある。この場合の日本語は、「自分で語る」のではない。異言を生じているのと全く同じ「舌の語り」が、日本語に変化するのである。だから、語る本人には、今までの異言とその日本語とが、別個に与えられたものではなく、異言が日本語で「解かれた」と感じる。ただし、自分でも不確かな場合がある。その「不確かさ」は、異言と解かれた日本語との関係に向けられる疑念ではなく、語られる日本語が、はたして異言の霊的な働きそのままのものかどうかという疑念である。これは、やはり自分が無意識に「語ろうとして」語っているのではないか? こういう疑念を持つ場合がある。だから、自分で異言を解いた場合は、おそらくそのうちの七、八回は、本来の意味で「異言を解いた」のではなく、自分の意識がなにがしか入り込んでいる。こう私は考えている。
(2)ある人の語った異言をほかの人が解く場合がある。私が、イギリスのエディンバラへ留学していた頃、エディンバラにあるペンテコステ系の教会へ通っていた。教会の建物は石造りで、17世紀頃からのものらしく、ジョン・ノックスがそこで説教してもおかしくないほどの風格を感じさせた。信者の祈り方にもその生活態度にもさすがにスコットランドの宗教改革の伝統を感じさせるものがあった。礼拝は静かで、堅苦しさこそないものの騒がしいところも派手なところもなかった。
 ある日曜礼拝の時に、集会の終わり近く、前のほうに座っていたひとりの男性が、つと立ち上がって異言を語った。異言はあまり長くなかったと記憶している。すると今度は、別の並びで後ろのほうにいた女性が、立ち上がって英語で語り始めたのである。教会に真剣さが欠けているという意味のやや厳しい内容であったと記憶している。参列していたかなりの人数の人たちが、驚く様子もなく静かにその異言とこれの「解釈」を聞いている様子から、こういうことが初めてではないのがうかがわれた。二人の一方が異言で語り、もう一人がこれを解くという現象を私が実際に目撃したのはこの一例だけである。ただしこの場合、その異言と英語の預言(?)とが相互に関連しているという証拠はない。なにしろ異言は誰にも理解できないのだから。
 次に私がフィンランドの宣教師ペルタリ先生から直接聞いた例をお話しする。この先生は、ヘルシンキ大学で英文学を専攻した方で、独身の女性の宣教師さんで、どちらかと言えば控えめな方であった。彼女が、フィンランド(クオピオ?)の自分の教会で起こった出来事を私に話してくれたことがある。
 ある日の夕方、教会の祈祷室で若い男性が祈っていたところ、そこへ若い女性が入ってきて、彼女も祈り始めた。かなり長い間二人はそこで祈っていたようである。祈りから帰ってから、その男性は、夕闇の中で自分が若い女性と一緒にいたことで、なんとなく気の咎めを感じていたらしい。ところが、次の集会の時に、その男性に異言が与えられた。すると、彼が異言を語り終えると、その二人の男女とは関係のない別の人に、異言を解く力が与えられて、「○○さん、あなたはこの間、○○さんと、とてもいい祈りの時を持ちましたね」と語ったのである。これを聞いたとき、その男性は、神が自分の気の咎めを知ってこれを取り除いてくださったことを悟った。
 先生のこの話は、直接自分の教会で起こったことなので、彼女の又聞きではない。したがって、私は、このとおりのことが本当に起こったと思っている。この場合は、先ほど私が目撃した場合と違って、語られる異言とこれが解かれることとの間に、「内容的に」明らかに関連性がある。したがって、この場合、語られた異言が「解かれた」ことが分かる。以上が、私の直接見聞きした異言を解く現象である。もっとも、これに類する話や事例を又聞きで聞いたり読んだりしたことなら幾らでもある。ただ私はこれまで、日本人の間で異言を解く現象が起こるのを目撃したことがない。これを読んでおられる方々の中には、「この程度のこと」ならすでに自分の教会で経験している、あるいは直接自分も体験したという人がおられるのではないだろうか。
(3)「異言語」を語る
 使徒言行録2章には、聖霊降臨の折りに、弟子たちが異言で語ると同時に、外国から来た人たちが理解できる外国語で語ったことが記されている。この場合弟子たちは、自分たちの全く知らない外国の言語を聖霊に満たされて語ったのであるから、これは「異言」とは区別して「異言語」で語ったと考えるべきである。「異言語」のことを「真性異言」と訳す場合があるが、これは超心理学の用語で、心霊の移動などに類する憑依によって未知の言語を語る現象を指すから、聖書が言う聖霊の働きによる「異言/異言語」現象を扱う用語としてこの訳語は適切でないと考える。「異言」が真性ではないという印象を与えるだけでなく、ギリシア語の「クセノグローサ」は「異(クセノ)+言語(グローサ)」のことである。だから、英語の「ゼノグローシア」ではなく、原語のまま「クセノグローサ」あるいは「異言語」と呼ぶほうが適切だと思う。私は、異言語を語るのを直接見たことは一度もない。唯一私が確かだと思うのは、かつて共に伝道していた宣教師さんから聞いた次の事例である。
