祈る知性
(1)
 1968年の5月から1976年の10月まで、ほぼ月に一度のペースで、集会の後で、午後から読書会を持った。集会のメンバーのひとりが、自分が読みたい、あるいはほかの人に読んでほしいと思う本を選んで、それを会の全員が読んでくる。選んだ人が、はじめにその本の感想を述べる。これを踏まえて、ほかの者がひとりひとり自分の感想を語り、その後で討論する、というやり方である。選ぶ本のテーマは自由、それぞれの感想も自由である。このやり方で、オープンな雰囲気で自分の考えを述べ、これに対する反論も踏まえて論じ合うことができるようになった。
 最初の本は、なんとマルクスの『共産党宣言』であった。これに続いて、キリスト教的なものをはじめ、仏教あり社会問題あり小説ありで、あらゆる領域に及ぶ作品を含めて、この読書会はついに100回に達した。信仰する人もしない人も、自由に討論し語り合うという雰囲気は、なかなか楽しいものであった。その限りではこの企画は成功して、嵯峨野福音集会は『読書会の歩み』と題して100回記念号を出すことができた。
 こういう会の有り様は、聖書集会の雰囲気にも影響を及ぼさずにはおかなかった。語り合い論じ合う雰囲気は楽しく、それぞれが自分の考えを述べるためのよい訓練になった。しかし、その一方で、集会から霊的な祈りの気風が薄らいでいった。理性的な論じ合いは自由で民主的な気風を育てたが、それが各人の霊的な信仰を深め育てることにはならなかった。むしろ、理性的な討論は、祈りを抑える傾向さえ生じたのである。
 1975年1月、私は伝道するようにと強く示された。しかし集会のあり方はこれに伴っていなかった。その年の5月に、茨木の市民会館で集会を始めたが、読書会が盛んになるに連れて、御霊にある異言を私自身もあまり語らなくなった。集会のほうは人数の集まりが悪くなり、『光露』の中身も充実感が薄らいできた。学校の公務で忙しくて、私は『光露』や集会へ心を向けるゆとりを失いがちになった。その年の10月、祈りのうちに、私は以前の信仰から離れているという御霊の警告を受けた。異言で祈ること。聖霊のバプテスマを証すること。これを忘れてはいけないと示された。
 いったい人間の理性的な思考を養うことと霊的な信仰を深めることとは、どのように関連し合うのだろう? どうすれがその両方の能力を最大限に活かすことができるのだろう? 信仰者であると同時に学問的な研究者でもあり教育者でもあった私は、集会の衰退に直面して、この問題を考えざるをえなくなった。討論は信仰を育てない。理性は、考えることはするが祈ることはしない。ではどうすればよいのか? これが私に課題として突きつけられた。私はこの問題で悪戦苦闘した。
(2)
 ここで、パウロは、「鋭い知性」とそこから生まれる確信に支えられて、愛の一致を守り抜くようにと勧めている。ここで言う「知性」(原語は「シュネシス」)とは、私たちの内にあって、機に応じて具体的な判断を下す働きを指している。このような判断を下す主体となる私たち自身のあり方をパウロは「ヌ−ス」と呼んでいる。この「ヌース」もやはり「知性」と訳されるが、これについては第一コリント14章に示唆深い一句がある。
 「もし私が異言をもって祈るなら、私の霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。すると、どうしたらよいのか。私は霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊で賛美を歌うと共に、知性でも歌おう。」
 ここでパウロは、「霊」と「知性」とを対比させて、「霊で祈ると共に、知性でも祈ろう」と言う。言うまでもなく、「霊」と「知性」とを対立させているのではない。霊で祈ると共に、これに支えられて、私たち自身も、みずからの自覚に根ざした祈りに入ろうと勧めているのである。このような祈りを通じてはじめて、パウロの言う「新しくつくられた人」が、祈る者の内面に形成されて「実を結ぶ」のであろう。「ヌース」(知性・心・思い)は、このように「プニューマ」(霊・息・風)と区別されながらも、祈りを通じて働きかける霊に支えられて、一歩一歩とキリストの奥義を悟るように導かれるとパウロは言う。
 このように見てくると、ここで言う「知性」(ヌース)とは、自覚された自己、すなわち、私たちが、一般に「わたし」と言う時の内容に近い言葉であると考えてよいと思う。それは、主体的に判断し、思考し、実践してゆく「自己」である。だが、この自己は、あくまで、これに働きかけ作用する根元的な「霊」に影響されていることを忘れてはならない。私たちが、どこまで「私自身」でありうるか。さまざまな迷い、疑い、恐れ、欲望の中にあっても、これらに動かされないで主体的に判断し行動してゆくことができるか。これがこの知性の働きにかかっている。
