3章 記紀が語る天地の初め
■『古事記』と『日本書紀』の比較
シャハンの引用部分にあたる『古事記』と『日本書紀』との記述を比較してみよう。
(1)神の名前については、『古事記』の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と神産巣日神(かむむすひのかみ)の三柱は、『日本書紀』では、第四番目の「一書(あるふみ)に曰く」として出てくる。ただし、『日本書紀』では、「神(かみ)」ではなく「尊(みこと)」とある。『古事記』の「神」は神性が強く、『日本書紀』の「命/尊(みこと)」は人間的な要素が強いと言えよう〔岩波文庫『古事記』20頁脚注(4)〕。「命(みこと)」は、ほんらい「御言(みこと)」として命令を発する者の意味から出たもので、「尊(みこと)」は後代(8世紀?)の文字である〔岩波文庫『日本書紀』(1)補注(8)315頁〕。
(2)『古事記』では、三柱に続いて二柱が、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)と天之常立神(あめのとこたちのかみ)が来る。しかし、『日本書紀』では、先(1)の第四番目の「一書に曰く」の中で、三柱の<前に>、「天地初めて判(わか)るるときに、始めて倶(とも)に生(なりいづ)る神有(かみま)す」として、国常立尊(くにのとこたちのみこと)」の名前が<最初に>出てくる。また、『古事記』の宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)は、第二番目の「一書(あるふみに)に曰く」の中に「可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)」として出てくる。なお、「葦牙(あしかび)」は、『日本書紀』の最初の文だけでなく、「一書に曰く」でも、繰り返されている。
(3)『古事記』の「國稚(くにわか)く浮きし脂(あぶら)の如く」は、『日本書紀』では、第二番目の「一書に曰く」の中に「國稚(くにい)しく地(つち)稚(い)しき時に、譬えば浮膏(うかべるあぶら)の猶(ごと)くして漂蕩(ただよ)へり」とある。なお『日本書紀』の「浮膏(うかべるあぶら)」は、第六番目の「一書に曰く」の中にもある。
(4)もう一つ注目したいところがある。それは、『古事記』の「葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あ)がる物」である。訳では「葦の芽が泥沼の中から萌え出るように、萌えあがる力が」とある。この訳し方は意訳で、おそら「葦牙(あしかび)」が宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)と結びつくからであろう。『日本書紀』の第五番目の「一書に曰く」には「海上(うなはらのうえ)に浮かべる雲の根係(ねかか)る所無い」ところに、「其の中に一物(ひとつのもの)生(な)れり。葦牙(あしかび)の初めて泥(ひじ)の中に生(おひい)でたる如し」とある。おそらく『日本書紀』の第六「一書に曰く」にある可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)の「ヒコヂ」は、ほんらい「こひじ(「泥」の古語)」が訛(なま)ったものであろう〔前掲書『日本書紀』(1)補注(1)の(五)310頁〕。『古事記』の宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)は、その後の宇比地邇神(うひぢにのかみ)と妹須比智邇神(いもすひぢにのかみ)と共に、「泥(沼)」を象徴する名前であろう〔倉野前掲書『古事記』脚注(11)19頁〕。
■五柱(いつはしら)七代(ななよ)
『古事記』では、以下に見るように、初めに造化の三神である天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と神産巣日神(かむむすひのかみ)が出てくる。続いて、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)と天之常立神(あめのとこたちのかみ)が来て、これら五柱は、伴侶を持たない獨神(ひとりがみ)である。この五柱は、天の神々の中でも「別天(ことあま)つ神」(特別な神)とされている。
これに続いて、先ず國之常立神(くにのとこたちのかみ)と豊雲野神(とよくものかみ)の二柱の「獨り神」が来る。続いて「宇比地邇神(うひぢにのかみ)と妹須比智邇神(いもすひぢにのかみ)」と「角杙神(つのぐひのかみ)と妹活杙神(いもいくぐいのかみ)」と「意富斗能地神(おほとのぢのかみ)と妹大斗乃辨神(いもおほとのべのかみ)」と「於母陀流神(おもだるのかみ)と妹阿夜訶志古泥神(いもあやかしこねのかみ」と「伊邪那岐神(いざなきのかみ)と妹伊邪那美神(いざなみのかみ)」の五組の二柱が来る。『古事記』は、獨り神の二柱と五組の二柱とを併せて、「神世七代(ななよ)」と呼んでいる。『古事記』のこのような分類と構成は、「3」「5」「7」という数秘に従っていて、これら三つの数は、中国の道教の陰陽の「陽数」にあたる〔前掲書『日本書紀』(1)317〜318頁補注(11)〕。
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