1章 『古事記』について
■『古事記』の語り
 『日本書紀』は、「神代の巻」から始まるが、中国の古典にあやかって、歴代天皇の系譜をとにかく「史実らしく」語る目的で書かれている。しかし、同じ頃に書かれた『古事記』は、そうではない。その上巻では、大八洲(おおやしま)神話と、天照大神(あまてらすおおみかみ)神話と、天孫降臨(てんそんこうりん)神話とが語られ、中巻と下巻では、神武天皇に始まり推古天皇で終わる天皇の系譜が語られる。「神話」から「歴史」へと移行する記紀のこの構成は、創世記のそれと同じである。
 ここでは、より神話性の強い『古事記』をとりあげる。『古事記』の序(一段〜三段)までは、中国の経典を踏まえた格調高い漢文体である〔『古事記』倉野憲司校注(岩波文庫)13〜18頁〕。序の一段で語られる天地の始まりは、奇しくも、ネストリオス派の景教碑文の初めと符合するところがある〔コイノニア会ホーム・ページの聖書講話欄の「ネストリオス派と景教」を参照〕。本文に入ると、語り部の稗田阿礼(ひえだのあれ)が唱える古代から大和朝廷に伝わる神話が、太安萬侶(おおのやすまろ)の流麗な文体で漢字で表現されている。当時の「聴き取り書き」は、筆記者にかなりの自由が認められていたから、本文中に挿入されている注も含めて、その文体は語り部そのものとは異なっている。
 にもかかわらず、巫女の家系稗田の家の阿礼(あれ)の語りは、それにふさわしく霊性を帯びていることが本文から感得できる。阿礼は、ここで「歴史的な事実」を伝えようとしているのではない。巫女にふさわしく、彼女の女帝元明天皇の時代に宛てて「託宣」しているのである。『古事記』(岩波文庫)の「大国主神」の段の(5)「須勢理毘売(すせりびめ)の嫉妬」の欄に、「これを神語(かむがたり)と謂(い)ふ」とあるのは、阿礼が行なっているのが、伝統の「神語(かみがたり)」であることを指している。
■『古事記』の習合
 『古事記』の神話は、「この國にた道速振(ちはやぶ)る荒振(あらぶ)る國つ多(さわ)なりと以為(おも)はす。これ何(いづ)れの神を使わしてか言趣(ことむ)けむ」とあるように〔『古事記』岩波文庫/序第二段「葦原中國の平定」(1)天菩比神(あめのほしひのかみ)〕、最古の荒々しい征服欲と血なまぐさい暴力の神武天皇の神々から発している。しかしながら、その暴力と殺戮の歴史は、道教的な宇宙観と儒教の徳目によって脚色されている。言い換えると、阿礼の語る建国神話は、大和朝廷が、道教と儒教を習合することによって、古代の大和朝廷からの建国神話を変容させているのである。
 ただし、『古事記』と『日本書紀』では、一つ大きな違いがある。それは、『古事記』は、推古天皇のごく簡略な紹介で終わっているから、推古帝の大事な出来事である聖徳太子以後の出来事には触れていない。言い換えると、『古事記』には、大和朝廷の神道成立と、これと道教(と儒教)との習合は反映されているが、大和朝廷の仏教受容と、続く神仏習合には一切触れられていないのである。
 したがって、『古事記』では、仁徳天皇が、渡来人「秦人(はたびと)」を用いて行なった数々の善政の美徳が、その后(きさき)石之日賣命(いはのひめのみこと)の嫉妬深い悪徳と対照されて語られる(道教の影響)。しかし、太子の御子山背大兄王(やましろのおほえのみこ)が、蘇我入鹿(そがのいるか)による攻撃を受けた際に、御子が、戦によって被るであろう「百姓(おおみたから)」の害悪を避けるために、勝てる戦をあえて行なわず、身を挺(てい)して、一族もろとも入鹿に滅ぼされるという仏教の「捨身飼虎(しゃしんしこ)」の慈悲の行為は、『古事記』には出てこない。『古事記』では、仲哀天皇の后(きさき)神功皇后が、遠征をしぶる天皇を励まして、自ら新羅征伐への遠征に向かう勇ましい姿が語られている。しかし、仏教受容以後の8世紀において、聖武(しょうむ)天皇の后として、悲田院を建てて飢えと病に苦しむ民を助けた光明皇后は『古事記』に出てこない。この皇后は、法華寺の十一面観音にその姿を遺すと言われる。ちなみに、『古事記』では、『日本書紀』が伝える武烈天皇の悪逆非道な行為も省かれている。
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