挫折した伝道
(1)
  オズボーン先生の神癒伝道には、ある原則があった。それは、神癒とは、神のお言葉を信じて行動する時に、誰にでも起こりうる奇跡であり、聖書は、いわばそのためのマニュアルであった。人は聖書のお言葉を信じて、そのとおりに実行すれば、だれでも神癒に与ることができるだけでなく、そのように伝えることで、伝えられた人は誰でも神癒に与ることができるというのが先生の信仰を貫く原理であった。その限りにおいて、先生が伝える癒しの賜物は、特定のカリスマ的な人物だけに限定されない「民主的な」賜物であった。しかし、先生のそのような信仰の背後に、E・W・ケニヨンの神学理論(と言うよりも聖書解釈論)が存在していることに私たちが気づいたのは、かなり後になってからのことである。ケニヨンのシリーズは、独特の神学で、聖書の言葉が祈りと実践を通じてどのように現実の力として働くかを語っていた。
 先生はまた資金を募り、宣教師ではなく「地元の人たち」が、その土地の人たちに伝道を始めるための援助活動を始めていた。私の信友のひとりも、その援助資金を受けて、わざわざ離れた地方都市へ伝道に出ていった。この運動は私にも大きな影響を及ぼした。自分で独立して伝道を始めよう。こういう気運が私たちの間で高まったからである。私たちは、それぞれ「保証人」となる宣教師を通じて先生の資金援助を受けながら、伝道に乗り出すことになった。「あなたがたは出ていって、病める者を癒し悪霊を追い出せ」という聖書の言葉をそのまま実行することが私たちの目的であった。しかし、オズボーン先生の説得にもかかわらず、実際に神癒伝道が成果を上げるためには、理論だけでは越えることのできない壁にぶつかることもやってみてわかってきた。
  その障碍は、聖書の言葉に基づく奇跡の信仰を初めて聞く日本人、すなわち受け手の側の理解不足だけではなかった。聖書が、癒しを生じさせるほどの力強いカリスマを発揮するためには、そのような霊的な力がその時その場で働くだけの人格的カリスマ性を具えていることが、伝える側にも要求されてくるからである。聖書に畏敬の念を抱くキリスト教圏ではない日本で、そのようなカリスマ性が、聞く側にも伝える側にも力強く働くためには、よほど前もって心の準備ができていなければ難しいことであった。御霊の働きは、時に応じて人から人へと人格的に働くものである以上、神のお言葉を信じるという理論だけでは、乗り越えることができない壁に直面するのは避けられなかった。
 オズボーン先生のような理論によるのではなく、機に臨んで自在に働く聖霊の導きによって神癒伝道をおこなった人に、イギリス人のウィグルワースがいた。彼は、道を歩いているときでも、突然に御霊がその場にいる誰かのために祈るように語りかけると、即座にその場でその人に手を置いて、病の癒しをおこなったのである。先生の場合でも、単にお言葉を信じて行動するという理論だけが優先しているのではなかった。先生にも、その時その場で先生を通じて働く御霊の働きかけがあるのは間違いなかった。そういうカリスマ性に基づく伝道は、それなりの霊的な伝統とこれに基づく訓練とがなければ達成できないものである。聖書のお言葉に対する信仰と聖霊の働き、このふたつが現実の場で霊的に噛み合って、初めて神癒が起こるからである。現実の神癒体験も乏しく、神癒伝道に伴うさまざまな問題への対処の仕方も知らないままで、ただ聖書と信仰の理論だけで開始した私たちの伝道は、そういうわけで、たちまち挫折してしまった。
(2)
  さらにもう一つ、私たちには大きな問題がもち上がった。それは、「独立して」伝道することは、とりもなおさず、宣教師たちを含むいかなる指導者たちからも「独立して」、自分に与えられた信仰によって伝道することへと直結していたことである。これは、「伝道の民主主義」が行き着く当然の成り行きであった。「その土地の者をしてその土地の人に伝道させよ」ということは、その「ランド・土地・国」の者をして自主独立の伝道をさせよということを当然の帰結として含んでいた。先生はこのために宣教師たちから批判を受けて、その結果、「宣教師を通じて」土着の住民(ネイティヴ)に援助を送るという手段を講じたのであろう。ところが、その援助を受ける私たちのほうは、先生の精神を汲んで、自主独立の伝道を目指す志を変えなかったのである。
