イギリス留学
(1)
 1980年の5月、私たち夫婦は、アメリカを経由してイギリスに渡り、そこからスイスとイタリアを旅して、フランスへ向かった。フランスでの旅を終えて、妻久子はパリから日本へ帰国したが、私は再びロンドンへ戻り、1981年の3月までイギリスに滞在した。言わば地球を1周する旅の間に、私たちは、さまざまな個人的な出会いを体験しながら、それなりに見聞を広めることができた。しかし、それらの個人的な出会いを語るのがここでの目的ではない。また、イギリス滞在中に、自分の研究テーマであるミルトンにゆかりの地を2カ所と、これも由緒ある聖堂をふたつ訪れたが、これらの訪問記は、4篇のエッセイとして『光露』の52号〜55号に連載し、さらに『イギリス通信』(1982年)として出版したので、ここで繰り返すことはしない。
 私のイギリス滞在は、英文学の研究が目的であったが、イギリスの大学で学びつつ、イギリス人と暮らすうちに、多くのことを学び、また霊的に教えられることが多々あった。この滞在は、なによりも、それまで知識としてしか存在していなかった私の知的な世界に確かな実体を与えてくれるものとなった。日本人、韓国人、中国人、イタリア系の人たち、アイルランド人、スコットランド人、スペイン系の人などいろいろな人種の人たちに出会い、また親日的なイギリス人、反日的なイギリスなど、様々なタイプの人たちとも出会うことができた。私の世界はこの旅行を通じて一気に広がった。それまで漠然としていた自分の知識にはっきりとした裏付けが与えられたのである。
 イギリスで暮らしてみて、日本人としてイギリス人に接する態度に一般的に言って4通りあることに気がついた。(1)卑屈な態度で付き合う。これは最悪である。(2)逆に傲慢で横柄な態度に出る。これもよくない。
(3)イギリスを愛しイギリス人に合わせて、イギリス人から好かれるような態度をとる。これはそれなりによい。(4)しかして最も良いのは、キリストの御霊にあって、対等に愛をもってつきあうことである。これは相手に尊敬される最善の道である。
 最後の場合は、日本人としてイギリス人と接するというよりも、一人のキリスト者として、イエスの御霊にあって接することを意味する。異国で暮らすと、ふとした折りに、自分の感じ方や心情がいかにも日本的であるのに気づいて驚くことがある。そういう日本人的な心情を無視したり故意に隠したりするのではないが、国や人種や宗教を超えて、キリストにある御霊にあって、ひとりの人間として生き、人々に接する、私はこのことを学ぶことができたように思う。
 エディンバラでの私の下宿は、大学からほど遠くない静かな住宅街にあった。下宿の女主人は、先の第2次世界大戦の時に、看護婦としてその青春を国のために捧げた人である。多くの若者が戦死したために、この世代の女性は、未婚のままで一生過ごす人が少なくないが、彼女もその中のひとりであった。そんなわけで、かつての敵国である日本にはやや複雑な想いがあるようであったが、それでも私を含めてふたりの日本人が部屋を借りていた。ほかに、スコットランドの学生ひとりとイラン人の大学院生とが一緒に暮らしていた。
 私たちは朝食を毎朝決まった時間に1階の食堂でとることになっていた。庭に面したかなり広い食堂は、イギリス風の食器を並べるのにふさわしい雰囲気で、テーブルクロスを敷いた食卓の上に、いわゆるイギリス風の朝食が、一皿ずつ運ばれてきた。私たちは、そろってこれを食べながら、いろいろな話題に花を咲かせ、大きなカップで紅茶を飲み終わる頃には、1時間は経っていた。
 話題は世間話やイギリスの社会問題が多かったが、時には宗教問題に及ぶこともあった。イランの大学院生は、イスラム教に詳しく、彼の説くイスラムの教えは、私がそれまで新聞やテレビを通じて聞いていたものとあまりに違うので、驚きながらも、彼の「理想のイスラム教」を興味深く聞いていた。彼の考えている神アラーは、いっさいの宗教を含む広がりを有していて、聞いているうちに、まるで私の信じている神とほとんど変わらないのではないかと思われるほどであった。