 しかし、同時に見落してならないのは、パウロがここで「知性でも歌おう」と言っていることである。「歌う知性」、あるいは「賛美する知性」という表現を、現代の私たちは、どこまでほんとうに理解できるだろうか。なぜなら、私たちは、歌ったり賛美したり、悦んだり哀しんだりする気持ちを制御して、どこまでも論理的に問いつめてゆく働きとして理性あるいは知性を考えているからである。それは、私たちが、科学的な思考の仕方、言いかえると論理的な思考にそって、自己というものをできるだけ客観的に、ちょうど物理的な現象を観察し思考するのと同じ姿勢でとらえようとする思考様式に慣れてしまっているからである。私たちが「知性」と呼ぶものは、このように、ある自然現象をとらえようとする「理性」(英語のreason)の働きに結びつけて考えられている。それは、論理的な思考を軸としていて、悦びや哀しみのように情緒的なものが入りこむ余地をできるだけせばめる方向へと働くのである。パウロにあっては結びついた「知性」と「霊性」とが、現代では分裂してしまっているのを知る。
                     (3)
 ではいったい、いつ頃からこのように「知的な働き」が、「情緒的な働き」と分裂し始めたのだろうか? すなわち、私たちが、「よろこばしく」考えたり、「悲しく」考えたり、「愛情をこめて」思念するような「知性」を失ったのはどうしてなのだろう? この辺のところを探るのは文化論的に興味深いことであろうが、20世紀のイギリスを代表する詩人であり評論家でもあったT・S・エリオットは、イギリスにおいては、何かこのような現象が17世紀のピューリタン革命の頃に生じたことを、彼の「ミルトン論」で指摘している。 
 17七世紀のイギリスと言えば、カトリシズムの後退と共に、自然科学的な思考が台頭し、同時に、近代市民社会形成の土台となる個人主義、資本主義、自由主義が芽生え始めた時期にあたる。また一方では、プロテスタントとカトリックとの間に激しい宗教戦争が闘われていた時代でもある。エリオットは、「知性」と「情感」とのこの分裂についてこう述べている。
  エリオットは、詩人としてミルトンの詩を論じているのであるが、人間の思考と情感とが、もっともデリケートに結びつく詩において、このような「感性の分裂」が認められることは、イギリスだけでなく、ヨーロッパ全体の広がりをもって、人間の知性に何かこのような分裂が入りこんできたことを示唆していると受けとることができよう。
  私たちは、知性が霊と深くかかわっていること、この知性が霊と一体となって、「霊でも祈り知性でも祈る」ような状態において、はじめて、知性が、よろこびや暖かみを帯びるようになるとパウロが語っていることを理解できなくなっているのである。同時に、この霊が、悪しき力に支配されると、それが、悪霊(デーモン)に転じ、「悪魔的な知性」ともなることをも知らなければならないだろう。
(4)
 もう一度パウロにもどろう。
  ここでは、「人間の言葉」と「御霊の言葉」とが対比されている。「言葉」(ロゴス)とは、言うまでもなく、私たちが口に出して語る一つ一つの言葉を指すが、同時に、それらの言葉をつないで一つの筋道を立てて理性に訴える「論理・思念」をも含んでいると見てよい。そうすると、ここでは、「人間の言葉(論理・思念)」と「御霊の言葉(論理・思念)」とが対比されてくる。人には、それぞれに固有の霊があり、その霊に規定された知性があり、そのような知性によって論理づけられた言葉がある。しかし、このような「人間の言葉」をいくら積み重ねていっても、神の賜物を理解することができないとパウロは言っている。 
  神の賜物ばかりでなく、人間の論理に基づく思念だけでは、人と人との断絶を埋める橋渡しにさえならない。それどころか、どこまでも鋭く論究することによって、ますます、神と人、人と人と間の溝が埋め難くその亀裂をあらわしてくるのが「人間の」論理性なのである。このような亀裂が、最も鋭く意識されるのは、異なる宗教間で交わされる対話である。17世紀のイングランドでは、様々な宗派が分裂し独立したが、彼らは、同じ民族、同じキリスト教的な枠の中にあって、互いに論じ合い論争し合っても、これによる一致を達成することができなかったのである。
