6章 イザナギとイザナミの神話
■シャハンの引用
シャハンは、「『古事記』からの引用」と言いながら、『日本書紀』のほうにある「一書に曰く、古(いにしえ)に國稚(くにい)しく地稚(つちい)しき時に、譬(たと)えば浮膏(うかべるあぶら)の猶(ごと)くして漂蕩(ただよ)へり。時に、国の中に物生(ものな)れり。状葦牙(かたちあしかび)の抽(ぬ)け出(い)でたるが如し。此に因(よ)りて化生(なりい)づる神有(ま)す。可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)と号(まう)す。次に国常立尊(くにのとこたちのみこと)。次に国狭槌尊(くにのさつちのみこと)」とあるのほうをも併せている。これに続いてシャハンは、『古事記』のイザナギとイザナミが天から「天の浮橋(うきはし)」に乗って、そこから鉾(ほこ)を水に入れて、日本の最初の国「オノゴロ」島を誕生させたことに目を向けている〔シャハン『失われた十部族』221頁〕。
■イザナギとイザナミの国生み
『古事記』では、神世七代に続いて、伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が、先の五柱の天つ神々から、「この漂(ただよ)える国を修(をさ)め理(つく)り固(かた)め成(な)せ」と命じられて、「天(あめ)の浮橋(うきはし)」に立って、「沼矛(ぬぼこ)で、鹽(しほ)を畫(か)き鳴(な)」すと、その矛先から垂り落ちる鹽(しほ)が積もって淤能碁呂島(おのごろじま)が出来たとある。イザナギとイザナミは、その島に柱を立て、八尋殿(やひろどの)を建てて、「国土(くに)を生み成さむと以為(おも)い」、柱を左回りに巡って、イザナミのほうから声をかけて「まぐはひ」(性交)するが、生まれた子は水蛭子(ひるこ)(蛭のように骨がない子)であった。そこで、改めて、右回りして、イザナギのほうから声をかけると淡路島が生まれ、次に四国、次に隠岐の三島、次に九州を次々に生み、最後に大倭豊秋津島(おほやまととよあきづしま)を生んで、「大八島國(おほやしまぐに)」が誕生したとある。「クニ」とは、ほんらい「人の住む場所」のことであるが〔萩原・鴻巣『古事記:上代歌謡』50頁注(7)〕、とりわけここでは、「大和の民が住む国土」がその念頭にあると見ていいであろう。
『古事記』では、この物語から、「神」が「命(みこと)」に変わるから、神話化による擬人化(personification)が一段進んで現実の人間に近い存在になる。「鹽を畫(か)き鳴(な)す」とは、塩釜に入れた海水を煮詰めてかき回すときの音のことだとある〔萩原・鴻巣『古事記:上代歌謡』注(9)52頁〕。また、大倭豊秋津島(おほやまととよあきづしま)は、本州を指すという説〔前掲書注(8)56頁〕と、「大和を中心として畿内地域」のことだという説〔倉野『古事記』岩波文庫。脚注(9)23頁〕とがある。テキストの読み手によって、解釈が時代と共に変化するのは自然である。『古事記』では、先の五柱の獨神(ひとりがみ)の場合は「成る」とある。イザナギとイザナミの場合も、淤能碁呂島(おのごろじま)までは、「固め成せ」と命を受けると「島と成りき」とあるのに、夫婦の「まぐあい」になると「生む」と変わるところが注目されている。「成る」から「生む」へ自然の営みが人間化されているのが分かる。
『日本書紀』でも国生みの内容はほぼ同じであるが、伊奘諾尊(いざなきのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)が、「是(ここ)に、陰陽(めを)始めて溝合(みとのまぐはい)して夫婦(をうとめ)と為(な)る」とあって、国生みが、夫婦の交わりによることがより明らかにされる。『日本書紀』では、始めのオノコロジマと淡島(あはのしま)の二つは、出来損ない?として数の入れず、改めてイザナキが先に語り始めることで、大大和豊秋津島(おほやまととよあきづしま)が先ず生まれ、その後で淡路島が生まれるから、『古事記』とは誕生の順が異なる(ただし、以下の「一書に曰く」では、淡路島のほうが先である)。
■イザナギと黄泉のイザナミ
イザナキの「イザ」は誘いを意味し、「ナ/ノ」は助詞で「キ」は男性を示す。妻イザナミを求めて黄泉へ降るが、そこから戻って禊(みそぎ)をすると、目から日神と月神が生まれ、花を洗うと暴風神スサノヲが生まれる。イザナキは天に住む天神である。この神話は、狩猟採集民から出ていて、父権が重視されていることから遊牧民の神話系統に属する。イザナキに対してイザナミは、その排泄物から土地や土器の神々を生み、水の神(灌漑・肥料とかかわる)、食物や穀物の神となる。黄泉(死)をも司ることから、大地の根元を司る太母神(たいもしん)である。イザナキが遊牧系であるのに対して、イザナミは農耕系だと指摘されている〔前掲書『日本書紀』(1)補注(1)の(21)325〜326頁〕。イザナキとイザナミとの夫婦仲は、国生みまでは善かったけれども、イザナミが「黄泉(よもつくに)」(死者の國)へと降るに及んで、イザナキは妻を取り戻そう試みるが、是に失敗して、遂に「縁を切る」(離婚する)ことになる。「ヨモツクニ」の「ヨ」は「ヨ/ヤミ」と共通して「闇」を意味する。これは、深い洞窟のことであろう〔岩波文庫『日本書紀』(1)補注(1)の(55)342頁参照〕。妻/愛人を求めて黄泉へ降り、連れ戻そうとするが失敗する神話は、オリエントの古代の神話にも共通する(コイノニアホーム・ページの聖書と講話欄→豊穣神話を参照)。洞窟が死の國へつながるのも、パレスチナとギリシア神話に通じているから、これらは人類に普遍する原神話からであろう。
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