5章 天照大神
        
(あまてらすおおみかみ)
 『古事記』では、イザナミが、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)(別名が二つ)を生んだとき「みほと(陰部)灸(や)かえて病(や)み臥(こや)せり」とあり、火の神を産んだために黄泉(よみ)(死者の國)へ降ることになった。そこで、イザナキは、柄の長い剣で、二人の間に生まれた子の迦具土神(かぐつちのかみ)を斬り殺して、イザナミに会おうと黄泉へ降るが、イザナミは「吾(あ)は黄泉戸喫(よもつへぐい)しつ」(黄泉の国の食べ物を口にした)と告げて、「よみがえり」できない。ところが、イザナキは、死者となったイザナミの醜(みにく)い姿を見たために、彼女の怒りを買い、「事戸(ことど)を渡(わた)して」(離縁して)逃げ帰ることになる。黄泉(よもつくに)から逃げ帰ったイザナキが、禊(みそぎ)を行ない「ここに左の御眼を洗ひたまふ時に、成れる神の名は天照御大神(あまてらすおほみかみ)」と『古事記』にある。
 『日本書紀』で、「天照大神」(あまてらすおおみかみ)の名が本文として出てくるのは、イザナキとイザナミによる大八洲誕生のすぐ後に、ふたりは「日の神」として大日?貴(おほひるめのむち)を生む。「ヒルメ」は「日の妻(め)」の意味で太陽神に仕える巫女(みこ)のことであろう〔岩波文庫『日本書紀』(1)35頁注(6)〕。書紀には、ここに「一書に曰はく、天照大神」と注記してあり、これがアマテラスの書紀の初出である。書紀ではその後に、『古事記』と同様に、イザナキの禊(みそぎ)の際に「左の眼(みめ)を洗ひたまう。因(よ)りて生める神を、号(なづ)けて天照大神(あまてらすおほみかみ)と曰す」とある。
 『古事記』で「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時」に登場するタカミムスヒとカムムスヒの二柱は、(モンゴル経由の?)北方系の神々であり、これに対して、アマテラスのほうは、農耕と稲作による南方系(インド/中国雲南省/インドネシア)の母系社会から出た女神であると言われている〔岩波文庫『日本書紀』(1)補注(1)36。334頁〕。古代日本で行なわれていた太陽崇拝は、農耕社会の祭儀に属するもので、伊勢神宮は、ほんらい太陽神を祀る神社であった。ちなみに、イスラエルの「ベイト・シェメシュ」(太陽の家)も同様である。
 古代日本では、太陽崇拝が各地で様々な祭儀の形で行なわれていたと思われるが、大和朝廷によって、それらが、皇室の祭儀として統一されていったと考えられている。この統一の過程で、太陽神は、「皇祖神」として位置づけられ、天皇とその地位は、太陽神を皇祖神とすることで宗教的に権威づけられた。太陽を祀る祭儀は、もともと巫女との関わりが深い。したがって、天皇は、皇祖神を祀るための「最高位の巫子」となる。古代日本で、巫女の女王が実在したこともこのことの証(あか)しである。巫子であり大王(おおきみ)である天皇が行なうのが政(まつりごと)なのである〔岩波文庫『日本書紀』(1)補注(1)36。335頁〕。なお、伊勢神宮の起源は、古くは伊勢の地方神であった太陽神が、雄略天皇の頃から大和朝廷との関係を深め、壬申の乱に際して、天武天皇が伊勢の勢力の援助を受けたことから、皇室の神とされた。その結果、それまで、地方神として祀られていた神社の神が、外宮に移されたと考えられている〔岩波文庫『日本書紀』(2)補注(6)10。351頁〕。
                 記紀の天地と国生み神話へ