  そういう人間的な論理性とこれの元となる知性とを、さらに大きなところから包んでくれるもの、人を神と結び、人と人とを結ぶきずなとなるような「神の霊に基づく論理性」とでも言うべきものが存在しないのだろうか? 存在するとすればそれはどのようなものなのだろうか? 「敵を愛する」論理、「悪い者にも良い者にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」論理、「ユダヤ人にも異邦人にも同じ救いをもたらす」論理、それは一体どのようなものなのか? これがここでのパウロの問いかけではないかと思う。
 このように見てくると、私たちの知性は、一方では論理性を持ちながら、他方では深い所で霊的なものにつながれて絶えずゆれ動いていることが窺われる。そういう知性が、それ自体の働きを全うしつつ、神と人、人と人との結びつきをつくりだしてゆくためには、神の御霊によって知性が方向づけられることが必要であろう。先のパウロの言葉に「御霊のことは霊的に解釈する」(私訳)という一句があったが、知性が真理に向かうためには、それが「真理の御霊」(ヨハネ福音書14章)に根ざしたものとならなければならないことをパウロもヨハネも証ししている。神から人に注がれて、人と人とを結ぶこの力を「愛」と呼ぶならば、そのような「愛に根ざした知性」とでも言うべきものこそ人間の断絶を克服して平和をつくりだす力となる。こういう霊性に支えられた論理性こそが、パウロの言う「御霊にある知性」なのであろう。
  だから、バウロが「霊的」と言う時には、知性・理性と「区別された」霊性を指すのではない。御霊に「方向づけられた」知性・理性とこれによって行動する私たちのあり方全体をひっくるめた「霊的な」有り様と呼んでいて、そういう「霊知」を具えた人を彼は「霊の人」と呼ぶのである。パウロの「霊の人」は、それゆえに、御霊の愛に根ざすことをせず、きまざまな「霊力」や人間の欲に動かされる人間の有り様やその発想、すなわちパウロが「肉の人」と呼ぶ私たちの有り様と対照される。
(5)
  17世紀のイギリスでなにが起こったのかとエリオットは問いかけた。彼はそこに、人間の理性と情緒性との分裂を感知したからである。この分裂は、現代にまで及んでいて、私たちはその分裂の結果が、自然科学と人文科学との両者の分裂に典型的に現れているのを見ることができる。このふたつの学問的な領域の分裂を指摘したのは、これもイギリスのC・P・スノウという人であった。彼は、自然科学者と人文学者との間に対話が全く成立しないという問題を提起したのである。ルネサンス時代では成立していたこの両者の対話が、なぜ17世紀の自然科学の勃興と並行して不可能になっていったのか? この点を突き詰めていくと、科学の発達に伴って生じた主体と客体との分裂、あるいは主観と客観との対立の問題が顔を出してくる。近代科学は、「主」と「客」とを切り離すことから出発したからである。
 こういう近代理性の元祖としてよくあげられるのがフランスの哲学者デカルトであり、イギリスではジョン・ロックである。しかし、両者とも、人間の理性とその論理性に重きを置いてはいたが、決して霊的な存在としての神を無視してはいない。現代の学者達は、このふたりの思想の理性的な面をしきりに強調するが、デカルトでもロックでも、彼らにとって神の存在は自明のことであった。たとえば、日本でのロック研究は、英米における理性的思考の元祖としてのみロックを強調してきた。この誤りを指摘し、ロックが、人間理性を神の御霊と関連づけていたことを主張したのが、ミルトン・センターの会員であり、私の学友でもある永岡薫氏である。氏は、ロック学者として、ロックの人間理性観が、神からの御霊の働きといかに密接に結びついているかを指摘し続けている。
  我が国にあって、西洋での主体と客体との分裂の問題と正面から取り組んだのが、『善の研究』で知られている西田幾多郎であった。彼は、主体と客体とが分離する以前の人間存在とそこに働く理性と霊性について深く考察し、主観と客観とがまだ分かれる以前の世界があることを洞察し、そのような主客未分の体験を「純粋経験」と呼んだ。それはいかなるものであろうか。
