オズボーン先生のこと
(1)
 先に述べたように、信仰に入った初期の頃、私は宣教師の人たちに教えを受けた。当時は多くの日本人がそうであったと思うが、私も外人に対しては、ある種の違和感や反感、さらには劣等感を抱いて、自分の気持をうまく表現できないもどかしさを感じていた。にもかかわらず、宣教師の方々と10年近くも交わりを続けることができたのは、「イエス様」という互いに共通する基盤があったからである。もっともその「イエス様」こそ、宣教師の方々から伝えられたのだから、これは共通の基盤と言うよりは、あちらの基盤に立っての交わりであった。しかし、若い私たちが、そのことをあまり不自然に感じなかったのは、思うに、その頃の日本全体が、まだあちらの基盤の上で外人と付き合い生活していたからかもしれない。もっとも、この基盤を少しでもこちらのものにして、ほんとうの意味で対等の立場に立って交わる日が来ることこそ、私たちの願いではあったが。
 そんなわけで、私たちが宣教師の方々と接する時には、はたしてこの人は私たちが心から自由で独立した日本人になるためにキリストを伝えてくれているのかどうかという視点から、一人一人の宣教師を評価する傾向があった。こういう姿勢はずいぶん意地が悪く、私などは、今から考えるとかなり失礼なことを言ったと冷汗が流れるのであるが、その頃の私には、そんな心づかいをする余裕もなかった。
 しかし、私が接する機会を得た宣教師の中で、ごく短い期間ではあったが、忘れ難い思い出を残してくれたご夫妻がいた。オズボーン先生はまだ若いアメリカ人で、しかも生粋の南部育ちであった。先生は、若くして(おそらく中学を出たくらいか)すでに伝道者になる決心をし、その道の訓練を受け、やがてキリストの霊的体験を与えられて、神の力によって病気を癒すという、いわゆる「神癒(しんゆ)伝道」を始めたのであった。こういう人であったから、先生には、特別にすぐれた学識も教養もなく、いわゆる「肩書き」もなかった。先生は、いかにもアメリカ人らしく、いくらかはにかんだところもあったが、快活で行動的で、やや面長で色が白く、澄んだ大きな目をしていた。言うまでなく、先生にも、アメリカ人特有の反共意識や大国意識、世界を股に掛けるアメリカ人という面もなくはなかった。このように、どこからどこまでアメリカ人であったけれども、かえってそれゆえに、私は先生との触れあいを通じて、感心させられ教えられるところが多かった。先生が、ごく普通の階層の良心的なアメリカ人であればこそ、そのかざり気のない姿が心を打つのであった。
 たとえば、先生は、アフリカ、タイ、ジャワ、南米、日本と方々の国々をまわってキリストを伝え病人のために祈ってやるのであった。私が特に強い印象を受けたのは、先生の火のような説教や熱烈な祈りもさることながら、そういう人々に接する先生の態度であった。先生が「フォークス」(民衆)という時には、それはつい数ケ月前に行っていたアフリカの黒人たちのことであり、ジヤワの民衆のことであり、現在目の前にいる日本の人々のことであった。私としては、自分がアフリカの黒人と同等に見られることは、日本人としてのプライドからあまり良い気がしないはずであった。ところが、先生と接していると、そういうわだかまりが少しも感じられず、きわめて自然にアフリカと日本とジャワとが私の心の中でも並ぶのであった。それでいて少しも見下されているという気持が起らないのは、おそらく先生の中では、本国のアメリカの「フォークス」も同じようにアフリカやアジアの民衆と重なり合っているにちがいなかった。
 こういう先生の態度は、先生の信仰のあり方とも深く結びついていた。私はいわゆる「神癒伝道」の是非をここで論じるつもりはない。私が打たれたのは、その伝道の底を流れる先生の原則とでも言うべきものであった。先生は、自分のやり方を私に理論づけて説明したりはしなかった。それは、いわば先生の身についたものであり、それだけに生きた見本として私の目に映じたのである。一口で言えば、先生のやり方は、聖書のお言葉を通じて、一人一人を徹頭徹尾イエス様ただおひとりに結びつけて、その交わりの中から直接にその人本人にキリストの力が注がれて病気が治るという方法であった。
 こういう伝道のあり方には、確かに日本人にはとっつきにくい、なじめないものがあった。第一いきなり聖書のお言葉をポンと与えられて、これに神があなたの病気を癒すと約束してあるのだから、信じればその場で病気が治ると言われても、聖書のお言葉が、神から与えられた深い霊的な言葉であるという信頼に支えられなければ、これを直接自分と結びつけて受け取ることは、一般の人たちには難しいことであった。
