テサロニケの首都大司教
グレゴリオス・パラマスの
信仰宣言
神聖なる教会会議の際に
万人の聞こえるように読み上げられ
あらゆる点でこの上もなく敬虔なものとして
万人によって確証され尊ばれたもの
朱門岩夫 訳
最終更新日18/12/29
訳者による緒言
本作品は、「十四世紀のギリシア正教会の偉大な神学者、神秘思想家、霊性の師であった1)」テサロニケの大司教、聖グレゴリオス・パラマス(1296-1359)の晩年の作品、『信仰宣言』である。
教会会議の際にさいに荘厳に宣言されたパラマス自身の信仰告白であり、かれのキリスト教信仰を簡潔に要約している。
本作品の現代語訳は、わたくしの知るかぎり、H.シェーダーのドイツ語訳のみである2)。本作品の邦訳は、訳者朱門岩夫が仕事の合間をぬって、苦心惨憺の末、仕上げたものである。
岳野慶作「訳者まえがき」『聖グレゴリオス・パラマス』(J.メイエンドルフ著)中央出版社、一九八六年、一頁。
Cf.H.Schäder, das Wort und Mysterium,1958, pp.217-224.
解説
本作品の解説として、パラマス研究の大家J・メイエンドルフの、大作『グレゴリオス・パラマス研究入門』の巻末に記載された作品解説のなかから、いくらかを引用するにとどめておく。
「信仰宣言という表題は、1351年に開催された公会議の荘厳な朗読に関係している。この文書は、公会議の際に、ヘシュカスム(静観主義)の博士の教えのもっとも十全な表現とみなされた。その点で、パラマスのその他の論考と際立った対照をなしており、これほど正確な表現をほかに見出だすことはできないだろう。公会議によるこの信仰宣言の承認は、それに公式文書としての性格を与えた。そして、それは、数々の古代写本のなかで、しばしば教会会議文書に伴うことになった。この信仰宣言は、パラマスが、たぶん神聖な司教職に就任した1347年に提示したものであろう。作成年代は、パラマスが宮廷に幽閉されていた時期にさかのぼる3)」。
J.Meyendorff, Introduction à l'Etude de Grégoire Palamas, Paris,1959, pp.365-366.
グレゴリオス・パラマスの信仰宣言
唯一の神、すべてのものに先立ち、すべてのものに臨み、すべのものの内にあり、一切を超える神、おん父とおん子と聖霊[聖神]とにおいて我々によって伏し拝められ、信ぜられる神。三位における唯一の神、そして、混ざることなく一つに結ばれ、分かたれずに分かたれた、唯一の神における三位。全能なる唯一にして三位。無時間的なおん方としてばかりでなく、いかようにも原因を持たないおん方として、元なきおん父。おん子と聖霊との内に観察される神性の原因であり、根であり、根源である唯一のおん父。数々の造られたものをあらかじめ準備した原因である唯一のおん父。唯一の創造主であるばかりでなく、おん独り子の唯一のおん父、そして、聖霊の唯一の発出者。常にましまし、常におん父であり、常に唯一のおん父であり発出者。おん子と聖霊よりも偉大なおん者、ただこの点でのみ(両者の)原因であるおん方。しかしその他のすべての点では、それらとともに等しく敬われるべきおん方。
おん子はそのおん方の唯一の独り子。無時間的なおん方として元なきおん方。しかしおん父を、元として、根として、根源として持つおん方としては、元なきおん方ではない。ただおん父だけから、すべての代々に先立って、非物体的に、非流出的に、非受動的に、誕生的に由来した。しかしおん父とは分かたれなかった。神よりの神。神である点では別のおん者ではなく、しかし、おん子である点では別のおん者。常にましまし、常におん子であり唯一のおん子。そして、常におん父とともに混ざることなくましますおん方。三位の内に理解される神性の原因でもなく元でもない。なぜなら、おん子は、おん父を原因および元とするおん者。