  例えば今「鳥が飛ぶ」という現象を人が見ている場合を考えてみよう。その飛んでいる鳥を「私」が見ている。飛んでいる鳥を客観的にとらえて、それとは別個な存在としての「私」という主体がこれを見ている。こう考えてはいけない。鳥が飛んでいるという事実があり、出来事がある。その出来事を見ている私がある。この「見ている私」は「鳥が飛ぶ」ことと切り離された存在としての「私」ではない。鳥が飛ぶのを見ているこの「私」、この主体としての「私」と鳥が飛んでいる出来事とは切り離せないひとつの出来事として考えなければならない。そこには、鳥と私とを結ぶひとつの「場」が形成されているからである。この場においては、主体と客体との区別は消え失せる。見るほうも見られるほうも一体であり、ひとつの「場」を創っている。主客一如の場である。こう西田は考えた。そこから彼独自の「絶対矛盾的自己同一」の世界が生まれる。
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  「絶対矛盾的自己同一」とは、自己という場が、絶対の矛盾を内包していることを意味する。神の超在と内在、主観的実存と客観的実在、有と無、生と死、全体と個、罪と救い、などなど。この世界のすべての現象は、このような絶対的に矛盾し相対立するものから成り立っている。では、その自己が「同一」するとはいかなる事態か。その矛盾が矛盾であって矛盾でなくなることである。では、どのようにしてそれが生じるのか。相対立する両者が「即」の事態で結ばれるからである。「超在即内在」「有即無」「生即死」「主観即客観」すなわち「主客一如」のように。では、その「即」とはなにか、それは時空一如の「今のとき」において、常に創られて創り出すことによって生起する「自己」という「場」において成り立つ関係である。現在という「とき」の場で、常に創り出されながら創り出す自己、これが「在りて在らしめる」お方の「ことば」の働きによって生まれる。このような自己は、「存在」ではない。旧約聖書の動詞をもって言い表せば、「ハイヤー」(生起)するのである。自己はどこまでも「罪の自己」であり、同時に「赦された自己」である。この両者が合致する自己を「追求する」ことが、新たな自己を生む。「今の時」にあって「永遠の」自己が生起する。[絶対矛盾的自己同一」とは、私流に言えば、「絶対原罪的自己への絶対恩寵」である。
  宗教的関係というのは、どこまでも自己を超えて、しかも自己を成立せしめるものである。すなわち、どこまでも超越的であると同時に、自分自身の根源となるもの、こういうもの、これと天下一品唯一なる個的で意志的なる自己との同一である。どこまでも超越的なものと、どこまでも内在的なものとの矛盾的自己同一にある。これが成立するのは、一般論的ではない。カイロス的な「時」の中で、歴史的な現在の場において起こる出来事であると西田は言う。
 「人格的なるキリスト教は、きわめて深刻に宗教の根源を人間の堕罪に置く。創造者たる神に叛いたアダム子孫には、原罪が伝わっている。生まれながらにして罪人である。ゆえに人間からしては、これを脱する途はない。ただ、神の愛によって神から人間の世界へ送られた、神の独り子の犠牲によってのみ、これを脱することができる。我々はキリストの天啓を信ずることによって救われるというのである。生まれながらにして罪人というのは、道徳的にはきわめて不合理と考えられるであろう。しかし、人間の根底に堕罪を考えるということは、きわめて深い宗教的人生観と言わざるを得ない。すでに言ったごとく、それは実に我々人間の生命の根本的事実を言い表したものでなければならない。人間は、神の絶対的自己否定から成立するのである。その根源において、永遠に地獄の火に投ぜらるべき運命を持ったものなのである。浄土真宗においても、人間の根本を罪悪に置く。罪悪深重煩悩熾盛の衆生という。しこうしてただ仏のみ名を信ずることによってのみ救われるというのである。」(西田幾多郎最晩年の作、「場所的論理と宗教的世界観」より)。
 彼はこのように考えた。
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  私たちの聖霊体験においても、これと相通じるところがある。私たちが祈る。祈ると御霊の風が吹く。御霊の風が吹いている状態、祈りの中でそういうことが起こる。吹いているというこの現実、その中へ、「私」がそれを感じているとか、「私」はそのことをどう考えればいいのだろう? というふうに「私」が入ってくると、御霊の風が吹いているという事態が、すーっと消えていく。こういう事が起こる。だから、ここで「私」を持ち出さないで、ただ祈る。祈りにあって御霊の風が吹いている。否、御霊の風が吹いている、そのことが祈りとなる。そういう風になっていく。そこにはどこまでいっても「私」は出てこない。では「私」はどこにいるのか? 
