『光露』を出しながら
(1)
 私は嵯峨野に居を構えて、高校の教え子たちや集まってくる仲間たちと『嵯峨野月報』を出しながらささやかな集会を持っていた。さらに、今までの自分の歩みを振り返りながら、これからの自分の向かうところを探り求めるために、それに、とにかく自分が体験したことを書き留めておこうという思いもあって、1967年、個人で季刊誌『光露』を出すことにした。7月6日、とうとう『光露』の第1号(夏)ができてきた。題名は、「人の命は朝露に似て、とこしえの光を宿してきらめく一時を活きる」と表紙に記した言葉から出ている。
 『光露』で私が最初に手がけたのは、コロサイ人への手紙をできるだけ綿密に読みながら、そこから自分なりに汲み取ったものを、現在の自分の言葉で書き表すという試みであった。コロサイ人への手紙は、ガラテヤ人への手紙としばしば比較対照される。ガラテヤ人への手紙が、「福音の真理」、すなわち真の意味での福音とはなにか? を問うものであるのに対して、コロサイ人への手紙のほうは、「真理の福音」、すなわち福音ははたしてほんとうに真理なのか? という問いに答えようとしている。こう私は考えたからである。「コロサイ書試論」の執筆を通じて、私は次第に、ICCシリーズのような学問的な聖書註解書に接するようになり、これがやがて、文献学的な聖書研究への道を開くことになった。また、西行、芭蕉、良寛、などの詩境へも目を向けるようになっていった。
 『光露』の発行と並んで、大学の卒業論文でとりあげたジョン・ミルトンと17世紀イングランドのピューリタン革命の研究を始めた。ウィリアム・ハラーのThe Rise of Puritanism が、このための手引きとなった。ピューリタニズム研究は、やがて信仰の自由と宗教的寛容の問題に私の目を開いてくれることになる。こうして、異教対キリスト教、教会制度対個人の信仰、言論の自由などの諸概念が、私の内で「信仰の自由」を核にして結びつき始めた。これらの諸概念を抜きにしては、真理の福音を考えることができないと感じたからである。ミルトン研究は、やがて聖霊観や民主主義、神の国思想、三位一体論、聖書解釈のアレゴリー論や表象論、西欧キリスト教とギリシア思想との結びつきなど、予想外に広範囲な広がりをみせるようになっていった。
 小池先生の「無的実存」という言葉に接したのもこの頃である。1968年10月、先生から便りがあり、そこには「貴君でなければできない仕事がある。それは畢竟学的研究ではない。大胆に日本的表現をもってする福音の光を発する独特のエッセイである。どうぞそういう学的研究など乗り越えたものをぶちまけてください」とあった。時あたかもヴェトナム戦争の真っ最中のことである。
(2)
  その頃、私はアッシジのフランシスの伝記を読んだ。英語で書かれた小さな本であったが、この聖人の世界は、私の信仰に不思議な輝きをもたらしてくれた。彼の霊的な生活空間は、中世の修道院ともゴチックの寺院とも異なっていた。そこには、キリストの御霊にある光輝が漂っていた。いわゆる教会制度から脱却した聖と俗との境界に彼は生きていた。彼の修道は、私たちと変わらぬ日常生活の空間にありながら、清貧の極致に達していた。フランシスにはほど遠くても、日常生活での信仰の歩みの中には、立派な回廊がなくとも季節によって変わる空がある。修道院の美しい庭はなくても自然の眺めがある。修道の苦行はなくても日々の労苦がある。自給自足のために手に豆を作って労働することがなくても、家族を養う日々の仕事がある。日課となる祈りの時間はなくとも、日々の仕事の中で信仰を貫くためには、片時も祈りを離れることができない。修道院であろうと日常生活を営むクリスチャンであろうと、絶えずキリストと共に生きる心が必要であることに変わりがない。キリストにあって日常を生活すること、これは「無教会的修道」とでも言うべき信仰生活の一つの形態ではないか。こんなことを思いながら、フランシスの伝記を読んだ。
  御霊のバプテスマがほんとうに意味しているのはなんなのか? 私はこの問いを自分なりに追求することを止めていなかった。たとえ人から教えられても、自分自身がほんとうに納得していないことを人に伝えることはできない。逆に、自分が御霊にあってできることなら、ほかの人にもできるはずだというのが、私の確信であった。教員として生活を営みながら、福音を伝えている私の視座がそこにあった。普通の生活をしている自分にできないことなら、普通の生活をしているほかの人にもできないだろう。できないことなら、そんな信仰や生き方を人に教えることはできない。また教えてはならない。自分が納得できて、かつ自分ができることなら、人にもそれを伝えることができる。「やってごらん」と言うこともできるはずである。この視点から、御霊の導きを常に自分自身にあてはめて検証するように努めること、これが私のやりかたであった。