 そんな雰囲気の中にいると、互いの宗教の違いだとか人種の違いをあまり意識しなくなる。こんな場合に、イギリスに来ていることを意識するあまり、イギリス人に迎合しようとすると、かえって態度がぎこちなくなるものだ。その結果、イギリス人や他の国の人たちに誤解を与えることにもなりかねない。日本人によくある、この種の「合わせ主義」は、逆にその裏面で、自分の内に傲慢さを助長し、他民族を軽蔑する気持さえ生じさせる危険がある。自分を素直に出すことをしない日本人が、しばしば卑屈と傲慢との妙な二重性を示すのは、自分を「ひとりの個人」として肯定的に表現できないところからきていると思われる。大事なのは、主の御霊にあって、自らの固有の霊性を信じて、自然な態度で人々に接することである。そのときにはじめて、他の国の人たちと打ち解けて接することができて、彼我の波長がぴったりと合ってくるのを覚える。
  日本人もイギリス人もない。白人も黒人もない。男も女もない。カトリックもプロテスタントもない。キリスト教、ユダヤ教、仏教、イスラム教の違いさえも意識しない。そんな霊的な世界が、決して夢ではないのでないか? イギリスで、いろいろな人たちとこんな風に話し合っていると、ふとそんな気持ちになる。確かに、キリストの御霊にあっては、そういう人間的なことは本質的な意味を持たない。人間である以上、人間的な制約がどこまでをもつきまとうのは致し方ないことであり、また自然なことなのであろう。しかし、主の御霊にあっては、ちょうどガラテヤ人の手紙でパウロが断言しているように、そういう制約が意識されなくなる交わりが、確かに可能である。パウロほどの厳しい状況の中ではないけれども、こういうことをそんな交わりから体で実感できたのは、私なりに大きな収穫であった。
 もっとも、私が「自己の内なる日本人」にこだわることなく、そんな風に素直に自分を出せたのは、イギリスの社会が醸し出す独特の雰囲気にも影響されていたからかもしれなかい。そんなある日、ふと、かつて北欧の宣教師さんたちに対してとった自分の傲慢な態度が思い出されてきた。たとえ協力できない理由があったとしても、もう少し謙虚な態度で福音のあり方について思うところを互いに語り合うべきではなかったか。こういう反省が、自然と心の中にこみ上げてきた。私は、妙に「日本人」にこだわる自分自身に潜む偏狭とその醜さを改めて自分の内に思い返して、主のみ前に自分の高ぶりを悔い改めた。無心とはそういう民族的なこだわりを意識すること無しに、キリストの愛を生きることにほかならない。そう思うと、あの時、宣教師さんたちに対してとった態度がいかにも申し訳ないと思った。民族主義は、宗教に継いで、人の心のうちに傲慢を育てる根となるものらしい。私たちが、互いに対等な立場で、自分を見、相手を見ることができるためには、そういう反省がなければならないし、またその中からほんとうの交わりが開かれる。無の心に宿る御霊の愛とはまさにこのようなものであろう。
(2)
 エディンバラでは、ロンドンと違って、日本の新聞を読む機会がほとんどない。たまたまサントリーの社員で、スコットランドのウイスキーの研究所に派遣されていた家族がいて、そのお陰で、遅れて郵送されてきた日本の新聞をたまに読むことができたが、それ以外は、もっぱらイギリスの新聞を読んだりテレビを見たりするだけだった。ユーラシア大陸の西の端にあるイギリスから正反対の極東にある日本を見ると、まずその距離感に圧倒される。そこに東と西の文化の違いが重なる。この「遠さ」は、イギリスへ来て初めて実感した。
 不思議なことに、日本で英文学をやっていた私には、イギリスはそれほど「遠い」国ではなかった。むしろ、中国やインドに比べると、文化的により近親感を覚えるほどの「近さ」にあった。この「近さ」は、イギリスへ来てみて、昔懐かしい赤い丸柱の郵便ポストを見たり、ガラス瓶に詰めた牛乳を毎朝家庭に届ける牛乳配達の車を見たりすると、日本の大正時代か昭和の始めに戻ったような気持ちになることで確認できた。