  実は御霊の風が吹いているというその場、その時その所の「場」、それが「私」である。それ以外に「私」を持ち出してはならない。吹いているというその事態が即私である。もし「私」ということが言えるとすれば、それ以外どこにも存在しない。だから、御霊が吹いているその場、その祈りの中で生じている「私」なのである。しかし、これを「私」であると自覚したら、それはもう違う。み霊の風が消えていくことになる。だから「私」という言葉を出さないほうがいい。あるがまま、そのままが私である。このあるがまま、そのままの私とは、それゆえ「私ならざる私」である。「私」は、私でないことによって私になる。ここが、「我思う故に我在り」、私が考えるという体験をしているから「私」が存在するというヨーロッパ流の考え方とは違うところである。私は、私でないときに私である。自分が無になるときに自分になる。だから、御霊にある私は、いわゆる「私」ではない。これが「我祈る故に我在り」の境地である。祈るのは私ではなくて、御霊ご自身が祈っている。
  み霊の風が吹いている。それが私である。こう言う時、御霊は神の御霊である。だから神の御霊が吹いている。その場が私であるということであれば、神は私である、ということになる。この「神は私である」、これは主語と述語の関係にある。主語は「御霊の神」であり、その主語が「私である」という述語になる。しかし、その逆、「私は神である」と言ってはならない。つまり人間である「私」は述語であって主語ではない。主語は御霊の神である。その御霊の神が、「私である」と述語になって下さる。つまり人間としての私はどこまでも述語である。そこに「我ならざる我」が御霊にあって顕現する。この「我ならざる我」こそ御霊にあって神へと環流する。御霊にある祈りの境地である。「我祈るゆえに我在り」である。
  英語でsubject という言葉がある。このsubject には三つの意味がある。「主語・主体」と「臣民・市民」と「従属する・従う」の三つである。この言い方を借りるなら、「ある主体に従属し従うことによってある小さな主体としての市民が初めて存在できる」ということになる。'A subject who subjects to the Subject.' という関係が成り立つ。ある主体に従属し、これに従うことによって、初めてその主体と一体になる個別の主体が生まれるのである。キリストの御霊という場にあって、神のみ国のひとりのメンバーとしての人格的な個人が成り立つ、ということがこのようにして生じる。
 万物はただ在るのではない。万物が在るとは、なにかに「おいて」在る。「エン・クリストウ」(キリストにおいて)とパウロはしばしば言う。彼はまた「キリストにおいてある私」とも言う。「在る」とは、なにかに「おいて」在ることである。ゆえに万物はキリストに「おいて」在る。言い替えるなら、万物は「神のお言葉において在る」。「すべてのものこれによってでき、できたもののうち、ひとつとしてこれによらないものはない」(ヨハネ福音書一章)。そういう在り様である。それ自体で存在しているものなどひとつもない。在るのはただ神の言葉において存在している。キリストの御霊において在る、ということでなければならない。すなわち、御霊が働くという実在の場があり、その実在において祈る自己がある。この「我ならざる我」こそ、神の御霊において実在する世界につながる自己の姿である。これを「実存の我」と言う。御霊の実在の中にあって祈る実存としての自己がある。この事態を「無的実存」と故小池辰雄先生は呼んだ。イエスこそこの無的実存に生きる人であった。すなわち「無者キリスト」である。
  私たちが御霊の証しするとき、それを言葉で伝える。言葉で伝えるときに伝えられているものは、すでに言葉化されている。だから、その時私たちは経験を言葉で伝えているのではない。言葉で伝えられていることを経験として語っているに過ぎない。だからそれはほんとうの経験ではない。御霊の働きそれ自体ではない。御霊の働きは、人間の言葉以前の「ことば」だからである。それは霊言である。だから御霊の経験を語るときには、言葉を通じて伝えようとしてはならない。語られている言葉を語らせているその元となる聖霊のお働きが、言葉を創りだしている。御霊の働きが刻々と働き、言葉が生み出されていく。先に御霊の働きがあって、それが言葉となる。そういう事態である。
  御霊の事態は言葉ならざる言葉、言葉が発せられる以前の言葉。だから御霊の最初の言葉は、異言である。異言は言葉ならざる言葉。言葉以前の言葉。そこから言葉が生まれ歌が生まれる。思想が出る。理論が出る。その根本の言葉が異言となり、いまだ言葉ならざる言葉となって出てくる。これが御霊の場から生じることである。