 さらに、より根本的に、「言葉」というものを通じて、神と人間とが、たがいに約束を交わすという契約に基づく信仰のあり方そのものが、私たち日本人には、リクツはともかく、実感としてピンとこないのである。病気がほんとうに治るかどうかということは、リクツだけではどうにもならないゴマカシのきかない信仰の問題である。それだけに、ひとりひとりが、裸の一個人として、神のお言葉に立って一対一で神と向き合うことが求められる。しかし、それなりの個性に支えられた人でなければ、これをすんなりとは受け入れられないのである。ところが、それだけの個性を持つ人は、かなり高い知性や教養を身につけた人たちが多く、しかも、そういう「レベルの高い」人たちは、神様が病気を治すということ自体が、根本的に疑問なのである。ハツキリ言って、こういう人たちには、それだけの信仰心が欠けているのである。
 一方では、素直に神様を信じて病気を治してもらおうとする単純で正直な「−般の人たち」には、一対一で神様と自分との個人的な交わりを確立するだけの勇気がなかなか湧いてこないのである。結果的には、先生の意図したこと、病気が治るという極めて直接的な体験を通じて一人一人をキリストとじかに結びつけようとする試みは、逆の結果をまねくおそれを含んでいたことになる。私たちは、知識と信心とが全く断絶してしまった日本社会の姿を見せつけられると同時に、アメリカ的なキリスト教、純粋で良い意味でのアメリカ的キリスト教が、この日本という異なる土壌に植えられようとする時に、どのような矛盾と限界とを呈するかをはっきりと見たように思う。
  とにかく先生の伝道は、そのスタートから非常な障害に直面した。先生は、宣教師とか牧師とかいう人たちは素通りしてしまって、直接「民衆」に、それもおよそキリスト教とか教会とかに縁のない市街を歩いている普通の人たちと結びつこうとしたのであったが、こういうやり方が、在日の宣教師から誤解を受ける一因となった。その上、先ずナントカ委員会を組織して地元の有力な教会にわたりをつけ、礼をつくし頭を下げてまわるようなことは一切やらず、いきなりストレートにぶつかってゆくやり方は、日本の牧師たちにとうてい受け入れられるものではなかった。こういうわけで、オズボーン先生の伝道は、時には千人近い人々をひきつけたこともあったが、ジャワやアフリカや南米でのように、幾万という人々を熱狂させることはこの国ではついになかったのである。
(2)
 それにもかかわらず、オズボーン先生ご夫妻と過ごした幾月かは、私にとって忘れ難い印象を残してくれた。先生をとりまく目は、必ずしも暖かいものばかりではなかったけれども、それゆえに、見栄も利得もなく、ただキリストだけを伝えようとする先生の姿は心を打つのであった。ワイシャツの袖を腕までまくり、片手に新約聖書を握りしめて、裸電球のぶら下っている荒けずりの材木で組んだ壇の上で、夏の夜空にひびけとばかり声をはりあげて説教をやるのであった。それは、教会堂とか牧師とか荘厳とか教養とか肩書きとかを背景にしたキリスト教のイメージとはおよそかけはなれたものであった。説教といっても、ある女が群衆にまぎれてイエスの衣のふさにさわったら、たちどころに病気が治ったというような福音書の話を、ほとんどそのまま、まるで自分がその場に居合わせて見てきたように真剣に語るのである。聞くほうも、ある者は地面にすわり、ある者は立ち、わざわざ遠くから来る人もあれば通りがかりに足をとめて聞く人もあるという風であった。道端で自転車にのったまま、片足を地面につけ、いまにも走り去るように見えながら、いつまでもじっと聞いている少年もいた。
 そういう先生と先生をとりまく人々の姿を見ているのは、それだけで何かしら感動させる情景であった。そこにいるのは、いわゆる上品できちんとした観衆ではなかった。学校でよくやる「話し合い」式の議論ばかりの「民主主義」ではなかった。神のお言葉を語るという最も権威ある人が(病気癒しなどということは、よほどの権威をもって聞く者に接しなければ成り立つことができない)、そういう姿で人々に語り、聞くほうもそういう風に聞いていて、しかもきわめて自然にそうなっているというのは、何か無言の力ある事実をもって私の心にせまるのであった。はっきり言って、それまでの日本では見なかったものを私はそこに見た。自由だの平等だの個人の尊さだのと、説明しようとすれは際限なく難しくなる「民主主義」のヤカマシイ議論などとうていおよばない生さ生きとした事実として、人間の平等とは何か、自由とは何かということを、その情景は私に見せてくれたのである。いうまでもなく先生は意識してそうしているのではなかった。それよりほかにやり方を知らないと言ってよかった。私は、はじめて、このような人を生みだすアメリカという国を心から恐ろしいと思った。