 それにもかかわらず、イギリスから見た日本は、ユーラシア大陸の反対側にあって、遠く隔たった国であるのを実感するのである。この実感は、周囲のごく普通のイギリス人たちが感じている「日本」への感覚に影響されているのは間違いない。実際、テレビや新聞を通じてみる日本は、遠いアジアの国であり、それは好奇の対象であり、多少神秘な国ではあっても、「近しい」国ではなかった。下宿のスコットランドの学生にとっても、日本はまだ「神秘な」国であった。イギリスに暮らしてみて、私は、日本人とイギリス人とが抱くこの相互の距離感の落差を意識せずにおれなかった。
 もう一つの私の「発見」は、イギリスにいると、日本人、韓国人、中国人の区別が全くつかないことであった。アジア人同士でも、言葉を交わすまで互いを識別することが難しかった。ましてやイギリス人にアジア人同士の区別がつこうはずもない。こんなわけで、私は、イギリスへ来てみて、日本がアジアに位置していて、東アジアの1員であるという、あたりまえのことを改めて意識させられた。イギリスから見る日本は、はっきりと東アジアの国であり、政治的、経済的、文化的にも東アジアの中にしっかりと組み込まれていた。
 しかもこの発見が、私にある危惧を与えたのである。たとえばイギリスの人は、お隣のフランス人が「メルシー」と言ったり、イタリア人が「グラッツイー」と言ったりしても、それが英語の「サンキュー」に当たることをおおかたの人は知っている。これが逆に、それぞれの国では、その国の言葉以外は語らないという暗黙のルール、あるいは意地となって顔を出すことがある。ロンドンのバスの中で、イタリア人が、まるで自分の国のバスに乗っているように、イタリア語で話しかけるのに対して、車掌さんが「私は英語しか話さないよ」とわざわざ断るのも、そんなルールの表れであろう。
 ところが、我が日本ではそうはゆかないのだ。試みに、日本の大学生に、韓国語で「有り難う」というのはどう言うのかを聞いてみるがよい。ほとんどの学生は知らないのである。英語の「サンキュー」は小学生でも知っているというのに。日本人のこの「隣人格差」は、フランスやドイツを「大陸」と呼んで、一線を画してきたイギリス人でさえも想像できないであろう。ハーヴァード大学のハンチントン教授が、「日本は中国を中心としたアジア文化圏ではない。日本は孤立した単独の文化圏である」と言ったのはこういうことであろう。
 私は、これからの日本が、アジアの1員としての歩みを確かなものにしなければならないと思う反面、現在の日本と日本人がアジアにあって占めている文化的な位置の危うさを意識せずにおれなかった。私は、そういう思いを日本の信友たちに率直に書き送った。イギリスの風物を紹介した便りを予想していたであろう信友たちは、アジアにおける日本の有り様に危惧を寄せる私からの便りにさぞ戸惑ったことだろう。
 イギリスは世界中に植民地を作り、その上に君臨することで19世紀に大英帝国の時代を築いた。アメリカは自分の国に世界中からさまざまな人種を受け入れながら、その「人種のるつぼ」の中から「グローバル・スタンダード」と称される白人優越の世界序列を作りあげた。翻って日本の状態はどうであろうか。中国は理念的にはマルキシズムでその伝統が儒教であり、フィリピンはカトリック、インドはヒンズー教、マレーシアはイスラム教、タイは仏教である。しかも南と北の格差は大きく、資本主義と社会主義が併存し、人種においても宗教においても、貧富の差においても、さまざまに違う国々の中でこれからの日本は自分の道を見出していかなければならない。しかも日本は、世界中の国々との交易を通じて、相互理解に基づく協調の場を作り出さなければやっていけない国なのである。日本の政治や経済だけでなく、教育とその根となる宗教的な価値観が、アジアの1員としての日本というこの視点から問われてくることになるだろう。このことを私は、イギリスではっきりと見て取った。
(3)
