3章 オリゲネスの生涯と著作
■オリゲネスの生涯
 オリゲネスについては、有賀鐵太郎先生の『オリゲネス研究』有賀鐵太郎著作集(T)創文社(昭和56年)が最も詳細ですが、以下の記事では、小高毅編『原典古代キリスト教思想史』(T)初期キリスト教思想家(教文館1999年)「オリゲネス」と、エウセビオス『教会史』(2)秦剛平訳(山本書店)と、そのほかに、『キリスト教大事典』(教文館)の「オリゲネス」(有賀鐵太郎)と、『岩波キリスト教辞典』の「オリゲネス」(小高毅)と、英文では、The Anchor Bible Dictionary. Vol.5. pp.42--47. Doubleday (1992) と、Wikipaedia "Origen" なども参照しています。
  オリゲネスのことは、パンフィロス、カイサリアのエウセビオス(教会史で有名な名前として6人います)、ヒエロニムスなどによって伝えられています。オリゲネス(ギリシア名「オーリゲネース/英語Origen)(184/5年〜253/4年)は、エジプトのアレクサンドリアの生まれです。この町は、古代メソポタミアと古代エジプトの神話と宗教を受け継ぎながらも、アレクサンドロス大王の支配下に入った前4世紀末以降に、ギリシアの文化と哲学を受け容れました。その上、パレスチナからユダヤ人たちも多数移住していましたから、ユダヤ教も盛んでした。ヘブライ語の聖書をギリシア語に訳した七十人訳が出たのもアレクサンドリアです。アレクサンドリアには、ユダヤの思想家を代表するフィロン(前25年頃〜後45/50頃の間)が居ました。彼の(旧約)聖書解釈の方法論は、ギリシア神話の比喩的な解釈にヒント得て、聖書を比喩的に解釈するものでしたが、この方法論は、オリゲネスに受け継がれます。人口60万〜70万とも言われるアレクサンドリアは、1〜3世紀には、数十万巻を所蔵したと言われる図書館を有して、当時の地中海世界の学問の中心地でした。
 オリゲネス・アダマンティオスは、キリスト教へ改宗した父から、幼くして聖書を読むことを教えられます。ところが、17歳で、ローマ皇帝セヴェルス(在位193年〜211年)によるキリスト教徒への迫害(202年以降)があり、この折に父の殉教を体験します。彼は、6人兄弟(?)の長男だったので、若くして(17〜19歳)、家族の生活を支えなければなりませんでした。カイサリアのエウセビオスによれば、この時、彼は、グノーシス的な思想を抱く(?)ある金持ちの夫人の保護を受けますが、「その正統的信仰をはっきりと証しした」とあります〔エウセビオス『教会史』Y巻(2)〕。
  学問の才能に恵まれた彼は、アレクサンドリアのパンタイノスが自宅で開くカテーケーシス塾に入ります。この学院は、アレクサンドリアのクレメンス(ローマのクレメンスと区別)に引き継がれ、クレメンスがアレクサンドリアを去った後は、オリゲネスが引き継ぐことになり、アレクサンドリアの司教(主教)デメトリオス(189年に主教に就任し、232年没?)に認められて、彼はカテーケーシス学院の校長に任ぜられます(203年)〔有賀鐵太郎『オリゲネス研究』489頁〕。
 この時期に(203〜211年)、彼は、禁欲的な聖性に憧れて、自ら去勢したと思われます〔エウセビオス『教会史』Y巻(8)〕。宗教的な理由で去勢することは、当時珍しいことではありませんでしたが、キリスト教会は、意図的な去勢を禁じていましたから(申命記23章2節参照)、オリゲネス自身はこのことを伏せていたようです。しかし、この去勢は、後に彼への聖職剥奪の理由の一つにされました〔『オリゲネス研究』401〜410頁〕。
 オリゲネスは、同じアレクサンドリアのプラトン主義の哲学者アンモニオス・サッカス(175〜242年頃)に師事してギリシア哲学を学んでいます。視野が広く、しかも、透徹した哲学でキリスト教を解明する哲学者としてオリゲネスの名声が高まると、彼は、ローマを訪れて、ローマ教会の長老ヒュッポリュトス(170年?〜235年?)の講話を聞いています(210年)。ヒュッポリュトスは、当時ローマに伝えられていた三位一体に関する「様態論」を異端として批判していましたから、オリゲネスも彼に同調したのでしょう〔『オリゲネス研究』417頁〕。また、アラビアの太守に招かれて講演を行なっています(211年〜17年頃)。