  真の絶対的有は、無限に創造的であり、歴史的現実でなければならない。創造とは無から有が出ることではない。それは単なる偶然である。単に有から出るのでもない。それは単なる必然的結果である。創造とは、神の御霊にあって、造られたものが造るものへと自己自身が形成されていくことにほかならない。創造された自己が創造する自己へと変えられる。このようなみ業を成す絶対者は、「我在り」ではない。「我在りて在らしめる」方である。個人個人を在らしめるところに世界のキリストが在る。このように、創造即被造の関係において、どこまでも超在的であると同時にどこまでも内在的である神こそ真の神である。神の絶対的な愛とは、神の絶対的な自己否定にほかならない。このような愛こそ神の本質である。御霊の愛。万物はみ言(ロゴス)に在りて在らしめられる。
 創造作用は人格的である。自己が自から働くことが自由である。自己の本質に従うことこそ自由である。単なる恣意は自由でない。では自己の本質とはなにか? 「キリスト今私に在り」である。これが自己の本質であり、これが霊知的にある自己である。律法には個はなく決断もない。信仰的な自己のみ律法的自己原理を否定する。信仰の自己の働きこそ創造的な歴史的出来事を生む。こういう信仰を意志することそれ自体が行為である。意志的存在とは人格的存在のことである。
 御霊にあって生きる霊知的な自己とは、単なる知ではない。知の律法を常に克服する可能性を持つところに御霊にある自己が存在する。御霊にある自己は意志する存在であり、人格的存在であるが、その自己は「時」の中でそれ自身を変革させていく。「意志」とは、主語としてのキリストが、述語としての自己に働きかけで、その「自己」を破っていくことである。これを逆に言えば、述語としての自己が、常に主語としてのキリストの御霊を含みつつ変革されることである。そこに霊知が働き、そこに自由が生じる。

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 では、こういう霊知は、いったいどのような属性を具えているのだろうか。次にこのことを考えてみよう。
 
第1に、それは、自由でとらわれない知性である。ここで「とらわれない」と言うのは、何ものをも「絶対化しない」ことを意味している。人間的な知恵を働かせて、何か独創的な発案を産み出し、かつこれを絶対化しようとする誘惑、パウロは、これに誘発された「人間の知恵の言葉」が造り出す「偶像」に対して警告する。だからパウロの言う「御霊にある知性」は、それ自身が抱く「論理性」にさえ絶えず批判的である。だがそれは論理性そのものの否定ではない。論理性の「絶対化」を否定するのである。
 
第2に、この霊知は創造的である。愛に根ざす知性は信仰に根ざす知性であり、信仰に根ざすとは、常にあらゆる可能牲を排除しないことを意味する。だから、このような知性が生みだす論理は、絶えず新たな可能性にむかって開かれている。そのような知性が内包する論理は、外からの働きかけと遭遇した場合に、これを包みこみ、これを自己の中にとり入れつつ、有機的なつながりの中で共に成長する可能性を失わない。
 
第3に、このような知性は、自然科学の効用と限界とを正しく洞察する。現代において、最も深刻な課題の一つは、知性のあり方にともなう知識の活用の仕方であろう。私たちが、現代において「知識」と呼ぶものは、主として自然科学的な思考様式を規範としている。こういう知識を支えているのが、科学的な論理性を支える「理性」であることは先に触れた。私たちの日常生活を支配している知識が、それなりの効用と意義を具えているのは言うまでもない。だが、同時にこのような知識は、人間本来のあり方を深いところで問う価値観から切り離されていることにも気がつかなければならない。言い替えれば、現代における知識は、経済的な効率の論理によって、倫理性をはく奪されているのである。こういう知識とこれを支える理性は、たとえばソクラテスのように、「いかに生きるべきか」を知の最大の課題とした姿勢と基本的に異なっている。
 だから、これからの時代、私たちにとって切実な問題となるのは、いかにして多くの情報を自分の手もとに置き、頭の中に詰め込むことができるか、ということではない。それよりもむしろ、どのようにこれらの情報を「正しく価値づけ」るのか。これを判断し批判する能力を養い、そうすることによって、自分に与えられた課題に知識を適切に活かして用いることである。このためには、創造的な知性の力が要求される。知性とは、物事を客観的に判断し、「合理的に処理する」能力のことではない。それは、共によろこび、共に生きることを知ることであり、この意味での知性は、全人格的なものから発したものでなければならないし、倫理的なものでなければならない。すなわら、ここでは、知るとは行動することであり、行動するとは、「正しく」生きることにほかならない。
