1章 エイレナイオス
■エイレナイオスの生涯
エイレナイオスは(130年頃〜200年頃。生まれは115年説もある)、「2世紀最大の司教」と称されている。小アジアのスミュルナ(現在のトルコの西岸イズミール)の出身です。エイレナイオスが語ったこととして、エウセビオスは次のように伝えています〔エウセビオス『教会史』X巻(20)秦剛平訳より〕。「自分がまだ子供だった頃」、フロリヌスから、その師であった小アジアのスミルナ(現在のトルコのイズミール)の司教であったポリュカリポスのことを詳しく学んだこと、また、そのポリュカリポスが師として仰いだ主イエスの弟子でエフェソにいた使徒ヨハネのことや、エフェソのヨハネ共同体の長老ヨハネたちや、使徒たちの教えを受け第二世代の長老たちの教えを学んだと述べています。エイレナイオスは、この頃から、「異端」に対する警戒を深めたと推察されます。
彼は、小アジアの出身でありながら、どういうわけか、当時のガリア(現在のフランス)のリヨンの司教になりました。モンタノス派の問題を協議するためローマへ派遣されてローマに出ていたために(177/8年)、当時、ガリアで起こったローマ皇帝マルクス・アウレリウスによるキリスト教迫害を免れました。モンタノス派は、モンタノスによって小アジアのフルギアで始まった(157年)。モンタノスは、聖霊による啓示を受けたとして、天のエルサレムがフルギアに降り世界の終末が到来すると説いた。また、断食と禁欲と迫害の際の逃亡を禁じた。ガリアの司教(主教)フォティヌスは、90歳で殉教したから、ガリアへ戻ったエイレナイオスが、後を継いで司教(主教)になった。
エイレナイオスの業績として知られていることを二つあげると、一つは、当時キリスト教会を悩ませていたグノーシス主義を異端として批判する『異端反駁(はんばく)』(Adversus Hereses)全5巻(180〜85年)を著わしたことです。また、イエス・キリストの復活祭(ギリシア語「パスカ」)は、東方のパレスチナと小アジアで始まり、ユダヤ教の過越に倣って(太陰暦)、ニサンの月の14日(満月)に、断食を行ない、その後、聖餐と愛餐を祝っていました。これに対して、復活祭を遅れて祝うことになったエジプトのアレクサンドリアでは、ローマの太陽暦に従って、イエス・キリストの復活が日曜日であることを受けて、ユダヤ暦ニサンの月の14日(満月)の次の金曜日から日曜日にかけて、断食を含む復活祭を祝いました。この問題は、ポリュカリポスとアニケトゥスとの間で採り上げられてましたが(154年頃)、解決せず、エフェソのポリュクラテスとローマの司教ヴィクトル1世との間で再燃しました(190年代)。これが基で、ローマ側が、小アジアの教会を「破門する」という出来事へ発展します。この時、両者の朝廷を行なったのがエイレナイオスです。彼は、小アジアのヒエラポリスの司教フィリポや、「主の胸に寄りかかった使徒ヨハネ」や、殉教したポリュカルポスや、その他のアジアの指導者たちの名をあげてから、「わたしは、主にあって65歳になり、世界中の兄弟を交わり、聖なる文書(聖書)のすべてを学んだことを述べて、「人間に従うよりも、神に従う」ようにと日曜日を守るように説得しました。「断食に関する意見の相違こそは、わたしたちの信仰の一致をもたらしている」からです〔エウセビオス『教会史』X巻(23)〜(24)秦剛平訳より〕。
このようにして、彼は、ヴィクトルのごう慢を抑えると同時に、小アジア側にも日曜日の復活節を守るよう説得しました。その結果、ニカイア教会会議(325年)で、アレクサンドリアの方式が正式に承認されますが、東西の教会の暦の違いなどから、その後も長く一致を見ることができませんでした。現在では、ニカイア公会議の決定を受けて、春分(3月22日頃)の後の最初の満月の後の最初の日曜日と定められていますが、東方ハリスト教会は、西方教会よりも1週間遅れるようです〔『キリスト教大事典』910頁〕。
エイレナイオスは、その後も、ガリアの司教職にあったと思われますが、彼のその後のことはよく分かりません。殉教したという伝承もありますが確かでありません。
■エイレナイオスの神学
エイレナイオスは、旧新約聖書を驚くほど正確に深く読み込んでいます〔以下は、小高毅編訳『原典古代キリスト教思想史』(1)「エイレナイオス」105〜130頁を参照〕。彼は、聖書の霊性と信仰の有り様を忠実に受け継いでいますから、彼の文書を読むと、まるでわたしたちが、現在聖書を読んでいるのと全く同じ聖書解釈を実践していることが分かります。これは逆で、わたしたちのほうが、エイレナイオスの聖書解釈をほとんどそのまま受け継いでいるのです。その聖書解釈は、神の「知性」と、神から出た零肉を併せた「実体」と、神が、あらゆる善い物の源泉であるという信仰に基づいています。
彼は、四福音書の成り立ちを伝えています。とりわけ、エフェソのヨハネ共同体から出たヨハネ福音書を深く知っていますから、第一ヨハネ2章18〜27節で語られている「反キリスト」に基づいて、「身体と霊を切り離した」グノーシス派の異端を批判することができたのでしょう。受肉した神の御子イエス・キリストによって、罪の肉に宿る罪性が滅ぼされたこと。御子が、処女マリアから生まれたゆえに復活したこと。御子の死によって、地獄の牢獄の扉が破られて、死が滅ぼされたこと。人が、その身体をも含めて、御子の血によって贖われ、全き救いへと「教育される」こと。教会は神の御霊の宿りにあって、「聖霊の体」であること。その他、人の救いと悪魔への裁きの一切が語れています。
しかも、彼の聖書解釈には、小アジアのヘレニズム世界の知性による論理が働いていて、聖書の内容は、整然とした論理が奏でる協和音による協奏曲であると述べています。神は、人の背信に寛容で、その背信を通じて人を教育すること、聖霊が神の知恵にほかならないこと。人の不従順と不注意から神への従順と霊的洞察へ人を導くこと。敵意を創り出す悪魔に向かって逆にその敵意を投げ返すこと、人の肉の弱さが御霊の強さに飲み込まれたこと。人は、光に照らされて初めて、光の恵みを受けて光ること。そこには、人を神聖霊にあて教育するための、エイレナイオス独特の「まとめ」と「総括」の思想が働いています。
正統性と異端化へ