 エディンバラに滞在中、私は日曜日毎に、サレム教会の礼拝に出席した。イギリスの聖霊派の教会は、どの地区の教会も「サレム」という名が付いていて、イギリスでは「サレム」が、どうやら異言を語る聖霊派の教会の代名詞になっているらしい。エディンバラはいわば「イギリスの仙台」とでも言うべき古い城下町で、その昔スコットランドの首都であったし、今でもスコットランドの中心都市である。だから、市内には由緒ある石造りの教会堂があちこちに見られる。エディンバラのサレム教会もそんな古い石造りの教会堂で、17世紀に現在のスコットランド長老派教会を創ったジョン・ノックスがそこで説教しても似合いそうな風格を具えていた。
 礼拝は、儀式張ったところがなく、きわめて「自然に」おこなわれていた。出席している人たちもごく普通の中産階級の人たちが多かったように思う。しかし、さすがキリスト教の伝統の長い教会だけあって、落ち着いた秩序ある雰囲気が漂い、説教も祈りもわかりやすいながら「神学的な」内容を具えていた。祈りの時に、時折異言が語られ、これに続いてその異言が解かれることがあったが、一同が静かにその異言や解かれる言葉に聞き入っているのを見ると、霊的にもよく訓練されていて、しかもそういうことがしばしばおこなわれているようであった。
 実はイギリスの教会の礼拝に出席するのは、そこが初めてではなかった。先に妻とふたりで、ロンドンのウェストミンスター寺院の日曜礼拝にも出ていたし、礼拝ではないにせよ、ローマの聖ピエトロ寺院やカンタベリの聖堂、それにリンカーンの古い聖堂なども訪れていた。
 しかし、今サレムの聖霊派教会の座席に坐って、飾り気のない庶民的な人たちと共にいて、御霊のご臨在に包まれて、目をつむって賛美の歌声に耳を傾けていると、フォックスのプロテスタント教会の姿が浮かんできたり、ウェストミンスター寺院の礼拝の雰囲気がごく自然に甦ってきたりするのである。ここエディンバラの集会では、説教も祈りも人々の賛美も、簡素で素朴で庶民的である。ところが、その歌声の響きは、カンタベリー聖堂の合唱隊のように、さらには、はるか中世カトリック時代の賛美の歌声のように私の耳には響いてくるのである。カンタベリーの大聖堂やノートルダム寺院のがっしりとした石壁の中で守られてきたキリストの御霊ご自身が、そのまま、今エディンバラの教会堂で、ペンテコステ的聖霊派という名を帯びて歌っているのだ。キリストの御霊はその霊的な伝統から切り離すことができない。私は理屈抜きでこのことを実感した。そして分かった。先祖代々受け継がれてきた深い霊の流れを離れては、御霊の働きはあり得ないことを。7世紀のアングロ・サクソン時代から中世を経て今に至るイギリスのキリスト教の全部が、この古い建物の中で行われる単純なペンテコステの集会に凝縮して、歌声となって響いている。彼らの先祖が共にいて、キリストの御霊にあって息づいている。私はこのことを実感した。霊の伝統というものはごまかしがきかないものだ。スコットランドの一角で行われている小さな集会の中で私はそう思った。
 イギリスの聖霊派の人たちは、自分たちがイギリスの国教会といかに違うかを強調する。ほかのキリスト教の教派とも、ましてカトリック教会とは全く違うのだと言う。しかし、私が見たヴァティカンの聖ピエトロ寺院もパリのノートルダム寺院もウェストミンスター寺院も、また私が体験したヨーク市の郊外にあるヘズリントンの教区教会の礼拝も、ヨークの大聖堂での礼拝も、このエディンバラでの聖霊派の集会に流れる霊性も、そこには一貫して変わらない御霊の流れを感じるのである。深く深く流れるイギリスの聖霊の伝統がそこにはあった。
 私の想いは自然と日本におけるこれからの福音的な霊性のあり様に及んだ。キリスト教の歴史は長い。極西アジアから始まったキリスト教は、ギリシアとローマを経て、欧米へと広まった。そういう伝統的な霊性を離れては、日本の福音的な霊性などありえないだろう。福音が福音であり、キリスト教がキリスト教である限りは、過去の霊的な伝統を何らかの意味で受け継いでいなければならないからだ。しかもそれは、ここエディンバラの人たちに流れる御霊のように、日本人の心と日本の風土に深く根ざしたものでなければならないだろう。その上それは、アジアのさまざまな民族に対して、また彼らの宗教に対して、開かれた福音でなければならないだろう。これこそが「平和の福音」と言うべきものだからである。私たちはこういう重い課題を抱えて、キリストの御霊にある「日本的霊性」を求めて歩むようにと導かれているのではないか。キリストの御霊が、私たち日本人に向かって、こういう難しい路をあえて選び取って、「狭く真っ直ぐな路」を歩めと迫っているように覚えた。