 第4としては、こういう知性に支えられて、私たちははじめて、「寛容」ということを正しく理解する。「寛容の論理」という表現は、厳密には矛盾した言い方である。なぜなら、論理的なものは、論理の性質上寛容を拒否するからである。にもかかわらず、「寛容な論理性」とでも言うべきものが、現在私たちに切実に要求されている。現代においては、寛容な論理を生み出し創り出してゆく根源はなんなのか? ということが切実に問われている。
  知性がいかに霊的なものと深くかかわり合っていて、同時にそれが、理性的な働きの元となっているかは先に述べた。この知性が、私たちの「思考や行動の主体性」を形成する。それだけに、この知性を御霊の愛に深く根づかせなければならない。こういう愛や悦びや哀しみをこめた知性というものは、ヨーロッパにおいても、そして、これは大切なことであるが、日本においても、近代科学に基づく産業社会が生まれてくる前には、きまざまな有徳の人たちが追求した課題であった。
 しかし、こういう瞑想的な生き方、言い替えると宗教的な生き方が、科学の発達とこれにともなう近代産業の機構の中で徐々に崩壊し、合理的ではあるがうるおいも落着もない人間が産まれてきたのはある意味で止むをえないことであった。だが、今再び、こういう宗教的な霊性に根ざす情緒を帯びた知性を、新しい姿で現代によみがえらせることができるかどうかが、切実に問われてきている。そして私たちは、この点に、これからの日本のあり方が深くかかわっていることも知っている。公害のない国、心の通い合う民主主義、平和憲法を貫いて国際社会で意味のある歴史的な役割を果たす国、これを真剣に追求するためには、「新しい知性」を創りだしてゆかなければならない。
(9)
 先に「情緒を帯びた」という言い方をしたが、これは「感情的な」ということではない。情緒と似ているようであるが、また、しばしば両者を混同する人がいるけれども、この二つは全く異なる性質のものである。パウロは、ガラテヤ5章で、愛、悦び、平和などの御霊の実を九つあげた後で、「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまった」とつけ加えている。ここで「御霊の実」とパウロが呼んでいるものこそ、情緒的な知性の実のことである。こういう情緒は、人間の生(なま)の感情や欲望をそのままあらわすこととは正反対である。そういう人間的な感情に一度死んで、これが否定されたところにそれは生まれてくる。感情的な人は、不安定であつかいにくい。時には危険でさえある。感情的になると冷静に話し合う心のゆとりを失ってしまう。しかし、情緒的な人は、常に安定した心の持主であって、人を受け入れ、心の通い合う話し合いの基盤をつくる人たちである。
 多くの場合に、人は、このような感情を抑える働きとして理性をあげる。なるほど理性は「割切って」ものごとを冷静に処理する。機械は絶対に怒らない。だから理性的な話し合いは、相反する利害をうまく処理して妥協点を見出すことはできる。しかし、人と人との心の交わりを創り出すことはできない。それは考え方のちがいを確認させてはくれるけれども、心の触れ合いを生み出してはくれない。それは、一見、人間的な感情を超えているようであるけれども、実は、これこそ人間的なやり方の典型なのである。そこに働いているのは、パウロの言う「人間の知恵」である。特に、近代的な人間の解決法、無感動で、無反応で、冷酷な現代の人間の処理手段はまさにこれである。
 人間は、機械でも理論でもない。人間は、人間であるがゆえに人間の全部を、すなわち「人格」を求める。人と人とをほんとうの意味で結び合わせるものは、このような人格的な関係であって、これこそ御霊の福音の与えようとするものである。そこに生じるのは、いわゆる「理論的な一致」ではない。まして「感情的な集合離散」ではない。信仰によって人と人との間に生まれる「交わり」こそが、御霊の固有の働きである。このような交わりは、人に具わる「人格的な情緒性」によってはじめて生まれるものである。
(10)
 近頃盛んに唱えられ始めたナショナリズムという名の人間的な感情は、私たちを支配している根強い伝統的な感情のひとつである。こういう人間的な発想を相対化しつつ、これをより確かな土台の上に据えるためには、人間的な発想の強さや確信が「無にされる」ことが必要であろう。私たちが無心にされるところに顕現するのが、情緒を具えた人格である。こういう全人格的な出会いを通じて、はじめて、国家主義を克服し、さらに教派や教団、信条や教義を克服できる結びつきが生まれてくるのではなかろうか。