しかしすべての造られたものの原因であり元であるおん方。なぜなら、すべてのものは、おん子を通して造られたから。そのおん方は、神の身でありながら、神と等しくあることに固執しようとはされなかった。むしろ代々の終わりにのぞんでご自分をむなしくされ、われわの身をお取りになり、終生処女であったマリアから、おん父のよしとされるままに、聖霊の協働のもとに、宿り、自然の法則に従って生れ、神であると同時に人間。そして、本当に受肉された[人間の本性をお取りになった]おん方として、罪を除いてはすべての点で我々と同じになった。かつてのままであり続け、真の神であり、混ぜることなく、変えることなく、二つの本性と、(二つの)意思と、(二つの)エネルゲイアとを一つに結び合わされたおん方。そして、受肉の後でさえも一つのヒュポスタシスにおいて唯一のおん子であり続けたおん方。神として神的なすべての事柄を働かれ、人間として人間的なすべての事柄を働かれたおん方。そして非の打ちどころのない人間的な諸情念に服されたおん者。神としては苦しみを受けず不死であるおん方。しかし人間としては、みずから進んで肉において苦しみを受けられたおん者。そして十字架に付けられ、死して葬られ、三日目に復活された。また、このおん方は、ご復活の後、弟子たちに顕れ、いと高きところよりの力(が来ること)を約束され、すべての民を弟子として、おん父とおん子と聖霊のみ名に入れる洗礼を授け、お命じになられたことをすべて守るように教えよ、と命令された。そして、おん子ご自身は、天に上げられ、おん父の右に座し、我々の肢体を、神に等しいものとして、等しく敬われるもの、玉座を同じくするものとされた。おん子は、この肢体を伴って、栄光の内に再び来たり、生ける者たちと死せる者たちとを裁き、各々の業に応じて報い給うことになっている。しかし、おん父のみもとに昇られたそのとき、ご自分の聖なる弟子たちと使徒たちに、聖霊を遣わされた。
聖霊は、おん父から発出する。無時間的なおん者として、おん父とおん子とともに元なきおん方である。しかし、聖霊も、おん父を根、根源、原因として持つかぎりで、しかも生まれたおん方としてではなく、発出した者としては、元なきおん方ではない。すなわち、聖霊も、おん父から、すべての代々に先立って、非流出的に、非受動的に、誕生的にではなく発出的に、由来した。そして、おん父から由来し、おん子の内にとどまるおん者として、おん父とおん子とから分かたれず、混ざることなき一致と区別されざる区別とを有している。聖霊も、神よりの神であり、神である点では別のおん者ではない。しかし、弁護者、自律的なヒュポスタシスを有する霊である点では別のおん者。おん父から発出し、おん子を通して遣わされる、すなわち、顕れる。聖霊も、すべての造られたものの原因である。なぜなら、すべての造られたものは、聖霊において仕上げられたからである。その同じ聖霊は、(おん父と同じ)不生出と(おん子と同じ)誕生とを除いては、おん父とおん子とともに敬われるべきおん者。そして、おん子によって、ご自分の弟子たちに遣わされた、すなわち、顕れた。実際、おん子と分けられざる聖霊は、これ以外のどういう仕方で、おん子によって遣わさたのだろうか。また、それ以外のどういう仕方で、あらゆるところにおられる聖霊は、私のところにくることができようか。それゆえ、聖霊は、おん子によって遣わされるだけでなく、おん父によっても遣わされ、おん子を通して遣わされる。しかも聖霊は、みずから来て、顕れる。なぜなら、聖霊の派遣、すなわち、聖霊の顕現は、(三位に)共通の業だからである。しかし、聖霊は、実体において顕れるのではない。「実際、神の本性を見たり、語り明かした者は、いまだかつて一人もいない」。むしろ、恵みとデュナミスとエネルゲイアの内に顕れる。これらは、おん父とおん子と聖霊に共通している。