 言うまでなく私も、キリスト教の抱える「負の遺産」を知らないわけではない。ユダヤ人への迫害、苛酷な植民地主義、偏狭な無知に駆り立てられた異端審問、「異教徒」への伝統的な蔑視、こういうキリスト教の陰の歴史が今でもまとわりついていることをよく知っている。「温故知新」と言うは易しいが、こういう非寛容と偏狭に縁取られたキリスト教の枠を取り払って、そこに淀む「旧約的な残滓」を取り除くのは、容易ではないだろう。しかし、それをあえてやらないのなら、いったいなんのためにわざわざキリスト教を信じるのか? 聖書を読むのか? 過去の陰を増幅させるだけなら、「世界をめぐってひとりの改宗者を地獄へ導く」くらいなら、東洋の格言に従うほうがよほど正しい。「自分が欲しないことを人におこなってはならない」と。イエスの伝えようとした福音は、ほんらいそういうものではなかったはずである。そんなことを考えているうちに、祈りが湧いてきた。祈っていると異言が与えられ、「十字架」という言葉が繰り返し出てくる。十字架に支えられて十字架を負い、十字架を伝えよという意味なのだと悟る。十字架こそ、この難しい結び目を解く鍵語なのだ。エディンバラでの集会に出席するうちに、英国に来て初めて本当の日本人としてのアイデンティティに、そして何よりもキリスト者としてのアイデンティティに目覚めさせられたのは不思議であった。
(4)
  私は、イギリスで、日本人としての自分に潜む文化的アイデンティティとイギリス人のそれとを比較したり対照させたりしながらも、異文化同士の遭遇ないしは出合いという問題を掘り下げて考えざるを得なかった。幸い私が研究していた文学的な課題のひとつに、ギリシア文化とヘブライ的な文化との衝突から融合に至る過程を探る課題があった。それは文学的というより文化的なレベルでの相互干渉であったが、その探究を通じて、異なる宗教が遭遇し、衝突し、やがて互いに挑戦し合いながら融合していく経過の中には、文学的な出合いと同じく、そこにひとつの共通した過程が考えられるのではないかと思い始めた。
 そこで私は、異なる文化と文化、とくに文化を深いところで担っている異なる宗教的霊性が出合う際に、どのようなことが起きるのかを考察し始めた。文化であれ宗教的霊性であれ、異なるもの同士が出合うときには、そこに摩擦あるいは衝突が起きるのは避けられない。しかし、どのように激しい衝突でも、どちらかの文化や宗教が、相手をただ一方的に否定してこれを絶滅させることは、相手の民族なり種族を皆殺しにして根絶やしにでもしない限り不可能である。文化の基盤となる宗教的霊性は、これを担う人間を殺さない限り抹殺できないからである。
  多くの場合、宗教と宗教とが出会うところでは、衝突と同時に融合の過程もまた始まる。この際に、Aの宗教がBの宗教を一方的にうち負かして相手を根絶することは通常ではありえない。AはBによって影響され、BはAによって感化されるからである。この段階では、相手を完全に否定することは「戦い」を、それも皆殺しの「宗教戦争」を意味する。戦いを避けて、平和に相互の関係を維持するためには、互いに融和する、現代で言う「共生する」以外に道はない。
 この融合の過程は、AとBとが互いに交流し合うようことで始まる。するとそこに新しい霊性が芽生え始める。その過程において、Aは過去のAでなくなり、Bもまた過去のBではなくなる。こうして融合が進むに従って、AでもなくBでもない新たな霊性が出現する。これをCとするなら、このCにはAもBも含まれていることになる。CはAでもありBでもあるが、融合は二つの混ぜ合わせではないから、CはAでもなくBでもないと言える。これが新しい価値観を創造する原動力になる。この段階、最早AでもなくBでもないという段階までCが成長した時に初めて、過去のAから脱却し、同時にBをも自分から排除することができるようになるのである。
