2章  メソポタミアのエンキとニンフルサグ
 ここで紹介するのは、メソポタミアでも最古の部類に属すると思われるシュメールの神話である〔「エンキとニンフルサグ」筑摩世界文学大系『古代オリエント集』(1)15〜22頁〕。舞台となる場所が、ペルシア湾の奥深い「ディルムン」(現在のバフレイン島)であるから、ウルやウルクの都市の成立(前3000年頃)以前から伝えられたものかもしれない。ただし、わずか280行あまりのこの神話が筆記されたのは前2000年の頃である。したがって、文中には欠損箇所が多い。ここでは、この「エンキとニンフルサグ」から、その内容を抜粋して紹介する。
 シュメールの神話では、天の男神アンと、空中の大気の男神エンリルと、水と知恵の男神エンキとその妻で地母神のニンフルサグ(またの名はニンスィキル、あるいはニントゥ)が、主な神々である。この神話の舞台であるディルムンは不思議な所である。ライオンがその餌食を殺さず、狼も仔羊を掠めることをせず、目を患う人が「眼病だ」と言わず、頭痛持ちも「頭痛だ」と言わないし、老婆も「年老いた」と言わない。ちょっと見ると結構な楽園のようであるが、実はそうではなく、「町に水が溢れない」とあるから、水(淡水)が枯渇したために、人も動物も生気を失ってしまったのである〔前掲書解説16頁〕。
 そこで、ニンスィキル(ニンフルサグ)がエンキに希(こいねが)うと、エンキは、ウトゥ(太陽神)に命じて「苦い水(海水)の井戸を甘い水(淡水)の出る井戸にするように! ディルムンを国土の穀物倉(くら)とするように」と唱えると、ウトゥは「今輝く陽光」となり、大地から甘い水が、彼女(ニンスィキル)のために流れ出た。そこで、「彼女の町(ディルムン)は、豊かに水を飲み、田畑と耕地は穀物を実らせ、ディルムンは穀物倉となり、ウトゥは輝く陽光の中にいる」ようになった。
 そこで「知恵を有するエンキは、自分の一物(性器)を国土の母であるニントゥ(ニンフルサグ)に向けて、その一物で溝を掘り返した(性交した)」。すると彼女は言った「沼沢地には誰もやってこないでしょうね」と。エンキは答えた「沼沢地に誰もやってきはしまい」と。これで見ると、水の神エンキは、沼地の神であったことが分かる〔前掲書18頁。脚注(25)〕。エンキがニンフルサグのほと(陰部)に子種を注ぎ込むと、ニンム(植物と青野菜の女性)が産まれた。エンキがニンムと結ばれるとクルラ女神が産まれた。エンキは沼地で、今度はこのニンクルラを「胸にかき抱く」と、バターのようなウットゥ(機織りの女神)を産み落とした。こうして、エンキは、沼地で次々と女神たちと結ばれて、密草や桂皮樹等が産み落とされた。ところが、エンキは、産み落とされた8種類の草を食べてしまうので、ニンフルサグがエンキに呪いをかけた。すると、エンキは衰え始めた。そこでエンリルを始めアヌンナキたち(日本で言う千万の神々)が座り込んで相談すると、狐が現われてエンリルに告げた。「もしわたしがニンフルサグをあなたの前に連れてきたら、何をくださいますか。」エンリルは答えた。「もしお前がニンフルサグをわたしの前に連れてきたら、木を植えてお前の名前を町の人々に呼ばせよう(崇めること)。」狐がニンフルサグを連れてくると、アヌンナキたちは、彼女の着物を掴んだ。そこで、ニンフルサグは、エンキのあちこちの患部を癒すために、ニンキリウト(鼻を生む女性)やニンカス(口を満たす女性)やナズィ(心臓を癒す女性)やアズィムア(腕をまっすぐにする女性)やニンティ(肋骨の女性)等を次々に産んだので、エンキは元気を取り戻した〔前掲書21〜22頁。脚注(60)〜(78)〕。
 一読して分かるように、この神話では、天地の分かれについては何も語らない。主役は大気のエンキとその妻であるニンフルサグで、沼沢地での二人の性交によって国土の植物と穀物が生え育つ。ところが二人の間に亀裂が生じて(水害や干ばつを指すのか)、千万(ちよろず)の神々と狐の働きで国土が回復する。これは『古事記』の国生み以後の神々の神話と通底するところがあるから、『古事記』の神話は、人類の最古(?)の神話とも共通する性格を具えているのが分かる。
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