 ところで、すでに老年であった主教デメトリオスは、アレクサンドリアの教会の規範に厳格で、平信徒身分のオリゲネスに、教会での講話を許可しませんでした。ところが、オリゲネスは、おそらく招かれて(?)、パレスチナのカイサリアへ赴きます(216年)。当時のカイサリアの主教と、カテーケーシス学院でオリゲネスと親しかったエルサレムの主教アレクサンドロスとが、共に図って オリゲネスをカイサリアへ招いたのでしょう。オリゲネスのカイサリアに滞在中に、彼は、両主教の依頼を受けて、教会で説教するという出来事が起こります。オリゲネスは、主教の依頼ならば、カイサリアでの教会の規範に従って教会での説教が許されると判断したと思われます。しかし、これをアレクサンドリアで聞いたデメトリオスは、オリゲネスの行為を善しとせず、彼に帰還を命じ、オリゲネスは、アレクサンドリアへ戻ります。
  この事があってから、14年後に、彼は、ギリシアの教会の異端問題を解決するために招聘を受けます(230年?)。オリゲネスは、デメトリオスからの推薦状を携えてギリシアへ向かいますが、その途中で、彼がカイサリアへ立ち寄った際に、旧友たちは、教会で聖書の講義をさせようと、彼に長老職につくことを奨めます。このために、彼は、カイサリアの主教から按手礼を受けます。ところが、このことが、アレクサンドリアのデメトリオスの怒りをかうことになります。デメトリオスは、アレクサンドリア周辺の司教たちを集めてアレクサンドリアで教会会議を開きますが、オリゲネス弾劾には到りません。そこでデメトリオスは、再び、自分の息のかかった司教たちだけを集めて会議を開き、オリゲネスの長老職剥奪を宣言します(いわゆる「破門」ではありません)。オリゲネスに対する聖職剥奪宣言は、ローマ教会を始め、アフリカと小アジアの諸教会に受け容れられます。しかし、エルサレムやカイサリアを含むパレスチナ一帯と、フェニキアとアラビア、それにアカイア(ギリシア)の司教たちは、オリゲネスを支持しました〔『オリゲネス研究』429頁〕。
 こうして、オリゲネスは、アレクサンドリアから追放され、以後は、カイサリアに滞在して、教会で聖書講義を続けることになり、カイサリアにキリスト教の教理を教える学校を開きました〔『オリゲネス研究』493〜95頁を参照〕。その後、デメトリオスが没すると(232年)、アレクサンドリアへ戻ったという説もありますが、確かでありません〔前掲書426頁〕。
 カイサリア滞在中に、彼は、『祈祷論』(233〜34年頃)や『殉教のすすめ』(235年)などの著書のほかに、ヨハネ伝注釈(後編)など、旧新約聖書の諸文書の注釈を多数著わします。彼のキリスト教哲学は、アタナシオスや、(ニュッサのグレゴリオスと共に)「カッパドキアの三教父」と称されるカッパドキアの大バシリウスとナジアンゾスのグレゴリオスなど、多数の人に大きな影響を与えました。しかし、ローマのデキウス帝によるキリスト教への迫害(249年に始まる)の折りに、捕らえられて厳しい拷問を受け、約一年後に、皇帝の死によって釈放されますが、間もなく逝去しました(253/4年)。
■オリゲネスの著作
 オリゲネスの著作は、数千冊(?)とも伝えられますが、実際に知られているのは八百巻足らずです。その、ごく主なものだけをあげます〔有賀鐵太郎『オリゲネス研究』491〜495頁を参照〕。
 アレクサンドリアでの著作では、『ヘクサプラ』(218年〜244年)があります。これは、ヘブライ語旧約聖書に、七十人訳など五つのギリシア語訳を並記したものです。『原理論』(220年〜230年?)は、ギリシア語断片とラテン語訳が遺っています。『ヨハネ伝注釈』(218年以降)は、32巻中1〜5巻のみギリシア語で遺っており、創世記注釈は、13巻中8巻のギリシア語原文があります(ラテン語の断片も)。
 カイサリアでは、『祈祷論』(233〜34年頃)と『殉教の勧め』(235年)のギリシア語原文があり、ラテン語訳では、『民数記略講解』(235年頃)や『イザヤ書註解』(238〜44年)や『ヨハネ伝註解』の6〜32巻(238年から)など、旧新約聖書のほとんど全般に及ぶ注釈があります。これらはラテン語訳が多く、ギリシア語原文は断片だけが多く残されています。
【付記】このシリーズの(3)(4)(5)(7)章のオリゲネスと正統・異端に関する章は、水垣渉氏の主催による研究会において、2021年7月7日に発表したものです。その際に、水垣氏による訂正が行われています。
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