  そこで私たちは、宣教師たちからも独立して、日本人だけで癒しと聖霊の福音伝道に乗り出そうと意図するようになった。その結果、私は、それまで通訳として働いてきた宣教師から離れて、自分だけで「独立伝道」をする決意を固めた。このような私の姿勢は、今から思えば、宣教師たちを深く傷つける行為であったが、当時の私には、そのような相手の気持ちをおもんぱかる余裕さえなかった。
 こうして私たちは、神戸で古い家を買って神癒伝道を始めていたある日本人の伝道者の元に身を寄せて、そこで神癒を伴う伝道を始めた。路傍でとにかく集まってくる人たちに語る。私たちは、こういう辻説法を繰り返していたが、これは、人々に向かって自分の信仰を大胆に語る訓練にはなったが、それで人々が心動かされて福音を信じるまでにはいたらなかった。それでも、幾人かの若い人たちが集会に参加するようになり、合同の集会は、それなりに実を結んでいった。その中から、現在日本の聖霊運動で大きな働きをしておられる著名な牧師や教役者が出てくることになろうとは、当時の私は全く予想していなかった。
 半ば共産主義的な生活をしながら合同でおこなわれていたこの集会には、霊的な高揚はあったものの、そこにはまた、人間的な弱点や欠陥も露呈される結果になった。教会を形成するという目標を掲げて、信者を訓練し、伝道活動を広げて人々に働きかけるためには、当然のことながら、それなりの組織力が必要であり、訓練の方法があり、何よりもそういういっさいの活動を支える基本的な神学とこれに基づく実践的な教理がなければならない。ところが、私たちには、少なくとも私には、そのようなもっとも基本的な方法は言うに及ばず、神学的な信仰内容それ自体さえまだ未完成だったのである。私たちは、宣教師とそれまでの教会から離れて、癒しの伝道を通して自分の教会を建てるべく出ていったが、その伝道はことごとく失敗した。1960年、私が29歳のときである。
  私たちは神戸のグループを離れ、再び京都へ戻ってそこで宣教師さんからサポートを得て、再び伝道集会を始めた。宣教師さんたちは、私たちのこういうやりかたにもかかわらず、その間の資金援助を続けてくださっていた。これは今から思えば、大きな寛容であり、彼らに多大の忍耐を強いる行為であったのは間違いない。それにもかかわらず、私の内には、そういう宣教師さんたちのへの感謝の念よりも、自分の内面的な信仰の有り様それ自体に対する疑問と悩みのほうが大きかった。いつまで経っても自分たちの言うことに従わない若い日本の青年たちに、とうとう宣教師たちの堪忍袋の緒が切れた。業を煮やして、彼らは資金援助をうち切る旨を告げてきた。私たちは、援助を受けて宣教師たちに従い伝道を続けるよりも、援助を断って、自分なりの生計を立てながら自分なりの伝道を続ける道を選ぶことにした。
(3)
  私たち夫婦の伝道は、その生活とともに完全に行き詰まった。信友たちもそれぞれに、自分の生活を稼ぎながら、それぞれの伝道を始めるしかなかった。私個人の場合、宣教師との関係はこれで終わったわけではなかった。日本語を教える仕事を通じて、宣教師さんたちとのつながりが保たれていたからである。そんな折りに、大津の膳所にある教会を私に一任するから牧会をやってくれないかという申し出が、その教会を指導していた宣教師さんからあった。私たちがおこなってきたこれまでの経過を振り返るなら、これは驚くべき寛大な申し出であった。その教会は、和風の家ではあるが、それなりに教会として立派に使用できる広さもあり、和風の庭まで付いていて、多人数とは言えないまでも、立派な信者さんたちがいた。教会を建てること、この強い願いに促されるがままに、私は今までの行きがかりを捨てて、その膳所の教会での牧会を引き受けることにした。自分の信じるとおりの伝道ができるのなら、そう私たち夫婦は思ったからである。