 この頃、先の戦争の辛い体験を生き延びてこられた故太田兄と故柴田兄の両兄から、集会でバプテスマと聖餐を守るべきだという忠告を受けた。私はこれを主からの導きとして受け入れた。無教会では師弟関係が厳しく、集会の秩序はこれによって支えられている側面があるのを私は知っていた。こういう、師弟関係を軸にした集会でもなく、さりとて各人バラバラの集まりでもなく、一人一人が主にあって一つに結ばれながら交わりを保っている。そんなミニ集会の姿を思い描いて、これを具体化するためには、バプテスマと聖餐が欠くことのできない要素であると思ったのである。和風の庭に面した座敷で、床の間にお言葉の掛け軸を掛け、簡素な机を囲み、ささやかながら家族的な集いが行われる。茶道の茶碗で聖餐とバプテスマを守り、お言葉を聞き御霊に燃やされて、自由で民主的な交わりが保たれる。こんなことを久子と語り合った。
(3)
 その年の8月頃、信楽の山奥で、宣教師のC先生ご夫妻と私たち夫婦とが、久しぶりに顔を合わせた。このご夫妻は、私たちが先生たちから離れたその理由に気づいておられたようであった。拝み屋をしていた夫婦がいて、宣教師さんの説教を聞いて福音を受け入れ、聖霊の体験を持った。その夫婦は、自分たちがかつておこなっていたことが、悪霊の仕業だといったんは納得したものの、宣教師の度重なる「悪霊呼ばわり」を聞くうちに、過去の「霊」が、はたしてそんなに悪魔的であったのか? と逆に疑問を感じだしたのである。全部が正しいと言うつもりはないが、悪魔・悪霊憑きであったと言われるとこの夫婦にはどうも納得がゆかないらしかった。
  私たち4人は、この夫婦のことなどを語り合った。先生ご夫妻は、日本に長らく滞在しておられた。そのためか、日本で育ち日本人の子供たちと一緒に遊んだご夫妻の娘さんたちが、祖国に帰ると逆のカルチャーショックで、引きこもりに陥るという事態が起こった。先生ご夫妻は、これらの体験を通じて、文化の違いというものがいかに深いか、その違いを克服するはずである宗教が、いかに厳しい試練に直面するかを身をもって体験されていた。私たちは、先生ご夫妻と、宗教的な寛容(この場合はキリスト教の側からの寛容)について語り合った。御霊は、私たちが抱えている問題に通じることをご夫妻にも語りかけておられるのではないか。帰り道に、私はそういう実感を久子と話し合った。宣教師さんたちの福音的な姿勢が、この体験だけで寛容なものへと変化するほど問題が甘くないことを私たちは知っていた。しかし、宣教師さんたちも、私たちとは反対側から、同じ苦しみを抱えておられることを知ったのである。彼らもまた真理の福音のために十字架を背負っていた。
 その後に再び、C先生に招かれて大津のユース・ホステルで開かれている宣教師のリバイバル集会に出席した。私は、その交わりの中で、嵯峨野の一角の小さな群れも世界的な主の体の一環として存在しているのだと実感することができた。「この世の力」と断固闘う。クリスチャンたちはこう宣言する。しかし、「この世の力」とは、いったいなんなのか? もっと重要なことは、闘うべき相手とは、なんで「ない」のか? このことが、明確に識別されなければならないであろう。私は、伝道について、自分たちの集会の有り様について、次第にはっきりしたヴィジョンを抱き始めた。御霊に支えられた少人数のイエス様の証し人たち、この様なグループが数多く現れること、それが明日の日本の福音を育てるのではないかというヴィジョンである。
 外国の人たちとの集会に出る度に、自分たちのミニ集会が、世界的な聖霊運動とつながっているのを確認し、そう確認しながらも、自分たちの集会が、静寂な愛の福音に変貌してきているのを改めて知った。日本とかアメリカとか、信者とかは未信者とか、仏教とかキリスト教とか、そういう相対的な次元を突き抜けて、絶対的なところに輝く真理の愛光を帯びて、「この世」の闇に勝つこと。大切なのはこのヴィジョンであると思うようになった。
  またこの頃、私たちの家にアメリカの学生たちをホームステイさせていて、彼らとも語り合う機会があった。彼らと話してみて、問題なのは、日本的な福音か? アメリカ的な福音か? ということではない、もっと深い御霊にある真実とはなにか? これが問わなければならないことに気づかされた。日本人という小さな殻に閉じこもってはならないことを彼らとの対話が教えてくれた。オーラル・ロバートから遠藤周作まで、御霊の働きは幅が広い。多様な展開を見せながらも、どこの国であろうと変わりない御霊の愛の働きが、日本人にもぴったりとくる真理として示されることを私は祈り求めた。それはすでに与えられている。そんな気がした。