たしかに、おん父とおん子と聖霊のそれぞれのヒュポスタシスと、それぞれのヒュポスタシスに関係するすべてのものとは、各々に固有である。しかし、超実体的な実体――一切の名称と一切の顕現と一切の分有とを超えたものとして、絶対に命名されず、顕れず、分有されざる実体――だけが、(おん父とおん子と聖霊とに)共通しているのではない。恵みとデュナミスとエネルゲイア、および、輝きと支配と不滅性、一口に言えば、神がそれにおいて、聖なる天使たちや人間たちと交流し、恵みに即して彼らと一つに結ばれるところのすべてのものが、共通している。しかし(三つの)諸ヒュポスタシスの可分性と相違のゆえに、また、諸々のデュナミスと数々のエネルゲイアの可分性と多様性のゆえに、唯一の神性における唯一全能の神が、我々に対して、このように単純性を奪われて、ましますのではない。なぜなら、完全なる諸ヒュポスタシスからは、複合は決して生じえないからであり、神がデュナミスや諸々のデュナミスをお持ちであるという、その可能性は、まさに可能であるというそのこと自体によって、真実に複合的である、などとは決していいえないからである。
それらのことに加えて、我々は、我々のために人間となられたという点で限定された神のおん子の聖なるイコンを相関的に崇拝し、この崇拝を相関的に(そのイコンの)原型に捧げている。そして、十字架の尊い木、神のおん子の数々の苦しみのすべての象徴を、我々人類の敵に対する戦勝記念碑として崇拝する。また、尊い十字架の救いをもたらす形象とともに、数々の神的な聖堂と聖所および神聖なる(祭儀)用具、そして神によって伝えられた数々のみ言葉を、神がそれらの内に宿るがゆえに、崇拝する。同様に我々は、すべての聖なる人たちのイコンを、彼らへの愛と、彼らが真実に愛しお仕え申し上げた神のゆえに崇拝する。我々は、それらのイコン(に描かれた聖人たち)の姿を崇拝しながら、思いを捧げるのである。また、我々は、聖人たちの数々の棺そのものをも崇拝する。なぜなら、彼らのこの上もなく神聖な遺骨が有する聖化の恵みは、ちょうど主のおん身体から、三日間の死の間に、神性が分かたれなかったのと同じように、消滅することがないからである。
我々は、実体的な悪を何も知らない。また、神から与えられた自由意思を悪用した数々の理性的存在者の離反の他には、悪の元が存在しないことも知っている。
我々は、すべての書き記された、また、書き記されざる教会伝承を堅く守る。そして何よりも、もっとも秘跡[機密]に満ちた神聖極まりない(感謝の)祭儀[聖体機密の礼儀]と(聖体)拝領[領聖]と御言葉の典礼[礼儀]とを堅く守る。その礼儀によって、その他の諸祭儀も完成される。すなわち、その祭儀において、ご自分をむなしくすることなくむなしくされ、肉を取り、我々のために苦しみを受けられたおん方の記憶のために、かのおん者の畏れかしこむべきご命令と率先に従って、この上もなく神的なもの、すなわち、パンと杯とが奉献され、聖別される。そして、あの生命の源たるおん身体とおん血そのものがもたらされる。また、浄く近づく者たちに、それらへの参与と領聖とが恵みとして与えられるのである。
しかし、聖霊が預言者を通して予言されたこと、主が肉を通して我々に顕れて、お語りになられたこと、使徒たちが主によって派遣され、宣教したこと、我々の諸教父および彼らの後継者たちが我々を教えたこと、これらを告白し信ぜず、独自の異端を創始したり、悪しき創始者たちに最後まで付き従う者たちを、我々は放遂し、呪咀のもとに投げ捨てる。