  私たちの家族はその和風の家の教会に住み、そこで集会を持った。今から思えば、願ってもない恵まれた環境が、宣教師さんと信者さんたちの好意によって与えられていたわけである。それにもかかわらず、私の伝道は一向に進まなかった。幾ばくかの若い学生たちが集会に来て、そこから今でも信仰を立派に貫いているご夫婦も生まれたが、全体としての私の集会も伝道も遅々として成果を上げなかった。世間知らずで傲慢な若い伝道師、おそらく周囲の人の目には、そのように映ったであろうし、またそれは事実であった。
  私には、聖霊の事態をも含めて、なにか根本的な疑問があった。聖書信仰、聖霊のバプテスマ、神癒、伝道、教会形成、どれも私が信じて実践してきていたことでありながら、それらすべてについて、自分なりにはっきりとした確信が持てなかったからである。何が問題なのか? それすらもわからないままに、私は内心悶々とし続けていた。
(4)
  実は私には、オズボーン先生との伝道に従事する前に、大津の教会で与えられたある体験があった。その頃、大津にI先生という若いが不思議な賜物を持った伝道者がいて、その先生は、祈ると不思議にいろいろな人たちのビジョンが現れ、その人について示されることがたびたびあるという体験の持ち主であった。ある日I先生が、まだ伝道者になったばかりの私の所へ来て、彼の祈りのうちで、私のことが示されたと告げた。その先生は、私が真っ黒な大きな雲の中に突入していって、やがてそこから抜け出して明るい真理の光を見るというヴィジョンを見たというのである。「私市さん、あなたはほんとうに真理を求めている人ですね。今にきっと真理を見つけますよ」、こうI先生は言った。私はその時、不思議な気がしたが、それ以上あまり心に留めることはしなかった。
  しかしながら、伝道にも牧会にも行き詰まった今、私はこのI先生の「預言」を思い出さざるをえなかった。「真理を見つける」かどうかはともかく、「真っ黒な雲」の中にいることだけは間違いなかった。宣教師さんから教会の建物を与えられ、信者さんまで与りながら、何一つできない自分の姿に、私は困惑し悩んだ。自分がそこから独立しようと志す相手の援助を受けながら、それでもなお自分なりの信仰を貫こうとするのは、自己矛盾にほかならない。こういう気持ちも私から離れなかった。その頃一つだけはっきりと御霊に示されていたことがある。それは、もしも私が伝道者として教会堂を建て、牧師として教会形成と牧会に専心するつもりであれば、宣教師たちと離れることをせず、協力する道をとらなければならないことであった。多くの若い日本人の伝道者たちが、このやり方で伝道に従事し、教会形成への道を着々と歩んでいた。そんな彼らの姿を多少うらやましいと思いながらも、いくら思い返してみても、自分の内側から、そういう道を歩む力が湧いてこないのである。このまま宣教師さんたちとの協力の下に、伝道し教会を立てる道を選ぶべきか? それとも、いっさいをあきらめて、伝道を止めるべきか? 私は思い悩んだ。
  宣教師さんたちの通訳をしているうちにわかったことであったが、聖霊に燃えて語るときには、どの宣教師も内側から湧く御霊の力に突き動かされて語るのであった。それはまさに彼ら自身に深く根ざしている霊性から自然に湧いてくる力であり、己に働く霊的な力に自由自在にあやつられながら、力強い説教がなされ、聞く人々を動かすのである。そこには、彼らの「身についた」霊性とこれを発揮させる説教のスタイルとそこから生まれる霊的な働きをコントロールする方法とのすべてが備えられていた。