 アメリカが広大な面積をもつ国であること、豊かな資源に恵まれ、日本とは比べものにならない高い生活水準を有し、飛行機や軍艦の数が圧倒的に多くて、そのために日本が負けたことを私はよく知っていた。だが、そういうアメリカに負けたことを口惜しいとは思ったけれども、アメリカを恐ろしいと思ったことは一度もなかった。しかし、私はオズボーン先生に接しているうちに、大和魂もアメリカの物量作戦の前には勝てなかったなどという戦後よく聞かされ、またそう信じていた敗戦の理由づけが、根底からくずれてゆくのを感じた。私が見たのは軽薄で物質万能主義のアメリカ人ではなかった。先生の中に流れているのは、まぎれもなく、日本人の大和魂に匹敵するアメリカ魂であった。私はそういうアメリカ人をエライと思った。そして改めてアメリカという国はほんとうにコワイ国だ、こういうアメリカ魂を上まわるような何かそのような大和魂を日本人が持つまでは、アメリカにほんとうの意味で勝つことはできない、決してできないと感じた。
  今日にいたるまで、オズボーン先生を通じて与えられたこの印象を変えることができない。アフリカ、アジア、南米、ヨーロッパ、日本と、あらゆる国々の「フォークス」にじかに語りかけ、その一人一人を、ひとりの人間としてキリストの前に立たせるというようなトホウナイことをほんとうに信じて、自分の全存在をかけてこれに立ちむかってゆく先生の姿は、私の中で、アメリカの黒人たちが、自由を求めて闘うあのダイナミックな力と自然に結びつくのである。それにばかりか、現に東南アジアでアメリカと戦っているベトナムの人の姿とも不思議に結びついてくる。少なくとも、私には、亡くなった北ベトナムの指導者が、「すべての人間は平等につくられた」というアメリカの独立宣言の一句をもって、ほかならぬアメリカの暴虐と戦っていたことが、きわめて自然にわかるのである。私は、そういう力を秘めたアメリカをエライ国だと思う。またそういう力に支えられて戦っているベトナムの人々をエライ国民だと思う。そして、日本が経済大国になったのだから、今や世界の一流国だと言う時、はたして現在の日本人が、アメリカやお隣の中国やベトナムの人々に比べて、ほんとうにそんなにエライのか、私ははなはだ疑問に思う。
(3)
  ある夏も近い夕暮れのことであった。私は先生ご夫妻とドライブしていた。それは一つの市での集会を終えて、もう一つの市へ向かう途中であった。その日の集会は、必ずしも「成功」とは言えなかった。けれども、お祈りの後で、一人の聾唖(ろうあ)の青年が、耳が聞こえるようになったのか、壇の上の先生にとびついて行った時、先生が彼を抱いて「これで充分だ。来た甲斐があった」とつぶやいていた姿を私はまだ思いうかべていた。奥さんは、広々とした田園を走る車の窓から、水田で働く人の姿に見とれたり、兎を自転車の荷台にのせて立っている子供を見て「まあ、かわいい」などと目をまるくしていた。先生は、伝道のことや集会のことなどをしきりに話してくれた。大学を出たばかりの日本の青年に、何とか自分の信仰をわからせたいと願っているようであった。
 私は、後の座席にすわって、だまって先生の話を聞きながら窓の外を眺めていた。少し疲れていたのか、先生の声がだんだん遠くなるような気がした。私たちの車は西へ向かっていたので、折からの夕日が、雲の切れ目から幾筋かの太い光線となって、青々と広がる田園を照らしていた。青く広がる波の中で点々と働くお百姓さんたちの背中を金色に染めている天のグロリア(栄光)を見ながら、私は、先生の伝えようとしている神とはどんなものなのだろうかと考えていた。
 突然、私は、自分が想像もつかないような大きい大きいものに向かって走っているような気がしてきた。それは、日本人だとかアメリカ人だとか、勝ったとか負けたとか、およそそんなことを飛び抜けてしまうほどに大きく暖かくて、それでいてすさまじいエネルギーをもって、人間を断固として引っぱってゆく力みたいなものであった。何か大きなことがこの国でも始まろうとしている、と私は直感した。先生が何を伝えようとしているのか、どんな事をわからせようとしているのかは、も早問題ではなくなってきた。先生だって、何をどうわからせるのか言いあらわすことができないのだ。国や言語の違いではない。人間の言葉では何と表現してよいのかわからないほど、飛び抜けていて、とほうもなく大きくやさしいもの、それは何か絶対的な力を帯びてこの国にせまってくるものであった。
 私は、かつてイスラエル民族をエジプトから導き出した神、ローマ帝国をゆり動かし、宗教革命を呼び起こし、広大な大陸に新しい国を建てた力を思った。それは、今も、アメリカでもアジアでもアフリカでも、人間が真に人間らしく自由に生きようと、あらゆる偏見、愚劣、憎恵、障害と戦う所で、「天にあるもの地にあるもの一切」をのり越えて進ましめる力なのである。それにしても、この国を照らす光の何と大きくやさしいことか。国の違いや宗教の違いさえもはるかに超越して、ふしぎな慈愛をたたえて、深く夕闇を裂いて日本の田園を包むそれは光であった。私は、先生の話を夢心地に聞きながら、夕闇のせまる田園に注ぐほのぼのとした余光をいつまでも見つめていた。
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