 それは1960年代のことで、アメリカにトミー・ヒック(Tommy Hick?)というペンテコステ系の伝道者がいた。彼は、ソ連圏(現在のロシア圏)へ伝道するように御霊の導きを感じて、ロシア語圏へ行った。しかし、言葉が全く通じない。そこで、集まってきた人達の前で祈ると、突然異言が与えられて語りだした。するとこれを聞いていた聴衆はその意味が分かったのであろう、びっくりして、大勢の人たちが悔い改めてイエスを信じたというのである。この場合彼が語ったのは、「異言」ではなく「異言語」のロシア語であったと思われる。彼からこの話を聞いたとき、私はその宣教師さんに「あなたがアメリカにいたときに、そのことをトミー・ヒックさんから直接聞いたのか?」と念を押すと、彼は「そうだ」と答えた。にわかに信じがたいことであるが、聖書の事例もあり、またこれに類することを本では読んでいるから、私はこれが本当に起こったと思っている。
 ただし、この異言語について、このような現象が、はたしてキリスト教だけに見られるのだろうか? それとも他の宗教でもこれに似た現象があるのだろうか? という疑問がある。そんな疑問を抱いていたときに、関西テレビ(1994年4月23日)で、ある霊媒師について報道しているのが目にとまった。これは先に指摘した超心理で言う「真性言語」に属する憑依現象であろう。報道の内容はおよそ次のようなものであった。
 十和田湖の畔で、40年ほど前にダイナマイトによる心中事件があった。ところが、ある霊媒師が、彼女の霊視を通じてその時の音と男女の姿を知り、その場所を特定したのである。彼女が言い当てた場所は、心中を検視した医者の証言と一致していた。するとそのとき、テレビの取材班の前で、霊媒師に心中者の霊が降り、彼女は全く知らない方言で語りだし出した。それを録音したテレビの取材班は、「もじょっこい」という方言を頼りに、東北のきわめて限られた地方を確定することができた。その地方の人に霊媒師の語った録音を聞かせると、その霊媒師が語っているのは、「木造」という所で、ある父と母とが、ある神社を信仰していると言っているのを聞き取ってくれた。語った霊媒師のほうは、そのような方言もまた自分が語った内容も知らない。取材班が調査した結果、実際にその町で、昔ダイナマイト心中によって亡くなった男女の事件があったことが確認できて、その男女の身元を確認することができたのである(ただしプライバシーのためその部分は放送されなかった)。
 もしもこのテレビ報道が真実を取材したものであるのならば、この報道は、自分の知らない言語、すなわち「異言語を語る」という現象が現実に存在することを示すだけでなく、そのような現象が、キリスト教に限らないことを同時に示していると言えよう。ただし、現象が似ているからと言って、その霊的な現象の基となる霊的な性質それ自体が同じであると判断することはできない。この場合、現象あるいは外形が類似していることとその現象を成り立たせる内実が類似していることとをはっきり区別する必要がある。人は、顔が似ているからと言って、その性質も同じであると判断できないのと同じである。ちょうど癌細胞と健康な細胞のように、互いにそっくりでありながら、人体に対して全く正反対の働きをする場合もあるのだから。
(4)異言に対する偏見について
 現在我が国では、異言で語る人の数が増えてきて、大きな集会などで異言の祈りが聞かれることも珍しくなくなったようである。それでも、一般の人たちから見れば、異言はまだまだ「奇異な」現象と映るであろう。もっともこの事情は、日本に限らず、アメリカでも同様であろうし、パウロの時代でも事情はそれほど違っていなかったことがうかがわれる。私は、異言がこのように広がることを喜ばしいと思う半面で、異言を語らない人は言うまでもなく、語っている本人達でも、自分に与えられている賜物がどんなにすばらしいものなのか、またその賜物を活かして用いることが、信仰の成長にどんなに有益なのかを十分に認識していないのでないかという危惧を抱いている。
 私のホームページを通して知った限りでは、異言に対する誤解や偏見が、キリストの諸教会の中でさえもまだまだ根強く残っているようである。このためか、せっかく異言の賜を与えられているのに、その賜物を十分に活かすことができないでいる人たちがかなりいるのを実感している。そういう人たちは、自分に臨む御霊の恵みを人々に伝えることをためらったり、さらには、異言の賜物を過小に評価して、これを祈りのうちで深めることを躊躇しているのではないかと恐れる。「異言を語っても語らなくても、信仰的にはそれほど違いがない」という言い方は、これを語らない人が口にすれば、自分の知らないことを判断しているわけで、僭越の誹りを免れないであろうし、これを語っている人の口からでるのであれば、「それほど違わなく」しているのは、ほかならぬ語る本人自身であること知ってほしいのである。