  ところが私には、彼らの説教を「通訳する」霊的な能力は与えられていても、自分自身が、内側から湧き上がる躍動するような力、まさに私が私であり、それ以外の誰でもなくなる、そのような湧き上がる聖霊の働きをみずからに体験することができないのである。ほんものを通訳してみて、自分がほんものではないこと、借り物で仕事をしていること、身につかない「聖霊の上着」を着せられて、身につかない言葉とリズムで語っていること(私は小さい頃仏壇でお経を唱えていたから、日本人の霊性にひびくお経のリズムや蓮如のご文章のリズムを知っている)、これを一言で言えば、「宣教師たちの真似をしている」こと、このことがはっきりとわかるのである。
  自分で聖書を学び、自分で伝道しよう。自学、自伝、自活の三原則を妻久子と話し合ったのもこの頃である。もうテント集会をやるまい。宣教師と共に伝道するまい。もっと内面的で霊的な集会を重視しよう。個人伝道を大切にしよう。バプテスマと聖餐を守ろう。ギリシア語で聖書を読み直そう。もっと広く学問を学ぶ必要がある。私はこう考えた。私は再び高校の教師となり、英語の塾で教えながら家計を支えて、自分なりの細々とした伝道を続ける道を考え始めた。こうして、膳所に戻ってからも、自分の伝道のあり方について、私は方向を見失ってしまった。とうとう私たち夫婦は、膳所の教会もそこの信者さんたちも、宣教師さんに返して、高校の英語の教師になる道を選んだ。
   こうして私の伝道は、惨めな失敗に終わった。問題は宣教師にあるのでもなく、周囲の人たちにあるのでもなく、私を囲む環境にあるのでもなかった。教会を形成するために必要な環境は、すべて私に備えられていた。備えられていなかったのは、わたし自身であった。いったいこの聖霊体験とこれに基づく福音とは、私たち日本人に何をもたらすのか? それは、この国とこの民とを、どのような結果へと導くのか? この根本的な疑問に私はとらえられていた。
  こうして私にとって、聖霊体験は、「勝利の伝道」へ導くよすがとはならなかった。それどころか、逆に、御霊にある祈りを深めるほどに、いっそう悩みと疑問が深く広がった。伝えられた福音とこれに基づく聖霊体験は、自分が今まで生まれ育ってきた日本人の内面とあまりにもかけ離れていたからである。ちょうど英語に熟達すればするほど、彼我の文化の差と言語環境の違いをいっそう深く認識するように、聖霊体験を深めるほどに、自分の内面と宣教師によって伝えられる御霊の福音との間に介在する溝は、ますます深くその越えがたい溝を露呈していった。聖霊体験は、結果として、私に、勝利ではなく敗北を、喜びではなく悩みを、解決ではなくいっそうの疑問を、栄光ではなく暗闇をもたらした。周囲の人たちの善意や与えられた環境は、この問題の解決になんの手がかりも与えてくれなかった。私は祈ったが、その祈りは沈黙をもたらした。
  聖霊はもはや自分と共にいてくれない。こういう想いにとらわれそうになると、不思議に異言が出てきた。最初の異言体験以来、異言はいつでもその気になりさえすれば与えられた。まるで朝のコーヒーを飲むように、「軽い気持ちで」異言を語ることさえできた。しかし、誰ひとり相談する者も頼りにする人もなく(キリストを知らない人は言うまでもなく、クリスチャンでさえ、しかも聖霊体験を受けた聖職者たちでさえも、私が抱える問題の所在すら理解してもらえないのに、いったい誰に相談すると言うのか)、沈黙して祈るときに湧いてくる異言はそれまでの異言とは意味が全く異なっていた。それは、神の御霊が、自分と共に、自分ひとりと共に、一緒になって悩み苦しんでいてくださるというかすかな唯一の希望にほかならなかった。信仰というものが、「異言に支えられる」ことを私はこの時に学んだ。「御霊みずから言い難い呻きをもって私たちのために執り成してくださる」。私はこのパウロの言葉を改めて噛みしめた。
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