  日本人は「気持」を大切にする国民であると言われるが、ともすれば、このことが、理論や合理性よりも人間的な感情で物事を処理する傾向を生じてきた。しかし、このような人間的な感情では、現代の産業構造もこれにともなう諸問題をも処理することができない。私たちはそういうところへ今来ている。日本人の「非合理牲」が盛んに指摘されるのはこのためである。人間的な感情が、産業構造に基づく現代の社会にそぐわないのは、現代の支柱となっている科学的な産業技術が、本質において「理性的な」主体に基づく「近代的な人間」によって生み出されたからである。近代市民社会とは、そのような人間によって形成されてきた社会だからである。
  だから、私たち日本人は、己の「後進性」を嘆いて、いたずらに「現代化」を追い求めようとする前に、今一度、私たちが直面している問題を正しく見きわめる必要があろう。なぜなら、現在、私たちが追い求めている「現代化」は、人間の全人格的な有り様に照らしてみるならば、ごく部分的な営みにすぎないからである。科学的な技術は、手段としてはきわめて有効に機能するけれども、それ自体を目的とすることは決してできない。人間にとって最終的な目標となりうるものは、人間の「人格」そのものである。このような人格の基盤を与えるものこそ福音が与える霊性であり、そういう人間関係をつくりだす帯となるものこそ、御霊にある情緒性なのである。
   私たちは、現在いわゆる「グローバリゼーション」の世界的な波に乗り遅れまいと必死に努力している。しかし、私たちのいわゆる「後進牲」を克服することが、世界規模で課せられている問題の解決にほんとうにつながるのだろうか? むしろ、今なお根強い近代的な科学技術の信奉とこれがもたらす社会的矛盾を解決してゆく正しい道とは、私がここで言う福音的な霊性から開けてくるのではないだろうか。
  古い伝統と文化とを背荷いながらも、新しい人間関係を生みだすべく、私たちは現在その転換期に立っている。キリストの福音にあずかる人たちが、先ずとらわれない心をもって主にある一致をめざして歩み出すべき時ではないのか。そこから、新しい時代への突破口が開かれる。いつの時代でも宗教的な人たちがつくり出す人間関係こそ、次に来るべき新しい人間関係の「原型」となってきたのだから。
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  「キリストに死んで静寂の愛光によみがえる。静寂に広がるイエスの慈愛。沈黙してひたすら主の愛の中へ己を没入させていく。ここからしか御霊の本当の輝きは生まれてこない。静寂に輝くみ言葉と御霊の愛光。無の心に宿るキリストのアガペー、これに生きるしか己の歩むべき道はないのを知る。愛と憐れみの心を失わなければ、必ず悪の力に勝つことができる。真理は深く高くそして驚くほど広い。神学論を避け、社会的福音のとらえ方を避け、ただキリストの御霊に貫かれることに集中し、聖書を霊的に読むことである。」
 これはその頃の私の日記からの引用である。この頃から、私にとって福音とはひとつの宗教、いわゆる「キリスト教」ではなくなってきた。それは人間を超えて、かなたから差してくる真理の光となった。沈黙して主のみ顔を仰ぎ、御霊の愛に安らう無言の静寂に広がるキリストの愛である。これは福音を日本趣味と結び付けようとすることではない。どこまでもイエスに従うところに開ける道である。福音とはどこまでもイエスの御霊の愛に貫かれて歩む道のことだからである。御霊にある「愛光無心」、この境地が開かれていくところによみがえりのイエスが顕れる。
  こういう信仰が他の人たちのものよりも優れているとすれば、それはこのような信仰が他の人たちの信仰をも認めるというまさにその点にある。ほかの宗教に含まれる真理を正しく認識し、これを判断して生かすことのできるまさにこの点にこそ、宗教的な信仰の「進歩」を測る基準が置かれるべきであろう。21世紀の宗教とはそういうものであろうし、またそうでなければならないだろう。ダイナミックな霊的な集会を行うのはいかにも勇ましい。しかしそれは所詮、日本人の心をかすめて波立ち通り過ぎる「戦後の名残」にすぎないのではないだろうか。日本人の心の奥に宿る静かなキリストのみ姿を拝し、その霊光の中に生きてこそ本当に世界的な広がりを持つ光明をともす道が開かれるのではないかと思う。
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