  しかしながら、現実には、Aの側とBの側とが、全く同時にC段階への融合をとげるということはありえないと思われる。実際には、AかBかのどちらかが、より早く急速に相手を自己のうちに吸収するということが起こるからである。仮にAのほうがより早くBを吸収したとすれば、その段階でAには、AからCへの変容が起こる。こうなると、Bは最早Aに太刀打ちできなくなる。なぜなら、Aは最早Aではなく、それはAとBとの両方を含みつつCへと変容しているからである。変容をとげたCは、この段階でBを完全に切り捨てて排除することが可能になる。なぜなら、Aは自己のうちにすでにBの要素を宿していて、Bなしでも十分に自立できる文化的・精神的状況を創り出しているからである。これが異文化との出会いにおいて生じる受容であり、かつ受容することによって拒否を可能にする「受容と拒否」の原理である。
 キリスト教の歴史を見ると、キリスト教が他の異教を厳しく排除する時期とは、だいたいこの時期、すなわちキリスト教が新しい文化・宗教に遭遇してから、おおかたその文化と宗教とをキリスト教の中に取り込んで、キリスト教自体が変貌をとげた段階で、排除がおこなわれている。例えば、紀元2世紀にグノーシス主義に向けられた教会の排除政策もこれに当てはまる。グノーシス主義は実に多様であるが、キリスト教が排除したのはキリスト教に最も近い種類のものから全く異質なものにまで及んでいた。紀元1世紀のキリスト教には、後のグノーシスの萌芽と言えるものがすでに含まれていた(例えば『トマス福音書』)。しかしキリスト教は、グノーシスとは異なる道を歩んだ。ただし、ヨハネ福音書に見られるように、キリスト教には、すでにグノーシス的な要素が内蔵されていたのである。ヨハネの手紙が、異端者たちは「初めから」自分たちとは異なる人たちであったと述べているのに、グノーシスの異端が、一見キリスト教の「内部から」でてきたように見えるのはこのためである。
 このように、文化と文化との出逢い、とりわけふたつの宗教的霊性が衝突したり遭遇したりするところでは、どちらがどちらを吸収して新しい霊性を創造できるかが重大な課題になる。この場合に、聖書の神は、他のいかなる神よりもその力を発揮する。それはなぜだろうか? その理由は、聖書の神が、そもそもの起源において「土地をもたない神」だったからである。聖書の神は、異なる宗教的環境に遭遇すると、必ず先祖のヘブライの精神、すなわち「土地を持たない人たちの神」へと回帰した。こうすることで、新しい状況にあって、その地域の土着の文化の宗教的霊性を自己の内に同化し、これの「ヤハウェ化」を達成することができたからである。
 ではその同化の過程において、イスラエルの神は、その独自の特性を見失うことがなかったのだろうか? なかったとすれば、それはなぜだろうか? イスラエルの神概念やこれに伴う祭儀は、けっしてイスラエル独自のものではない。聖書の宗教には、旧約以前からの人類の長い歴史が息づいている。では、聖書の宗教の特徴とはいったいなんであろう? それは、人間と人間を取り囲むさまざまな霊的状況にあっても、それらのいっさいを超えた神を見失わなかったこと、と同時に、これ以上に大切なのは、その神と人間である自分自身との親密な「近さ」、すなわち「交わりの確かさ」を追求し続けたことにある。神の超絶と同時に神と自己との「親しい交わり」を保ち続けること、これこそが他の神々の追従を許さない聖書の神の特徴である。この意味で聖書は「一神教の」書ではない。聖書は「一神教化する」書なのである。受容と拒否のこの道筋は、けっして真っ直ぐでもなければなだらかでもない。しかし、ユダヤ=キリスト教の神は、その長い歴史の歩みの中で、常にこの「聖書化する過程」を繰り返しつつ歩んできているのである。
戻る