また、我々は、数々の聖なる公会議[全地公会議]を受けいれ、承認する。すなわち、神に戦いを挑んだアレイオス――彼は、神のおん子を不敬にも被造物に引きずり下ろし、おん父とおん子と聖霊との内にある伏し拝められるべき神性を、造られたものと造られざるものとに引き裂いた――に対する、神を戴く310人の教父たちのニカイアにおける公会議を。この公会議の後の、コンスタンティノープルのマケドニオス――彼は、聖霊を不敬にも被造物に引きずり下ろし、唯一の神性を、アレイオスに劣らず、造られたものと造られざるものとに引き裂いた――に対する、150人の教父たちのコンスタンティノープルにおける公会議を。この公会議の後の、コンスタンティノープルの総大司教ネストリオス――彼は、キリストにおけるご自分の神性と人間性とのヒュポスタシスにおける統一を否定し、本当に神を産んだ処女を、神の母[生神女]とは決して呼ぼうとしなかった――に対する、200人の教父たちのエフェソスにおける公会議を。そして、エウテュケスとディオスコロス――彼らは、邪にも、キリストには一つの本性しかないと教えた――に対する、630人の教父たちのカルケドンにおける第4回公会議を。そして、この公会議の後の、テオドロスとディオドロス――彼らは、ネストリオスと同じ諸見解を抱き、既にいにしえの人となったオリゲネスとディデュモスおよびエウアグリオスなる人物の諸著作によってネストリオスの諸見解を推奨して、神の教会の中に幾つかの作りごとを導き入れようと試みた――に対する、165人の教父たちのコンスタンティノープルにおける公会議を。さらにその後の、コンスタンティノープルの総大司教に登位したセルギオス、ピュロス、パウロス――彼らは、キリストにおける二つの本性に応じた二つのエネルゲイアと二つの意思とを否定した――に対する、170人の教父たちの、同じコンスタンティノープルにおける公会議を。また、聖画像破壊論者たち[イコンに戦いを挑む者たち]に対する、367人の教父たちのニカイアにおける公会議を。
さらに、我々は、然るべき時に然るべき場所で、信仰と福音的市民生活の確保のために、神の恵みに従って招集されたすべての教会会議を承認する。これらの諸教会会議には、この大都にある喧伝かまびすしい神の聖なる知恵の聖堂[神の聖ソフィア聖堂]で、カラブロス[カラブリアの]・バルラアムおよび、この男に次いでこの男の諸見解を抱き、奸策をもって遺恨を晴らそうと躍起になったアキンデュノスに対して組織された諸教会会議が含まれている。彼らは、おん父とおん子と聖霊とに共通する恵みおよび来るべき代の光――この光によって、まさにキリストが(タボル)山の上で輝かれることで、まえもってお示しになられたように、正しい人たちも太陽のように輝くであろう――を、一口に言って、三つのヒュポスタシスを有する神性のデュナミスとエネルゲイアとの一切を、そして神の本性と少しでも異なるものの一切を、造られたものであると教えていたのである。さらに彼らは、不敬にも、唯一の神性を造られたものと造られざるものとに引き裂いた。そして、あの神的極まりない光は造られざるものであり、一切のデュナミスとエネルゲイアとは神的であると主張する人たちを、神に本性的に属する数々のもの[神の本性的属性]のどれ一つとして言葉で言い表わしえないという口実の下に、二神論者であり多神論者であると名付け、挙げ句の果てには、我々をユダヤ人サベリオス派の輩であり、アリウス派の輩であるとまでいいのけたのである。しかし我々は、この男とあの男を、真の意味での無神論者そして多神論者として放逐する。そして、キリストの聖なる普遍の使徒的教会が、教会会議の決議文書および(ヘシュカストたちのための)聖山教書を通してまさしく行なったように、我々は、敬虔な人々の充満する団体から、彼らを完全に切り離す。
また、我々は、決してその単一性と単純性とを、諸々のデュナミスや(三つの)諸ヒュポスタシスによっても失わない、三つのヒュポスタシスを有する全能で唯一の神性を信じる。
*以上は、ネット版から、入手したものです。文中の赤字は、筆者(私市元宏)が特に注意を喚起したい箇所として指定したものです。数少ないパラマスの肉声を聞く思いがする貴重な訳業です。
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