 私はことさらに福音を日本的に焼き直そうとしたことはない。それはちょうどアメリカの真似をするつもりがないのと同じである。私の福音は私のキリストである。ひたすらこのキリストに従いこのキリスト徹するのみである。その中から徐々に生まれてきたもの、それが私の霊的な福音にすぎない。もしもその中に静寂や幽玄の愛光を感じるのなら、それは全く主から与えられた御霊の世界であり、キリストの御霊にあって日本人の霊が燃えている証しにほかならない。すべては主のみ手に握られている。ただ私に与えられたこの静寂な愛光を御霊に導かれるがままに歩む。それだけである。そんな想いであった。
(4)
 1974年の正月、祈ると御霊の力が爆発的に迫るのを覚えた。この歳になってこんなにすごい力がくるとは思わなかった。お言葉を語るための注ぎであることは確かである。この頃から、私の学問的追究の範囲が急速に拡大し始めた。まず市川兄の家で有賀鉄太郎先生を迎えてFOR(キリスト者友和会)について話を聞く機会を得た。先の戦争に対する反省から組織された国際的な平和組織で、絶対的な平和主義、パシフィズムについて改めて考えさせられた。これに継いで、私の学問のことで久子に御霊の示しがあった。ミルトン研究を離れてはいけないこと、これを主に捧げるようにと示されたと彼女は私に告げた。ミルトン研究は、自由と民主主義の原点である。私はMCJ(日本ミルトンセンター)のメンバーに加わった。それは現在にも及んでいる。すると今度は、市川兄と聖書の文献批評の本格的な研究について初めて語り合う機会を得た。聖書の文献批評と聖霊による聖書解釈、この両者の結びつきを求めて私たちは検討し始めた。そこから、同窓であり信仰の友でもある市川喜一兄と久野晉良兄とともに聖書研究がスタートした(1976年)。これも現在にいたっている。さらに甲南女子大に移った(1976年)のを契機に、スペンサーを読み始めた。スペンサー研究は、ルネサンスだけでなく、古代神話の広大な世界へと私の視野を広げてくれた。今思えば、この頃から始めた研究が実を結んで、後に『聖霊に導かれて聖書を読む』(1997年)が出版されることになったのである。
(5)
 1972年の秋、「コロサイ書試論」を終えて、ヨハネ福音書講解を始めた。8月には久子と車で信州にある石垣会を訪ね、病弱な人たちを集めて、驚くほど純真に信仰の花を咲かせておられる川口愛子先生(通称ママ)の十字架の精神に深く心打たれた。小池先生も川口先生も、異言を伴う聖霊のバプテスマ体験に与って後、無教会を離れるという経験をしておられた。しかし、ママが「我に従え」と主イエスのご命令を口にされるときには、異言を語る体験も語らない体験も貫通した信仰それ自体の重みがひびいていた。石垣会で語られる人々の信仰の言葉には、実生活に裏打ちされた真実がこもっていた。
  その翌年、信州のママが召天されて、私もその召天式に出た。ママを通して私はアガペーの愛の厳しさを知った。小池先生から受けた無的実存、川口愛子先生から受けたアガペーの愛の教え。こうして私は、主のみ顔を求めキリストの愛に生きることを曲がりなりにも学ぶことができた。この間25年かかった。だが、どれひとつとして単なる言葉ではない。外国からの受け売りでもない。そこには実体験から生まれた日本人の血が通っていた。
 この頃から、私は、聖書を読みながら、同時に主のみ姿を思い描くことを始めた。「み言」としての聖書をただ読むだけでなく、祈りつつお言葉を読んだ後でも、そのお言葉が心に映じて、イエス・キリストのみ姿となって心の目に映じる、こういうことを試み始めたのである。このように努めるうちに、次第に御霊の「語りかけ」を聞くようになってきた。始めのうちは、耳元で語りかけるかすかな声を、自分の幻聴だろうと思っていた。しかし、だんだんとそれが、単なる幻聴ではなく、主の御霊が、その時々に、自分に語ってくださるのがわかってきた。
 言うまでもなく、ただの思いこみやいわゆる「幻聴」に過ぎない場合も幾度となくあった。それにもかかわらず、耳を澄まして御霊の声を聞き取るように意識して努めるうちに、自分の思いこみや幻聴とは、はっきり異なる「御霊の声」が、次第に聞き取れるようになってきた。それが御霊の声であることは、その声に従うことで、自分の選択が誤っていなかったことが具体的な日常の出来事で証しされることを通じて知ることができた。それ以上に、御霊の声に従うときに、聖霊に満たされる喜びを体験することができた。そのことを通じて、逆にみ声が確かなものとなっていった。こうして、「み言葉を読む」「み顔を仰ぐ」「み声を聞く」、そして「御霊に満たされる」ことが、私の信仰を導く大事な標識となってきた。
  不思議なほのぼのとした御霊の風を感じるようになった。「み顔と御声とみ言葉、そして御霊」、この四つを祈り求めるうちに、「霊風無心」「愛光無心」の輝きに浸る世界が次第に私の前に開けてきた。「春風接人」(春風をもって、人に接す)これは仏教から出た言葉らしいが、まさに御霊のそよ風に吹かれる状態を言い表すのにぴったりであった。
戻る